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多くの人は犬にかわいいと言いながら、その犬がどんなふうにかわいいのかほぼ感じていない

(こちらの記事の続きとなります)

とにかくみんな何もかもが面倒なのだ。

食べたものを味わうことも面倒だし、目の前にいるひとの気持ちを感じるのも面倒だし、音楽を聴きながら自分の身体がどう反応しているのか自分で感じ取るのかも面倒だし、映画を見ながら自分の気持ちや自分の記憶が、目の前のイメージにどんな刺激を受けているのかと寄り添うことも面倒なのだ。

自分がぱっと思いたいことを思えたら、あとは心地よい刺激に浸りながら、頭ではぼんやり自分がそのとき思っていたいことを思っているだけでいいのだろう。

作品はいらなくて、エンタメだけでよくて、他人とも、楽しい感じで過ごせればよくて、誰の何も感じなくてもいいし、知りたいとも思っていないのだ。

それは大げさな言い方ではないだろう。

何も面倒くさがっているせいで、自分が何であれほとんどまともに感じていないということを全く自覚していないひとはたくさんいる。

そういうひとは、食べているものがどういう味だなと、ゆっくり口の中の感触に浸りながら、どうのこうのと言っているひとを、食べることにこだわりがあって、よくわからないことをああだこうだ言いたがるタイプのひとだと、面倒なひと扱いして、感じているはずのものを素通りして、一口目の美味しい感じをさっと楽しめればそれで満足というような食べ方をしている自分たちを普通だと思っている。

食べるのでも、音楽を聴いたり映画を見たりするのでも、ひとと関わるのでも、そういうひとの方が圧倒的に多数派なのだ。

若者ですら楽しければいいとしか思っていないひとが増えていっているというのも、それとひとつながりの問題なのだ。

楽しければいいとか、美味しければいいとか、それだけしか思っていなければ、ちゃんと感じなくても、刺激として消費しているだけですむ。

それですむというより、その方がいいということなのだろう。

みんなとにかく疲れたくなくて、だから目の前のことをちゃんと感じたくないし、よくわからないことは考えたくなくて、だからルールばっかりで、マニュアルばっかりの、マナーばっかりになってしまうとしても、それによって文句を言われる可能性が減って、コミュニケーションが難しい状況になる可能性を下げられるならと、自分から型にはまった楽しみ方や考え方や喋り方の中に没入していくのだろう。

世の中全体がそうなっているんだから、誰もがそれに付き合わされ続けることになるのだろう。

だからこそ、そういう世界の中で、自分がそうしようとしたときには心のスピードで目の前のものを感じられるようになっておくことが大事になるのだと思う。

世の中というのは、どうしても基本何もかもが早い者勝ちで、だから人間のすることは何もかもが人間にとって速すぎてしまう。

けれど、世の中がそうだとしても、個々人の関わりというのはまた別のものとして守らないといけない。

日々の思うようにならない生活のスピードに流されるままになって、ずっと何もかも頭の中で速く考えて速く次にいこうとするばかりで、他人に顔を向けているときにも、速くしか相手の気持ちを感じてあげられなくなってしまっているようなひとは、楽しさでしか他人とつながれなくなってしまって、特別さでは他人とつながれなくなってしまう。

心の動くスピードで自分に接してくれるひととしか、エピソード以外のものを共有することはできないのだ。

頭のスピードでしか自分のことを見てくれないひとは、一緒に楽しくやれたとしても、あのとき楽しくやれたとか、あの頃一緒に頑張ったとか、何かしらのエピソードを共有した相手としてしか自分を見ていないし、それはシチュエーションの構成要素の一つとしてしか自分のことを感じていないということで、自分の人格に何かを感じてくれていたわけではないのだから、そのひととの間にエピソード以外の何かが残らないのは当然のことだろう。

かといって、自分がどういうひとなのかをまともに感じようとしてくれるひとなんて、ほとんどいなかったりするのが普通だったりするのだろう。

親だって、自分に対して、いっぱいかわいがってくれるし、大事に扱ってくれるけれど、自分がどういう気持ちの動き方をする人間なのかということを知っていきたいというモチベーションで顔を向けてくれることはないのだろう。

そんな親に慣れたひとは、友達が自分のことをそういうキャラのひととしか感じてくれていないことに何も感じないままで子供時代を過ごすことになるのかもしれない。

彼女ができても、彼女が彼氏扱いしかしてくれなくて、自分がどういうひとなのかということに興味を持ってくれなくても、それを当たり前のことに感じて、セックスして一緒に眠れるような恋愛ができるようになって何人目かに仲良くなった女のひとと、何をしていなくても一緒にいて何か思ったことを喋りながらお互いの顔を見ているだけでいい気分でいられるような関係を持つことができるようになって、そこでやっとお互いの人格に興味を持ち合うことでつながるというのがどういうことなのかを知るような人生になってしまうのかもしれない。

特に男の子たちは、男の子の集団の中で育つことになる。

一部の悪くない意味でナイーブな男の子たちを除いて、粗雑な子たちも、オタク的な子たちも、全然ゆっくりと目の前のものを感じようとしない子たちばかりなのだろう。

そういう中で、男の子たちは、どんなふうに思春期を過ごすことになるんだろう。

いつでも条件反射みたいにして、こういうときはこういうふうに言っておくものだろうとすら思わないで、それらしいことを思い浮かぶままに言ってしまって、相手からそうじゃないのになという顔をされても、ちょっと考えようとはするけど、二秒くらいで何も出てこないからと、よくわからないし別にこれでいいじゃないかと思って考えるのをやめてしまうようなひとがとてもたくさんいるのだろう。

そういうひとたちは、自分を普通だと思っていて、そして、そんなふうに自分を普通だと思っているひとたちで輪になって、こういうときはこういうふうに言うものだからというのをみんなでなぞるようにして、みんなでいつものパターンをうまくやれている一体感を楽しんでいるのだろう。

そういうひとたちはそういうひとたちで楽しくやっているのだろうし、楽しそうに見えるのだけれど、かといって、その楽しさというのは自分が何を感じているのかとは関係のない楽しさだったりする。

むしろ、楽しくやるために自分の感じていることに蓋をして、パターンをなぞることの楽しさだけしか感じないようにすることで楽しくしているようなことだったりする。

例えば、犬がいたときに、とりあえずいつでも最短で楽しくなりたいひとは、さっさとかわいいと言って、まるで本当にかわいいと思っているかのように気分になろうとする。

そういう条件反射的にかわいいと言っている姿は、犬に対してだけではなく、いろんなことについてよく見るものだろう。

楽しさのために、感じないようにするというのはそういうことなのだ。

犬はかわいいものだけれど、かといって、犬はかわいいのかということだろう。

犬がいるのが目に入って、心が何かを感じる前に、頭が喋りたがるままに、即座に犬にかわいいと言うひとは、これは犬だよね、犬ってかわいいんだよね、知ってるよというふうに、それが犬であることを認識して、犬はかわいいということを知っている自分にうれしくなって、かわいいと言っているだけだったりするのだ。

心とは別のもので生きているというのは、まさにそういうことなのだ。

その犬の姿や目つきや息遣いが目に入ったのに、どんな犬っぽいのか一瞬も感じようとせず、犬だ、犬かわいいと思ってすませるひとがとてもたくさんいる。

できるだけ何も感じないようにしていて、自然とか建物ならまだしも、動物で、自分と目が合ったりしても、そんなくらいにしか感じていない。

目に入った瞬間にそのものにはそのものの存在感みたいなものを感じ取れるはずだろうに、そうはならないのだ。

ほとんどの犬が強烈にかわいらしさを発しているかもしれなくても、どうしたって犬であるだけではかわいくないはずなのだ。

その犬がそのとき何かをしていて、その仕草とか佇まいとかそういうものに、かわいいなぁと思わされるわけで、犬だからかわいいということは、そもそもありえない。

病気とかで痛みに耐えていて普段の十分の一も元気がない状態の犬もいるし、しつけで飼い主以外とは目を合わせないようになっている犬もいるし、かわいがってもらっていなくて表情が動かなくなっている犬もいる。

けれど、感じる前にかわいいと言うひとは、とてつもなくたくさんいる。

犬にかわいいと言い、赤ん坊や子供にかわいいと言い、服にかわいいと言い、おもちゃにかわいいと言い、女のひとにかわいいと言う。

感じているものをほとんどまともに感じていないひとたちの世界とはそういうもので、そう言っているからって、実際は何も感じていなかったりするのだ。



(続き)


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