【連載小説】息子君へ 117 (26 ほめられないと縮こまるタイプにならないようにね-4)
生まれつきあまりひとの気持ちがわからなかったり、いろんなことに傷付きすぎていて、ひとに対して心が閉じてかかっているひととか、言われたことをやっているんだからそのぶんケアしてほしいと思っているようなひとが増えてしまったのだから、そんなふうになるのはどうしようもないのだろう。そして、そういうひとが三割以上とかという集団なら、やみくもにほめている方が正解という感じにはなってくるのだろう。よかれと思って、一生懸命何かを伝えようとしても、どんなふうに傷付かれるかわからないし、相手にやる気があること自体がやる気のないひとにとっては暴力のように感じられたりもするのだろし、そうなっていくと、みんなそれぞれに素晴らしいので、もしよかったら、それぞれのペースで主体的に頑張ってみてくださいとしか言えなくなってしまうのだろう。
そして、そんなにも自分のことしか考えていないし、ひとの気持ちもわからないひとが増えているのだし、新しく上司になるひとたちにも、そういうひとが増えてきているのだろう。
ひとの気持ちがわかっていないのだから、そういうひとが上司になっても、ひとの気持ちを感じているひとたちにとって納得感のあるマネジメントができるようになっていく可能性はどうしたって低いのだろう。部下が仕事に取り組む中でいろんな状況に対処している姿を見ていても、そのひとの気持ちを受け取っていなくて、自分なりにきっとこういう気持ちなんだろうと推測しているだけだから、そのひとがどんなふうに頑張っていたという話をするときには空回りしがちになるのだろうし、相手と自分の向かい合ったときに発生している信頼関係のようなものをベースに喋るのではなく、自分の立場として何を言ってあげるのがいいのか、頭の中だけで考えたようなことを言うことになるのだろうし、他人のやったことについてだけではなく、自分が言いたいことを話すときでも空回りがちになるのだろう。
だからこそ、あれこれ考えずに、コミュニケーション面では、ひたすらほめようとすればいいと、それだけを考えてやってくれたら上出来というつもりで、新しく上司になるひとたち向けの主張として、一番組織にとって問題になってきそうな、ひとの気持ちをわかっていないひとをターゲットにして、とにかくほめておけというアナウンスを繰り返しているということなのかもしれない。
もちろん、それは共感能力が低くて、なおかつ、自分のことしか気にしていないひとの場合なのだろう。共感能力が低くても、他人に興味を持って、ひとがやっていることをいろいろ気にして、細かく観察して、いろんなことに配慮しながらひとに思うことを伝えられるひともいるのだ。けれど、そうなってはいけなかった、自分のことしか考えていなくて、格好つけで、いばりたがるようなタイプの、ひとの気持ちがいまいちわかっていないひとたちというのは、もっとたくさんいるのだ。
俺の六本木時代の上司にしても、完全にそんな感じだったのだろうと思う。そのひとは共感能力はやや低いくらいで、発達障害のグレーゾーンだったにしても、薄いグレーくらいだったのだろうけれど、劣等感が強くて、虚勢を張り勝ちで、すぐに自分の頭の中で盛り上がってしまって、あまり目の前の相手と感情的な一体感を維持できないタイプのひとだった。
その上司にしろ、まさに自分にうってつけの、とにかくやみくもにほめておくのが一番マシになるパターンの上司向けのビジネス系の記事とか本とかを読んで、ほめるのが大事だということを鵜呑みにしていたからなんとかなっていたのだ。その上司がとにかくほめた方がいい上司なんだと思い込んでくれていなかったら、そのひとの他人を小馬鹿にした態度や物言いが常に垂れ流されていたのだろうし、俺も他のひとも、どこかの段階で本気で腹を立てて、事業部長を巻きこんで、どうにかしろという話になっていて、その上司もへそを曲げて会社を出ていったりしていたのかもしれない。そのひとの場合、自分らしく部下に接していたら、まともに上司なんてやっていられなかったのだ。
共感能力が低くて自分のことしか考えていないひとは、若いひとを中心に増え続けているのだろうし、それは新しく上司になる年代のひとたちにしてもそうだったりするのだろう。だから、そういうひとが多く混じっている平均レベルの集団のマネジメントでは、上司と部下の両方にとって、とにかくほめておくしかないと思っておくというのが一番無難で妥当な考え方になるということなのだ。けれど、気持ちに気持ちで反応することができないひとが一定以上増えてしまったら、それはもう誰にもどうしようもないことだったりするのだろう。
実際、世の中のコミュニケーションのあり方は、相手が自分はデリケートだと主張するクレーマーかもしれないことを前提にして、マナーでがんじがらめになっていきつつあるのだろう。
君は自分がそっちに当てはまらないことを自覚して、そんな最大多数の幸福に付き合わされるのはいい迷惑だなとずっと思っていないといけない。それは、ほめられないとやっていられないひとたちが多く含まれた場所ではそうだというだけで、自分の場所がそうだというわけではないと思って、自分の場所はマナーで汚してしまわないように気を付けないといけない。
それは例えば、漢字が読めないひとが増えすぎたときに、全部ひらがなの文章ばかりが流通することになって、ちょっとしたメッセージもとりあえず全部ひらがなで送った方が無難という感じになってきてしまったとして、けれど、普通に本も読んだりする同士の友達とかがいるのなら、そのひととはちゃんと伝えたい伝え方で伝えるように気を付けた方がいいとか、そういうような状況をイメージしてみればいい。君は、自分はほめられる必要がないひとなのに、それが必要なひとたちのせいで、うんざりするものに付き合わされていると思っているべきなんだ。そして、自分と同じようなひとに、同じだと気が付いてもらえるように、そうしてあげないとしょうがないひとに対して、とりあえずほめるみたいなニュアンスを付けて話すときには、やりたくないけれどマナーとしてやっているというのが、ちゃんと君を見ているひとからすればわかるような態度でやっていた方がいい。君の人生の中心は、仕事以外には、お互いの気持ちを感じ合える誰かとの関わりになる。どれだけ長時間、話をまともに聞いてくれないし、こっちに興味のないひととの関わりに忙殺されているからといって、そっちに過剰適応することはないんだ。
俺がほめるということをどういうことだと思っているのかわかっただろう。そして、どうして君のお母さんのことをそんなにも心配しているのかというのもわかっただろう。
君のお母さんが、自分は母親と違ってまともだし、優しいし、親切だと思っているのは確かだろう。そして、実際に君に対しては、ひたすら善意ばかりで接するのだろうし、ひどいこともしないし、意地悪なこともしないで、君が喜んでくれるのが一番だと思って、君が喜んでくれそうなことをあれこれやり続けてくれるのだろう。そうすると、実際には自分の母親が暴力や意地悪で自分を支配しようとしていたのと同じように、かわいがったり、ほめたり、先回りして楽しいことを用意してやらせてあげたりすることで、子供を操作して支配しようとしていたとしても、動機が意地悪ではなく、かわいがってあげたいとか守ってあげたいという善意でやっているんだから、自分の母親とは逆に、自分は子供にすごくいいことをしてあげていると思っていられてしまうのだ。
君のお母さんが君をかわいがりすぎてしまうのだって、共感能力の希薄さもあるにせよ、それ以上に、人間とか自分とか世界それ自体への興味のなさが問題なのだろう。君のお母さんにとっては、自分がどう働きかければ何が起こって、それによって自分が何を得られるのかということが、自分と世界との唯一のつながり方なのだろう。だから相手にとっていいことを感じ取ってそれをしてあげられなくて、自分がしてあげたいことを自分がしてあげたいからという理由だけでやり続けてしまえるんだ。
見守ってくれているだけいいし、ほめられることでうれしくなれる身体にならない方が、鈍感になるスイッチを身体に増やさずにすむのに、君のお母さんはお構いなしに君をかわいがってくるんだ。君の肉体や君の心が今どんな状態なのかということを落ち着いて確かめることもなく、自分が何か思いつくたびに、それに君を付き合わせようとしてくる。悪気がないし、自分が母親にやられたことの逆をしてあげたいと思うのだから、とてつもなくかわいがってきて、とてつもなくほめまくってくるのだろう。
ほめることによる干渉は強力だから、君はそれに付き合わされざるをえない。そして、容赦なく君の心は歪まされていく。猿にボタンを押させる実験だって、どの猿にやってもほぼ同じ結果になるのだろう。人間の小さい子供だって、ほめて喜んで、ほめられたがる子供にするのは、ほぼ確実にそう持っていけてしまうのだろうと思う。
俺が君のお父さんだったなら、君のお母さんがかわいがるほどにいいことをしてあげている気になって、君をかわいがられることに過剰適応した鈍感な子供にするのを止めることもできるのに、俺が君のお父さんになってあげられなくて、本当にもうしわけなく思っている。
君は鈍感にさせられてしまうだけじゃないんだ。鈍感だからバカだったり、鈍感だからのろまとはかぎらないけれど、ほめられてばかりいると、ひとはどんどんバカになっていく。
ほめる方が子供が自分の能力を伸ばしていくものだとしても、それは適切な範囲でほめている場合の話で、過度にほめられすぎたり、過度にかわいがられすぎると、ひとはバカになっていくものなんだ。自分をいつもほめまくってくるようなひとと日常的に多くの時間を過ごさないといけないことで、君は頭や心の働きが低いレベルに落ちたままで活動している自分に慣れ親しみ過ぎていってしまう。
母親のせいで、ものごころついた頃には、自己完結した状態で接してくるひとに慣れきっている子供に育つしかないなんて、あまりにもかわいそうだなと思う。
人間は普通自己完結している状態で自分に働きかけてくるものだと思っているというのは、人間全般へのイメージの持ち方として全く間違った異様な状態だろう。家の外でくたびれたおじさんやおばさんと接したときに、こっちは何か思ってそれを伝えているのに、全く相手に伝わっている気がしなくて、何を言っても同じ反応しか返ってこないことに、このひとはロボットなんだろうかと怖くなったりするくらいの感じ方でいられた方がよくて、話が通じないのが普通だと思っている状態から人生が始まってしまうなんて、どうしたってかわいそうなことでしかないんだ。
君だってわかるだろうけれど、他人が一方的にあれこれ言ってきているのに延々と付き合わされているときというのは、人生でも有数の頭がまともに働いていないシチュエーションだろう。目の前に人間がいていろいろと話しかけてきているのに、現実的にただ空っぽに付き合わされているだけになっているというのは、異様な状況だと思っておくべきなんだ。話が通じないひとの話に付き合わされるのに慣れきってしまって、そういうひととの間に行き来する感情の量の異様な少なさに違和感がなくなってしまうと、意識しないうちに、そういうひとたちに応対するときのような、適当にやり過ごすような話の聞き方を誰に対してもやってしまうようになってしまうんじゃないかと思う。
一方的なことをされていると心が止まってしまうのだ。その前段階として、絶望的な気分になるし、そこに希望がないときには、できるだけ傷付かないですむように、心の自動的な機能として、そのひとと関わるときには心を閉ざして相手のことをまともに感じないようになる。
毎日通う場所に話がまともに通じないひとがいて、そのひとが毎日自分に嫌がらせをしてくるとしたら、まともな精神ではそのひとと関わってはいられないだろう。それと同じように、それなりに進んだ痴呆状態のひとと自分を敵視されている状態で関わらないといけないのも絶望的だし、いわゆる育てにくいタイプの子供をひとりでどうにかしないといけない状況も、すぐに絶望的な気持ちになってしまうのだろう。今わかってくれなくてもそのうちわかってくれるとか、少しずつは伝わっているという実感もないまま、相手が自分の感情と関係なく振る舞っていることに付き合わされることは、人間にとってとてつもなく不快なことなのだ。
話が通じないし、気持ちすら通じている感じがしない相手と関わることは、人間の心にとって自然なことではないのだ。だから、そういう相手には、相手から何かを感じようとするのをやめて、目の前の状況にただ反応するだけにして、心とは別のもので対応するようにしないとやっていられないし、そうしているにしても、その相手との関係に逃げ場がなかったりすると、相手の敵意やわかってくれなさに、だんだんと心が消耗させられて、そのうちに耐えられなくなってしまいがちなのだろう。
そして、一方的なことをしてくるのが親だと逃げ場がないのだ。しかも、君のお母さんは親から意地悪されたりいろんなことを邪魔されるという干渉のされ方をしていたから、君のお母さんは表立って反抗して、相手の気持ちを受け入れずに常に拒否していることができたけれど、君の場合はほめられるのだから、そういうわけにもいかない。
君のお母さんは、付き合わされている君の気持ちもほとんど感じようとしないで、ひたすらやりたいようにやってくるけれど、かわいがってくれているのだし、先に相手にうれしそうにされてしまっているから、それに対して怒りの表情を返すのはどうしたって気が引けてしまうのだろう。善意でやってくれているんだからと思うと、君も善意で対応しないといけない気がしてしまう。そして、それがいつまでも揺るぎなく繰り返されることで、そういうものだという以上には何も思えなくなっていく。
君がある程度大きくなってきて、自分らしさのような意識が出てきて、自分はもっとどんなふうになりたいと思ったりするようになったときに、君のお母さんがずっと同じようなことしか自分に言わないし、自分が何か言っても、やっぱり同じような反応しか返ってこないことに、改めて何かを思うようになったりするのかもしれない。けれど、何か変だと思って、心の中で自分の扱われ方に抵抗しようとしても、相手が自己完結してしまっていると、自分の側だけではどうしようもなくて、そのうちに君はまともに対応していられなくなって、君の頭はかわいがられ始めると自動的に鈍感になるようになっていく。耐えるしかない時間を、自分の気持ちとは別の顔をしながら、このあとどうなるかわかりきっている儀式みたいなものとして付き合わされることになるのだから、鈍感にならないとやっていられるわけがないのだろう。
それはゾーンとかフローと言われるものの逆の現象なのだろう。その状態に入ると、頭が心ごと死んで、頭も気持ちもまともに反応しなくなって、その状態で何かをしないといけないときは、恐ろしくパフォーマンスが落ちてしまう。その状態で何かしたあとには、自分はこんなにいらいらするひとだったんだろうかとか、自分はこんなにひとの嫌なところばかり気にするひとだったろうかとか、自分はこんなに頭が悪かっただろうかと自己嫌悪に包まれたりしてしまう。そういう経験は君にもたくさんあっただろう。
ゾーンの逆という現象は、ゾーンとかフローに比べると、とても簡単に入れるし、とても再現性が高い精神状態なのだろう。職場なんかだと、嫌いな先輩とか上司にあれこれ注意されているときには、いつも完全に頭が死んでいる状態になっているように見えるひとがいたりする。もう頭が働かない状態になっているから、何かを質問されても、まともに考えられないし、思い出そうとするのもうまくできなくて、うまく答えられなくて、まともに受け答えもできないことで、さらに怒られる。普段はそんなにバカみたいなことを言うわけではないのに、自分のことをバカだと思って詰めてくるひとに対してだけは、詰められても当然に思えてくるくらいに消極的な態度でバカみたいなことしか言えなくなってしまうのだ。そういう状態になっているように見えるひとは、どの職場にも何人もいた。そして、そういう状態になったらもう建設的なものは何一つ発生しないし、むしろ今後もすぐにそういう状態になりやすくなる方向に関係性を強化してしまうだけなんだし、さっさと解放してあげればいいのにと思っていた。
特定の相手との特定のシチュエーションになると、相手をこれ以上感じていたくないし、何も思いたくないし、何もかもどうでもよくなるみたいになって、頭と心のスイッチが自動で切れてしまうという感じなのだろう。
俺が繰り返しそういう状態になっていたのは、鬱病になって以降の自分の母親くらいだった。そうなってからの母親は、昔あった嫌な出来事の話をし始めると、もうすでに俺が何回も聞いている話でも、放っておくと何時間も話し続けるし、しかもその数時間の間、全くこちらの反応を必要とせずに自己完結的に話し続けていた。そういう話の中には、俺の父親や俺の祖父母の話もたくさん含まれるから、俺からすると身内の悪口を言われている面もあったし、そういう悪口を母親は小芝居も混ぜながら感情を込めて話すから、むかむかしてくることもあるし、そうでなくても、俺はある程度まともに聞いていたから、悪口以外のことについても、あれこれ思うことはあるし、けれど、こちらの思うことを少し言っても、相手はそんなことはわかっていて、自分は自分がどう思っていたのかということを話しているだけだと言って、とにかく続きを喋ろうとしてくるし、そもそも全部すでに何度も聞いている話だし、こちらが言うことは無視されるのも前と同じだしで、たまに怒りが抑えられなくて、こちらが思うことを相手が遮ってくるのを無視して全部言ってそのままその場から離れることもあったけれど、我慢して聞いているときは、嫌な気持ちでいっぱいになりながら、だんだんと頭にも喉にも不快なものが詰まっていって意識がだんだん目の前から離れていって、どうしてこのひとは俺を嫌な気持ちにさせ続けるのだろうとか、いくら鬱病になって、薬をもらいながら、今でもフルタイムで働いていて常に疲れ続けている状態だからといって、そんな喋り方はないだろうと思ってげんなりしていた。
二十代の後半は、たまに実家に帰るたびに、一日か二日くらいは、夜中に数時間そんな話を聞かされて、こんな話を聞かされないといけないなら、もうこのひととは喋らなくていいし、顔も見なくていいのかもしれないとか、そんな気持ちにすらなっていた。歳を取ってこうなったのなら、まだ歳を取るというのはそういうことなのだろうと思ったりできたのかもしれないけれど、まだそんな歳でもなくて、病気のせいはあるにしても、とはいえ普通には働けているのだから、俺にも普通に話してくれればいいのにと悲しかったし、病気だから仕方ないとは思っても、病気であるうえに病気で疲れきって自分のことしか感じられなくなるだけで、自分が自分らしさとして守ってきた下品だったり他罰的にならないようにという慎みも抱えられなくなって、こんな不快な喋り方しかできなくなるなんて、病気になるのは最低なことだなと思っていた。
よく知らないひとだと、母親以外にも、同じアパートのひととか、飲んでいて隣りに座っていたひととか、知らない老人から話しかけられて、延々と喋られていると、同じように嫌で嫌で仕方がなくて頭が働かなくなってくる状態になることがあった。老人はかなりの割合で、他人の気持ちをそもそも感じられなくなっているから、話をされているのに耐えていることしかできなくなってしまうパターンは多くなる。保険とか不動産投資の営業のひとなんかの、かたにはまりきった、こちらの話を全く聞いていないまま言いたいことを言おうとしているだけの話も、聞いていて自分の中でスイッチが切れてしまう感じがあった。そういう種類の営業のひとも、まともな神経ではやっていられないだろうし、相手がスイッチが切れているから、こっちもスイッチを切ってしまわないと、その場にいられないような感じだったのかもしれない。
俺の場合は、とにかく自己完結された状態で話し続けられると、その状況に耐えられないということだったのだろう。俺がもし、老人とか、母親のように精神疾患のあるひとともっと関わることがあったなら、もっといろんなひとに嫌な気持ちになって、いろんなひとに心底からの憎悪を覚えたのだろうと思う。
俺にとっての母親と喋っているような不毛感とうんざりした感情を、現実の人間関係のかなり多くとか、会社の人間関係の大半とかに感じていて、そういう場所にいるときはいつでも頭の中が詰まったみたいな状態になっているひとというのも世の中にはたくさんいるのだろう。そして、そういうひとたちが、会社でその他大勢がやるような仕事を言われたことをやっているだけという感じにこなしていて、少しうまくいかなくてひとからプレッシャーがかかると全く使いものにならないから、何も任せられなくて簡単なことをやっていてもらうしかなくて、みんなから給料泥棒だと思われているとか、そういうこともよくあることなのだろう。そして、そんなひとでも、会社を出て自分の心を殺す状況から離れれば、まるっきり違う精神状態になっているのだろう。ひとりで部屋の中にいて、自分のペースで自分の思うことだけをやっているときは、ずっと楽しい気分で時間を過ごしていたりもするのだ。
自分のことをダメなやつだと思われて、一方的にダメなやつ扱いされ続けるような関係が多くのひととの間にできてしまっているのなら、そういう相手からの攻撃にうんざりしきってしまって、そのひとが近くに来るだけで心が死んでしまうようになるのだろう。いまいち仲のよくない友達で集まっているときに、その中でも特に苦手なひとがあれこれ喋っているとそうなってきて、頭もまともに働かないままになって、話にも入っていけなくて、みんなからつまらないやつだなと思われているようなひともいるのだろう。感じていなたくないものを延々と感じさせられていると、感情は停止していってしまうのだ。
ゾーンに入れているかのような感覚になれると、とても気持ちがいい。世界と自分との一体感というか、世界と自分が噛み合っていて、自分が感じるべきものを感じ足りている状態になっていて、自分がしたいことが自分の身体によって自動的に達成されていくような感覚になる。そして、ゾーンの逆というのは、逆だからとても不快なもので、世界から自分がだんだんと消されていくような、無力感に似た怒りの中に生き埋めにされていくような気分になっていくものなのだ。
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