愛されて安心できていると顔の透明感は増すし、押し付けられが屈辱に耐えるばかりの毎日になると顔は濁っていく
心が見えやすい顔をして生きているひとと、そうではないひとというのがいる。
もしくは、ひとの顔を見ていて、顔を通して、そのひとの中の気持ちの動きが透けて見える度合いということで、顔の透明度という言い方をしたのなら、なんとなくイメージはできるのだろうと思う。
(顔の透明感についてはこちら)
顔の透明感というのは、見た目の良し悪しの問題ではないのだ。
みんなからかわいいと思われて楽しそうにしているひとでも顔がもやがかっていたりする。
楽しければいいと思って、自分の気持ちとは関係ないもので生きていると、気持ちではないもので顔が取り繕われていることで、顔は濁っていく。
全ての犬がペットショップの中で売れ残ってけっこう大きくなってしまった犬のように目の中があまり動かなくなってしまったなら、人々は犬をかわいいものだとは思わなくなってしまうのだろう。
東南アジアなんかの街中で、誰が飼っているというわけでもなく、邪魔だと蹴飛ばされたり棒で追い払われたりしているような、ああいう犬たちのことも、多くのひとはかわいいとは思っていない。
それはそうなのだろうと思う。
ほとんど人間の顔を見ようとせずに、他の犬の顔も見ようとせずに、目の中も動かさず、ただぐったりした感触だけをこちらに伝えてきているのだ。
少し街から離れれば、街の誰の犬でもない犬も、たまに蹴られたりはするにしても、だいたいいつも放っておいてもらっていて、無愛想に日陰で寝転んでいて、子供が来て抱きついたり撫でてくれたりするのには、黙ってそのままにさせながら、少し尻尾を動かしていたりもするし、心が止まってしまっているわけではなかったりする。
けれど、せいぜいそこ止まりで、やっぱり目は止まっていて、顔は目の中が見えないほどに曇ってしまっている。
その生き物がその生き物らしい感情の働き方を保つ上で必要な他者との接触の量とか質というのがあって、それを満たすだけのまともな扱い受けられないと心は病んで壊れていく。
犬は誰にとってもかわいいもののようでいて、それはかわいがられている犬たちがそうだというだけで、かわいがらずに蹴ったり棒で叩いたりすることで犬をかわいくなくすことはできてしまうのだ。
傷付けられすぎたひとというのは、そういう存在だったりする。
傷付いたひとは、ただ傷付いた出来事が過去にあったというだけではなく、傷付けられることを踏まえた生き方を自分なりに身に付けてきたことで、そんなひととして今そこにいる。
動物は不快や苦痛を避けるために何でもするようにできていて、絶え間なく傷付けられる環境で生きていると、真正面からもろに傷付けられずにすむように、いつでも自分を不快からなるべく遠ざけられるようにと意識しながら、ものをまともに感じないようにしながら生きるようになっていく。
そして、そういう習慣がつくことで魅力的になることはないし、友達や同僚として親しみを持ちやすくなることもないし、そういうひとが何かしている姿を見ていてなんとなくいい気分になれる度合いも下がってしまう。
隣人としても、風景としても、周囲のひとにとってよくないものへと変化してしまう。
傷付けられすぎたというほどでなくても、コンプレックスや劣等感や被害者意識とか、そういうものが何層にも顔の表面に覆いかぶさっているように見えるひとたちというのはたくさんいる。
そういうひとたちの顔だって、気持ちが見えにくくて、感情といえるようものではない感情で曇らされてしまっている顔というように感じる。
そして、集団内にいるときは常にそういう曇った顔をしたままになっているというひとが本当にたくさんいる。
ひとが傷付くのは見た目のことだけではない。
頭が悪いことに傷付いてきたけれど、何事もない顔をして生きているひともたくさんいるし、仕事が人並みくらいにしかできるようになれなかったことに傷付いてきたけれど、何事もない顔をして生きているひともたくさんいる。
全くモテないとか、話が面白くないひと扱いされることに疲れてしまっていたり、多くのひとが何かしらの屈辱に沈められていたり、屈辱に完全に屈服してしまったあとの人生を生きて何年も経ってしまっていたりする。
見た目のことは、日々ふとするたびに傷付けられるから、何事もないふりをするのも難しかったりするけれど、見た目のことでビクビクしているわけではないひとたちだって、屈辱の中で顔を曇らせていて、そこまでの透明度を感じさせる顔はもう何年も誰にも見せていなかったりするのだ。
ひとの顔を見るときには、多くのひとがそんなふうに、自分の何事もない顔として曇った顔を他人に向けているのだということをわかったうえで、人々の顔を眺めているべきなのだろうと思う。
もちろん、顔の透明度なんて言い方をしていても、結局のところは、つまらないもの扱いされているせいで、そういう扱いをされているひとらしい顔になっているだけといえばそうなのだろう。
それでも、そのときそのひとは顔が淀んでいるし、話も通じにくくて、能力も全般的に低下してしまっているのだ。
すっきりとした顔というか、目の中にそのひとの気持ちが動いているのがよくわかるひとの顔は、その動いているものに自然と目がいって視線が吸い込まれるみたいになる。
それが顔の透明感というもので、濁った目をしていないということはそういうことなのだろう。
愛されて安心できるようになるとそのひとの顔の透明感は増すのだろうし、押し付けられる屈辱に耐えるばかりで、ずっと我慢し続けているばかりの毎日になると、顔は濁っていくのだろう。
子供が生まれると女のひとの顔の透明感が増すことが多いのも、そういうことなのだろう。
本当の気持ちをそのまま顔に出せている時間が多くなるから、心が見えやすくなる。
それが顔の透明感というもので、若い女のひとは、普通というカテゴリーからはみ出さない範囲の活動しかしていないひとだと、よほど友達に恵まれているひと以外は、思ったことなんて全く言えないままで、ずっと見た目で自分の存在価値を計られ続けて不安な気持ちで過ごしていたりするのだろう。
それが母親になると一気に変わるのだ。
女のひとで若いときの方が心を楽にしていられるというのは、見た目がよかったりしてみんなにちやほやされていい気になっていられたひとたちだけなんだろうと思う。
若いからといってそれほどちやほやされるわけでもないひとたちは、ある程度の歳になって、おばさんとしてまわりのおばさんと一緒くたにされるようになると、不快な視線や感情を差し向けられることも減るし、他人と比較されるときのどぎつさも減るし、楽しいことが増えるかどうかはそのひと次第だとしても、気は楽になったというひとがほとんどなのだろう。
顔の透明感ということでも、ある程度の歳になって、仕事で自分に自信を持てるようになって、かわいい格好をしようとしなくても、大人らしい格好をしれいればそれでよくなって、自分自身にしっくりくるようになった女のひとたちというのは、素敵だなと感じるひとが多い。
表情も自然で、防御意識が過敏ではなくて、目の中を他人に見せられる余裕があって、かわいいなとも思うし、きれいだなとも思う。
そして、そういうひとには、若いときは地味なひととして集団内でおとなしくして過ごしていたようなひとが多くて、若いときからそんな感じにしていたらよかったはずなのに、どうしてなんだろうなと思ったりしていた。
日本では、子供っぽいわざとらしいかわいさを若い年代で頑張りすぎているからというのもあるのだろう。
俺はそういうものが好きじゃないし、おばさんになってほっとできるひとが多すぎるのは不健全だなと思ったりもするけれど、男たちの大多数がそうなのだから、女のひとたちからすれば、一部の女のひとが男に媚びてしまうことで、損得勘定で全体がそっちに引っ張られてしまうことを自分ではどうしようもないのだろう。
(続き)