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人生の素晴らしかったのことのほぼ全ては、誰かが自分のそばにいて心地よさそうにしてくれていたことになるはず

(こちらの記事の続きとなります)

多くの人は、他人が近くにいて何かをしていると、意識しなくても、体が自動でその人の気持ちの動きを感じ取って、どんな気持ちでそういうことをそういうかんじでやっているのかを体感としてなんとなくわかった気になれるようになっている。

だからこそ、みんなが場の空気に合わせてそういう意味でそういうことを言っているのに、みんながどういうつもりなのかも感じ取っていないし、自分が取りたい意味で他人の言った言葉を言葉通りに受け取ったりするひとがいると、同じ場所で同じ現実を生きているのに、どうしてそんなことになるのだろうとびっくりしてしまうことになる。

意識しなくても、そばにいるだけで他人の気持ちの動きを確かめ続ける身体で生まれてきているひとの方が多数派なはずなのに、自分の頭の中のことしか感じていないように見える人というか、意識して見たり聞いたりしたうえで、それはどういうことなのかと自分が意識的に判別した内容でしか現実を認識していないひとというのはたくさんいるのは、どうしてそうなってしまうのだろうと思う。

特に男は、とても多くのひとが、素面の状態でひとと面と向かっていても、シチュエーションの種類と言われている言葉くらいしか感じていないんじゃないかという感じで、相手からほとんど何も感じずに喋っていたりする。

それは異常なことで、他人の気持ちを自動で感じ取れるひとが共感を自分で閉じていないときには、相手にどう思われているかということを意識しながらしかひとと一緒に何かをできない状態というのが自然な状態のはずなのだ。

俺の場合、面と向かってしまうと、相手の言っていることは、そう言っている相手の気持ちの動きを文脈にしながらでないと受け取れなくなる。

そういうひとにとっては、相手がそう言っているのならそうなのだろうと、言葉を言葉通りの意味に受け取っていられるというのは、わけがわからないことだったりする。

もちろん、感じないようにすることはできるし、気が付いたらあまり感じていなかったということもある。

そもそも酒をある程度飲んでしまえば、相手の感情も自分の感情もほとんど感じていなくて、ぐるぐるする頭でシチュエーションと言われた言葉だけから何かを思って反応を垂れ流すようになってしまう。

俺が他人から何かしらを感じているのは、あくまで共感能力が自動で働いている状態でのことではあるのだろう。

けれど、実感として、俺は言葉を言葉として受け取ってはいないのだ。

ひとの話を聞いているとき、俺は話の内容とか言われている言葉の意味ひとつひとつにはほとんど意識がいっていないのだと思う。

表情や声なんかから、話しているひとの気持ちの流れとか、今話していることへの距離感とか、そういうものを意識していて、相手が言っている言葉は、自動的に自分が意識している相手の文脈で意味が理解されるという感じになる。

どういう内容の話をされているか気にしなくても、相手の状態や相手の意識の動きをずっとたどっていて、相手の口ぶりや言葉尻で自分が感じ取っているものがずれていないか確かめていれば、聞こえている言葉は勝手に理解されている。

だから、話しているネタにだけ意味があるようなつもりで表情も乏しく早口になられると、相手が何を言いたいのかよくわからなくなっていた。

俺は他人が喋っているのは、それを語るのがそのひとにとってどういうことなのかを話してくれているという意味で、何を語っているにしても全てそのひとの自分語りだと思って聞いているのだと思う。

だから、コンテンツ語りという感じで、楽しげなテンションの一本調子でひたすらコンテンツについての情報や感想を早口で喋っているだけのひとたちの語り方は、自分語りをしてくれていないことで、何を聞いていればいいのかわからない気分になるのだろう。

近年だと、若いひとたちが好きなものの話をしている姿を見ていて、このひとたちはお互いによく似てしまっているんだなと思うことも多かった。

そういう意味では、毎日かなりの時間をゲームに使っていたり、メディアに触れている時間の大半がアイドルとかアニメとかの関連だったりするような、オタクっぽさの強いひとたちというのは、内面性はあるにしても、それは頭の中の内面性というだけで、肉体的には他人にあまり内面性を感じさせない存在になっているということなのかもしれない。

コミュニケーションの中で相手に自分がどういうひととしてどんなふうにそれについて語るのかを受け入れてもらわずに、言葉とテンションだけを相手に向けているから、そんな印象になるのだろう。

けれど、友達とも面と向かったお互いへの印象からスタートするようなコミュニケーションをほとんどせずに、コンテンツ語り的なもので時間を過ごしてばかりなのだろうし、インターネット上のテキストメッセージのやり取りも含め、自分の感情とも相手の感情ともあまり関係のない時間ばかりを生きてきたのだろうし、肉体と肉体がお互いの気分を確かめ合うように仕草や表情を交換し合っていないとできないムードでのコミュニケーションに慣れ親しんでいかないままになってしまうのも仕方がないのかもしれない。

それは単に喋り方が違っているというだけのことではないのだと思う。

相手の気持ちを感じ取りながら、話している間ずっと相手にどんなふうに伝わっているのか確かめ続けながら話しているひとの話しているときの意識の大半は、相手の気持ちの動きを感じることに使われている。

むしろ、自分より相手を感じていて、自分が言いたいことより、相手はどういう言い方をしたらわかってくれるひとなのかを感じようとして時間を過ごしているくらいなのだろう。

相手の心が動くスピードに合わせて話をするというのはそういうことなのだ。

心を使う必要がない、頭だけで気持ちよくなれるスピード感でのコンテンツ消費に夢中になったり、自分のことしか肉体的には感じていない状態でのメッセージのやり取りや、自分の頭の中で自分のことを考えるのに夢中になりながらソーシャルメディアに自分の情報を発信したりとか、そんなふうに自分の頭の中のことしか感じていない時間が増えていることによって、そういうことをしている時間の中で自分を確かめている度合いが高くなっていることで、そういうひとが増えてきているというのもあるのだろう。

それこそ、現実の他人とも、ソーシャルメディアへの投稿のように、一方的にあれこれ一度に喋ったり、メッセージのやり取りのように、うざくないようにした短い定型的な返しをお互いに繰り返すみたいに会話するようになっているということなのかもしれない。

ひとと面と向かって話している時間よりも、携帯電話のスクリーンを見詰めている時間の方がはるかに長いのだし、ひとと話すとしても、メッセージのやり取りの続きとして喋るような場合も多いのだし、ひとと喋っていても、いつの間にか自然といつものように自分の頭の中のことしか感じていない状態になっていて、そうすると頭のスピードで喋ってしまうから、早口で平坦で一つの感情で喋り切る喋り方になるということなのかもしれない。

俺は大学生まで携帯電話を持っていなかったし、インターネットもなかったし、自分の部屋にテレビもなかった。

二十歳以降は、同居人もいるし、彼女も自分の部屋に入り浸っていたから、俺は何かしらの画面を見ているよりもひとと喋っている時間の方が長い生活がずっと続いていたのかもしれない。

社会人になってからしばらくも、仕事中にモニターを見ている時間を除けば、携帯電話を見詰めている時間よりは、同居人や彼女と喋っている時間の方が長かったのだろう。

今ではだいぶん薄れたけれど、俺は携帯電話とかパソコンの画面を見ながらメッセージを打ち込んでいるとき、いつのまにか実際に相手と会って喋っているときとは別の感覚になっていて、ナチュラルに自分本位で短絡的になっていたりすることに自分で居心地の悪さを感じたりしていた。

それが嫌で、携帯電話を見詰めているときも、なるべく会っているときの相手への気分をイメージして、そこからはみ出ないようにしながら言葉を選ぼうとしていたこともあったように思う。

それは、現実にひとと会ってどんな態度で話している人間なのかという、自分の現実を手放さないようにしていたということなのだろう。

子供の頃からずっと現実の人間の顔よりスクリーンを見ている時間の方が長い状態で育ってきたひとたちには、そういう感覚はなかったりするんだろうなと思う。

ひとと話す時間よりスクリーンを見詰めている時間の方が長いのだから、スクリーンを眺めている時間が心地よいように自分の感じ方を調整した方が生きていてメリットが大きいのだろうし、本人にとってはそれで何も問題なかったりもするのだろう。

そうやって生きてきたのだから、そういう感じ方になるのは自然なことなのだろうけれど、逆に、そうやっていきてこなかった俺からしたときに、そういうひとたちは、自分のことしか感じていなくて目の前にあるものをまともに感じようとしない不自然な生き方をしたひとに感じられてしまうところもあるのだと思う。

今育っている、すでに人生の中で、人と話すよりスクリーンを見詰めている時間の長くなってしまっている子供たちも、もそれをおかしなことだと思って、感じないことが当たり前であるかのような感覚になってしまうことに抗ってくれればいいのにと思う。

あまり自分のことを感じてくれない早口気味の友達に埋もれながら、それはそれとして楽しみながらも、心のスピードのままで話せる相手がいたら、いつでもすぐに心のスピードで接するように切り替えられるように、いつでもその準備ができているひととして生きているひとは、多ければ多いほどいいのだ。

少なくても、俺の人生の素晴らしかったのことのほぼ全ては、自分の目の前の肉体が自分のやってあげたことにうれしそうな反応をしてくれていたこととか、一緒に何かやっている仲間が、一緒にやっていることがいい感じだったり、みんなでいるのがいい感じだったりすることに心地よいなと思ってくれているのをはっきりと実感できていたこととか、他人が自分のやったことにいい反応を返してくれたことばかりだったのだと思う。

そういうことに比べれば、音楽や映画や小説が面白かったこととか、旅行に行ったとか、美味しいものを食べに行ったとかというのは、そういうことにどれだけ感動したとしても、自分という人間の血肉になったというだけで、自分の人生そのものと思えるようなものには感じられない。

どうしたって、人間とはそのひとの肉体で、そのひとの影響力なのだ。

結局はそういうものしかまともな生きた実感にはならないのだから、だったらいつでも自分を自分の肉体だと思いながら、自分の影響力が自分だと思いながら、頭が勝手に自分を気持ちよくしようとして、自分に都合のいいことや、自分をすごいかのように思い浮かべてしまうのを自重して、誰に対しても取り繕ったりせずに顔を向けられた方がいいだろう。

いつでも心のスピードで過ごすべきだということではないし、そもそもそんなことは不可能なのだろう。

日常生活の会話で、みんながあれこれ喋っている姿に何かしらを感じて、気持ちを動かされていると、そのつどみんなの話の流れに乗り遅れてしまうような状態になる。

みんなのノリに合わせて、盛り上がりに同調して、みんなと楽しくなれることをどんどん言おうとするのなら、目の前の状況に何か感じるたびにそれに心が動くような眺め方はしていられない。

けれど、だからこそ、そんな中でも何か思ってしまったなら、そのときはちゃんと自分の心のスピードに自分が合わせて、どうして引っかかるんだろうかと確かめてみるべきだし、その場では難しくても、あとでひとりでゆっくり思い返した方がいいのだ。

もちろん、ゆっくり思い返してみたって、自分の経験から考えただけでは自分の気持ちは自分でうまくとらえられないものだし、何も思い浮かんでこないと、すぐに気持ちが焦れて他のことに気が逸れていってしまう。

それでも、同じことを繰り返し考えてしまうばかりになったとしても、繰り返し通り過ぎていく状況の中で繰り返し自分が何か引っかかるものを感じるのなら、自分がそれついてどう思っているのかを確かめようとすることは大事なことなのだと思う。

ひとりで自分がうまくやれなかったり、思ったような反応をしてもらえなかったり、どうしても引っかかって嫌な気持ちになってしまうことについて考えるというのは、単純にいえばくよくよすることだったり、うじうじすることだったり、めそめそすることだったりするのだろう。

くよくよしていても仕方がないし時間の無駄だというようなことはよく言われることだけれど、単純にくよくよしたり、うじうじしたり、めそめそしないなら恋愛なんてちっとも楽しくないだろう。

友達とか同僚との付き合いにしても、最初からすんなり仲良くなったひととしか仲良くなれなくて、最初は関わりにくさを感じていたけれど、だんだんお互いのことを面白く思えるようになったひとたちとは仲良くならなかったとしたら、自分の人生はずいぶん面白みが減っていたのだろうなと思う。

くよくよできたときには、くよくよしていたときにいろいろと考えて、自分の気持ちを確かめながら、それでも自分はどうしたいなと思ったことをちょっとずつやっていったうえで、相手のことをもっと好きになっていけたわけで、くよくよしたぶん、相手への感情がより揺るぎないものになっていったというのもあるのだ。

もちろん、それなりに自己追認だけではなく、相手のことも自分のこともいろんなことを思い浮かべながらくよくよ考えていたとしても、必ずしもそれによって人間関係や状況がよいものになっていくとはかぎらないのだろう。

自分がどうであっても自分への扱いは変わらない気がしてしまうことや、相手の中でこじれてしまっているものを自分がどういう態度をとっても解きほぐせる気がしないまま時間が過ぎていって、どうにもできないままくよくよし続けても、気が滅入るばかりだったりもするのだろう。

自分が何を思ったとしても、それは現実には何の影響力を持たなくて、思ってもしょうがないことを延々思っているだけになっている気がしてくるのだろうし、自分が何かを思うこと自体が無駄で、自分はただ周囲からの扱いに甘んじてやるべきことをやることしか求められなくて、自分の心は世界から拒絶されているような気持ちになったりもするのだろう。

だから、多くのひとは、くよくよするのをさっさとやめたがるし、考えてもしょうがないことは考えないようにするという習慣を歳を取るほどに強固にしていくのだろう。

けれど、そここそが大きな生き方の分岐点で、ずっと死ぬまで自分がくよくよしていたいことにくよくよし続けながら、もっとどうできたらいいのにという気持ちを維持していられる人生というのを選べるのなら、そっちを選ぶべきなのだと思う。

うまくいかなくて、うんざりした気持ちにどっぷりと沈められたとき、うんざりした心を黙らせて、何も考えなくても楽しんでいられることを延々とやったり、何も考えなくても楽しく見ていられるものを延々と見たり、酒が飲めたら酒を飲んでもっとうやむやにしたりしてやり過ごすしかないのか、気が向いたときくらいは、自分の中で引っかかっているものに自分で寄り添ってみて、心が自分が自分であることに虚しかったり悲しかったりする気持ちを少しでも鎮められるようなことをしようとするのかで、そのひとの人生は自分にとって生きている実感がまるっきり違ったものになるのだろう。


自分が自分であることを諦めないためには、自分の心の中にあるものがくだらないものではないと思えることが必要なのだろう。

そのために、自分の心が今でもいいものにいい反応をできることを確かめられる必要があるのだ。

恋人やパートナーが、言いたいことを言えて、満足できるところまでゆっくり話ができるひとだと、日々自分が思っていることに寄り添えている度合いは全く違ってくるのだろう。

他人が自分に向かって心のままに素直に何かを伝えてくれたら、それに応えようと、相手の心のスピードに寄り添って、それに心を動かされて、自分の心が動くスピードで相手に思うことを伝えたりできる。

それによって、自分がひとにどんなことを思ってあげられる人間でいられているのかを日常的に確かめることができるのだ。

そういうことがないと、みんなに合わせて言っていることしか言わない日々が過ぎていって、自分が本当はどう思っているのかも自分でよくわからなくなっていくのだろう。

実際、何をどうしたらいいという話ではなく、誰かがこういうことがあってこう思ったという話をしてくれたときに、そのひとの味方だという態度を示す以外には、ほとんどまともに何かを言えないひとというのはとても多い。

きっと、どこかで聞いた話しか思い浮かばなくて、自分は相手の話を聞いてどんな気持ちになっているのかというのが自分でわからなかったりしているのだろう。

かわいそうに思ってあげるべきだとか、どういう態度をとるべきなのかはわかるからそれをなぞるけれど、自分の気持ちはあまり動いていないから、自分の思うこととしてはリアクションしてあげられないのだ。


(続き)

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