【連載小説】息子君へ 118 (26 ほめられないと縮こまるタイプにならないようにね-5)
みんな他人の自己完結に付き合わされたり、話が通じないひとの話に付き合わされたりするのが大嫌いなのだろうけれど、それは数分くらいでもそういう嫌な気持ちに引き込まれてくるのが不快だからなのだろう。友達の自己完結に付き合わされると帰るときにはくたくたになって、もう会いたくないと思ったりしてしまうし、家族の自己完結に逃げ場もなく付き合わされ続けると、その相手に対しては心を閉ざして、そういう相手としてやり過ごす対象になっていくのだろう。相手がこっちをお構いなしに、一方的に自分の扱いたいように扱ってくるたびに、こっちの心が死んでいって、その関係も死んだような関係になっていくのだ。
そういうことは、そこまで悲惨な状況じゃなくても、いろんな人間関係の中でよく起こっていることなのだ。気持ちが通じている感じがしなくても、相手の振る舞いが自分にとって都合がよく思える間は、バカにしながらも、それに甘んじていられるけれど、飽きてしまえばそれに付き合っていられる期間も終わりになる。恋人に尽くすという感じでいろいろしてあげたがるひとが、最初はいい感じでも、すぐに飽きられるのもそういう流れだったりするのだろう。どうでもいいひとでも、ちやほやしてくれればなんとなくうれしい気がするから使えなくはないけれど、そのひとのほめてくれ方に慣れて、刺激として心地よさが徐々に減って、あまり好きじゃないひとが近くにいることの不快感の方が上回ってくれば、あっという間にほめようとしているのにかえって嫌がられることになって、関係は破綻してしまう。
君だって同じことになるのだ。君のお母さんがかわいがるモードになって、かわいがる対象としてしか君のことを見ていない状態になるたびに、すでにお母さんにかわいがられることに飽きてしまっている君は、自分のことをまともに感じていないひとが自分に向かってあれこれ言ってくるという異様な状況に対応させられて、そのたびに、他にどうしようもなくて自分の心を停止させることになるのだ。
俺が母親の愚痴にキレそうになりながら、頭が詰まってきてぐらぐらしていたのは、実家を出て以降だった。だから俺はそれに慣れる必要はなかったし、全力で母親に対していらいらしていればよかった。けれど、君の場合は、生まれてからずっとで、ものごころがついた頃には、もう完全に飽き飽きした状態で、君のお母さんが君に顔を向けてうれしそうにし始めると、またかと思って、頭がすっと活動を低下させていくようになっているのだろう。ものごころがついた時点でそんなふうにさせられているなんて、本当にかわいそうだなと思う。
過干渉でかわいがりたがる母親というのは、コミュニケーションは成り立たないし、勝手に喜んで、勝手に満足していうし、子供の側からすると、拒絶するか、相手の思うままにさせるか、消極的に受け流すか、そのどれかでしか関われないような存在だったりするのだろう。そういうひとと毎日一緒にいるのと、こちらの今の気分をそのつど確かめながら語りかけてくれるひとと一緒にいるのとでは、他人との基本的な距離感とか、接し方とか、他人が近くにいるときの基本の気分とか、そういうものにも違いが出てくるだろう。
それはかわいがるときだけの問題じゃないんだ。どういうやり取りであっても、相手の自己完結に付き合わされていると、そういう方向に気持ちが引っ張られていく。虐待も、何をしろと小言を言われるのも、あれこれ心配されるのも何でも同じで、感情じゃないもので話しかけられているのに、話しかけている本人は自分が言うべきことを言っていると思っていて、そういう何もかも独りよがりの相手の頭の中だけでそうなっているだけの話に延々と付き合わされるたびに、心はダメージを受けてしまう。だからといって、親が相手だと、無視したり気持ちのままに反応すると、相手から逃げられるわけでもないから、かえって厄介事が増えるからと、自分の感情ではないもので相手が満足するまで応対するしかなくて、その間は完全に感情とは別のもので振る舞うしかなくなってしまう。
生まれてからずっと、一番近しい相手から、生活の何もかもについて、そういう接し方をされ続けたのなら、そのひとはどうなってしまうんだろう。自分がしたいことをしているときだけしか自分の頭はまともじゃなくて、他人に付き合わされているときはだいたいいつも心が止まっているような子供になっていくしかないのだろう。けれど、そういうひとというのは、特に男だと全く珍しくなかったりもするのかもしれない。
マザコンの男が、母親に接しているとき以外でも、何かしら異様なものを感じさせるのは、マザコンにさせるような一方的に干渉し続ける人間に干渉させっぱなしにしながら人格形成してきたようなひとだからというのもあるのかもしれない。逃げ場のない干渉に屈服させられるところから人生がスタートすることで、他人に鈍感で、自分に都合のいいことしか感じていなくて、それに恥も感じないような傾向のある人間になっているというのはあるのだろう。
過保護で過干渉な母親に身の回りのことを何でもやってもらってきた男は、ある程度大きくなったときには、母親が身の回りのことをやってくれていても、抵抗しないだけで、どうでもよさそうにしている場合が大半なのだろう。そうやって母親からベタベタされるのをそのままにしている時点で、他人から見ればマザコンだとしても、男の中には、世話をしてもらっているときに、リアルタイムで相手への感謝とかうれしい気持ちというのは発生していないのだろう。自分の召使いなのだから、何かやらせてあげないとかわいそうだからやらせているけれど、やらせてあげる間、終わるのを待っていないといけないのが不愉快だし、飽きもせずに何度も何度も何がしたいんだろうなと軽蔑するような気分でいるくらいなのだろう。それでも、常に自分の味方をしてくれる存在は母親だけで、他の人間関係は簡単に利害が対立したり、ちょっとしたことでストレスも蓄積するから、そういう相手よりも母親を優先することが多くて、それによって実質的にマザコン的行動をとることになっているという感じなのだろう。
そこにどれくらい当事者間の感情の行き来があるのかということだと、いかにもマザコンらしいマザコンというのは、かえって空っぽな関係だったりもしているのだろう。マザコンにはならなくて、むしろできるかぎり親との関わりを避けているようなひとたちも含め、世の中には親に対して心が死んだ状態で長い時間を過ごしすぎて、他人全般に対して心の動きが鈍くなってしまったようなひとがたくさんいるのだろう。
もちろん、親との間で人間全般への不信感や軽蔑心を胸いっぱいに詰め込まれて育ったからといって、自分のことを自分でできるようになってからの新しい人生経験によって、その鈍くなってしまった感覚だって、だんだんとほぐれることはあるのだろう。けれど、そういう出会いが遅いほど、まるっきり新しい人間観を自分の中に作り直すことは難しくなるのだろうし、親の自己完結に嫌な気持ちになった時間は一生そのひとに影響を与え続けるものだったりするのだろう。
君にしたって、自分のことをかわいがりすぎるお母さんに対して、軽蔑する気持ちとセットでしかありがとうと言えない時間をやり過ごし続けて、極限まで形骸化した関係を親との間に作っていくことになるのかもしれないのだ。
俺の母親はその真逆で俺を育ててくれた。母親が俺に一方的に話していたのは、母親にとっても特殊な状況だった。病気になって感情的に不安定になっていて、精神的な体力も消耗していて抑えがききにくくなっている状態で、積年の恨みのこもった話だったから、俺に話しながらも、自分の中の恨みの感情に引きずり込まれて、自分の中に閉じこもった喋り方で、一方的に喋り続けてしまっていたのだろう。俺が大人になって、もう実家を出ているから、話しても家族のつながりにひびを入れることにもならないと、やっと話せると思って話してくれていたわけで、本当に自分が辛かったことをわかってほしくて話していたのだと思う。俺はそれをちゃんと聞いていたし、辛かったのもそれなりにわかったうえで、むしろちゃんと聞いていたからこそ、一方的な話し方に怒りがこみあげていたのだと思うし、怒りがどれだけ俺の中に充満していても一方的に話し続けられていたから、心が死んでいってしまったのだと思う。
俺が生まれてから実家を出るまでの間、全くそういうことはなかったのだ。愚痴られる以前に、母親の感情を押し付けられた覚えすらない。もちろん、俺が実家にいた間に、それほど話し込むことがなかったからというだけだったりもするのだろう。俺が娘として生まれていたら、もっとたくさん会話をして、いろんな感情的なぶつかり合いもあって、話題によっては母親のスイッチが入ってしまって、恨み言をひたすら聞かされるようなこともあったのかもしれない。けれど、俺にはそういうことはなくて、ただ見守ってもらって、好きにさせてもらっていただけだった。
それにしたって、母親はそうしようとしてそうしていたのかもしれない。俺が大人になって、親から精神的に切り離されるまでは、感情的に相手を強く縛ってしまうことになるかもしれない話はしないようにしてくれていた可能性もあるのだと思う。自分の悲しみに同調させることで、無思考に母親の悲しみに寄り添って、母親の味方をしようとする息子にするのはよくないと思っていたというのはあるのだろう。
俺の母親にとって、俺の父親はマザコンだった。俺からすると、特にマザコンというほどではなかったけれど、苦労してばかりだったかわいそうな母親を守ってあげようとする子供心のまま、考えなしに母親の味方をする男ではあったのだろう。俺の母親は、子供を自分の味方にするために悲しみや辛さをアピールすることも軽蔑していて、だからずっとそういうことを話さないようにしていたのかもしれない。
俺は母親が俺に一方的に話していたときに、母親から嫌なことをされていると感じていたわけではなかった。それでも、一方的に話されることは苦痛だし、こっちが何か言ってもそれが通じないことも苦痛で、二十分くらいでかなりいらいらしてきたけれど、それが二時間三時間になって、本当に我慢ができなくなってきたことで、相手の話を遮って話を終わるように、怒りに任せて母親を拒絶するようなことを言っていたのだ。もちろん、別に思ってもいないことを言ったりはしなかった。父方の祖母が人間的に卑小だというのはわかっているし、言っていることももう何度も聞いているからわかっているし、かといって、自分の身内にそういう言い方をされるのも不愉快だし、それを延々とこんなふうに言われてもまともに受け入れられるわけがないだろうと言っていただけだった。
けれど、そういう長い話の末に俺が怒るのを十年以上に渡って、十回以上繰り返したあとだったけれど、どうしてあなたは私の子供なのに私の味方をしてくれないのかと言われたときに、父親のように無条件に母親の味方をするような息子にならないように育てたのはあなただろうと言ったら、それにはひどくショックを受けたようで、俺が東京に戻ってから、言われたことを考えた、あなたの気持ちもわかりました、また話しましょうというようなメッセージが送られてきていた。そして、それからは、話をしたとしても、そこまで感情的にならなくなってはきた。子供がマザコンじゃないのは、かわいそうなことなんだなと思いもするけれど、かといって、俺はあまり誰の味方をする気もない自分の感じ方を自然なものに思っているし、何かに縛り付けて、他人への気持ちの向かい方を歪めてしまわないようにしてくれた母親はえらかったなと思っている。
人間の心の動き方というものを考えたときには、一方的なことをされることは、絶対的によくないことなんだ。その行動が善意によるものなのかどうかというのは、そこでは全く問題にならない。
君は相手に悪気がないからと、一方的なことをされることを当然のことのように受け流してはいけない。一方的であるかぎり、それは常に侵害なんだ。少なくても、相手の気持ちを感じているひとからすれば、こっちが気持ちを感じ取ってそのうえで合わせているのに、それを無視して一方的なことをされるのは、どうしたって怒りのような感覚が自分の中に発生するのを抑えられないことなんだ。君にだって、噛み合ってなさへの嫌悪感のようなものが生まれつき備わっているはずで、君は一方的なことをされることに慣れて、その感覚を鈍くさせていってしまうべきではないし、善意だからと一方的に誰かをほめて、自分が望むようなリアクションをさせようとしたりしてはいけないんだ。
そのひとにはそのひとのタイミングがというのがある。自分を喜ばせる行為をしてもらいたいと思っていない場合もある。こういうことでは喜びたいけれど、どういうことではうれしい気持ちにはならないし、なりたくもないというのも、ひとそれぞれにある。喜ばせたいという気持ちは、攻撃ではないとはいえ、誰にとってもいつでもありがたく感じるものではないのだ。善意なんだから、とりあえず喜んでくれるだろうという考えのひとはいるだろうけれど、そうは思っていないひともいる。自分に対して空回りせずに、自分をちゃんと感じて、自分の今の気持ちを確かめて、自分と噛み合ったトーンで自分に対して何かを言ったり何かをしたりして欲しいと思っているひとたちもいる。こっちがそういうことについてどういう気持ちを持っているひとなのかをまともに想像したわけでもなく、自分の思いついたやりたいことを勝手にやっただけなのに、喜んでもらえるはずだという顔をされていると、このひとは自分の何を見ているんだろうと悲しくなるひとたちもいるんだ。
君のお母さんが、サプライズみたいなことをちょくちょくやってあげたりすると自慢気に話していたのを聞いて、ぎょっとしたことがあったけれど、それだって同じようなことなんだ。君のお母さんのサプライズは、それをしてもらうこと自体は相手からして何の違和感もないことをサプライズ形式でやってあげるのではなく、彼氏がひとりで行った旅行先で待ち構えたり、自分の誕生日に、自分はその日用事があると言っておいて、留守中の彼氏の家にあがりこんでパーティーの準備をして待ち構えたりするような、びっくりしすぎるし、どうしてそんなことをするのかわからなくて怖くなるような内容だった。俺がそんなことをされたら、すごく嫌な気持ちになるだろうなと思ったし、けれど、確かに君のお母さんはいかにもそんなことをしそうだし、サプライズをしている現場で、相手が反応に困っていたり、なんだかなという顔を我慢して、驚いていたり、楽しんでいたりする感じでノリを合わせている顔を見ても、その苦々しさを感じ取ることはできないのだろうなと思った。
そもそも感じ取れないのなら仕方がないのだろうとは思う。けれど、サプライズをしようと考えて、実際にやってしまうまで、どれだけ自分が楽しい気持ちになれたからといって、相手は不快だったり迷惑に感じるかもしれないということを一瞬も考えないというのは、あまりにも現実を見ようとしていなさすぎだろう。
自分のいきすぎたサプライズは空回りする可能性がけっこうあることをわかっていて、失敗して嫌な顔をされてもいいと思っているのなら、サプライズでも何でもすればいいのだと思う。けれど、そういうわけでもなく、自分がこんなに楽しんでやっているんだから相手も楽しんでくれるはずだと思っているのだとしたら、今までの人生でいろんなリアクションをされてきたはずなのに、そんなにも人々が自分に向けていたたくさんの顔から何も感じないままでやってこられたのかと恐ろしくなってしまうだろう。
そして、君のお母さんは実際にそんなひとだったのだし、だから俺は、そんな感じ方で生きる人生というのが、あまりにも自分が生きている人生をかけ離れているように思えて、君のお母さんと話していて、君のお母さんらしさのようなものを感じ取るたびに、君のお母さんがそんなひとであることに何を思えばいいのかわからなくなっていたのだし、そのせいで何も言えないまま黙ってしまったことだって何度もあったのだと思う。そして、俺がどういう瞬間にひっかかって黙っているのかだって、君のお母さんは全く感じ取れていなかったのだろう。
君のお母さんはそんなにまで感じていなくて、そんなにまで一方的なことを平気でやれてしまうひとなんだ。それは君のお母さんが、ひとの気持ちを自動で感じ取って、感じ取った感情にとりあえず同調して、お互いが顔を向け合いやすい一体感みたいなものを維持するというのをいつでも自動的にやっているひとではないからというのが大きいし、それは生まれつきなのか育ちなのか、どちらにしろ、ものごころがついたときにはそうだったのだろうし、君のお母さんが悪意によってやっていることではないんだ。
君のお母さんは、君が何かを思いながらいろんなことをしようとしているのを見ていても、長いスパンで君の中に発展していくものをイメージしながら、君のことを見守っていることができないのだと思う。君が何かしたら、それに何か反応してあげたいと思うばかりで、ほめられそうならほめたり、そのとき何か教えてあげられそうなら教えてあげたりとか、できるだけ君に何かしてあげようとしてしまうのだと思う。
君を眺めているだけで、君のお母さんの頭には、君にしてあげたいことがたくさん浮かんでくるのだろう。今この瞬間だって、いっぱい君を楽しませてあげたいと思って、延々と君に笑いかけながら、何かをやってあげようとし続けているのかもしれない。そして、何かをやってあげるとして、一番簡単で一番何も考えなくてもできることがほめることなのだ。だからこそ、君のお母さんは、君が何かしようとした時点ですでにほめてあげようと待ち構えるようにしてしまうのだし、そんなふうなのに、何がどうであれば君はもっとリラックスできるんだろうかということを感じ取ろうとしながら君を見守るなんて、単純にありえないことなんだ。
君のお母さんは、そういうことを自分でわかっていないんだよ。それはそうなのだろう。一方的なことをできるのは、相手のことを感じていないからなんだ。相手のことを感じていないから、サプライズをやったことで相手からヤバいひとだなと思われていてもわからなくて、相手がびっくりしてくれたことに満足していられるんだ。
俺も一緒にいて、このひとはどうしてこんなに俺の気持ちをわかっていないんだろうと思っていた。俺は君のお母さんが何かしていたり、喋っていたりするのを眺めていても、何を思っているのかわからないときがほとんどだった。それは君のお母さんが、俺と一緒にいるときに、俺の気分に寄り添うために自分の気持ちを動かしてくれていなかったからなんだろう。だから、心の動きが見えなくて、頭の中で何かを考えているらしいということしかわからなかったのだ。
君だってそうなるのだろう。君が一方的にほめられてつまらなさそうにしていたって、君のお母さんはそれに気が付かない。そして、君が俺の息子なら、そのうちに、わかってくれないお母さんが何を思ってそんなことをし続けているんだろうと、不思議な気持ちになるのだろう。そして、不思議な気持ちでお母さんの顔を見ていても、どういうつもりでほめたがっているのかわからないし、それだけではなく、いつも通りお母さんをやってくれてはいるけれど、このひとは自分のことをちゃんと見てくれているんだろうかとか、自分が言ったことに何か思ってくれているんだろうかということも、確かめようとすればするほどわからなくなってしまうのだろう。
それでも、いつも通りお母さんと息子をやっているには困らないから、そのまま月日は流れていってしまうのだろう。そんなふうだからって、君は幸せな子供時代を過ごせるのだと思う。俺はそれを疑っていないし、ちゃんと幸せに育ててもらえるのだから、君のお母さんが君の母親でよかったねと思っている。
けれど、いつか、君が何かわかってほしいことがあったときに、君は君のお母さんを前にして、こういうひとに何をどう言えばわかってもらえるのか、全く見当もつかないことに、あっけない感じに、どうしようもなく絶望してしまうのかもしれない。
俺はそうだったし、君は俺の息子なんだ。君の心が君のお母さんに対してそんなふうに反応したって何もおかしくないんだよ。
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