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すぐわかった気になることでまったく人の話を聞かずにすますひとたち
世の中には、一生のうち、誰からも一回も「ちゃんと話を聞いてくれてありがとう」と思ってもらえないひとというのが、とてつもなくたくさんいるのだろうなと思う。
男は特にそうなのだろう。
自分ではひとの悩みとか愚痴くらい聞いてあげたことくらいあるつもりだけれど、実際にはそのひとに一生懸命長々と何かを話したことがあるひとはいないし、ちゃんと聞いてくれるひとだなとうれしい気持ちになってもらえたひともいなかったというひとが、下手すると男の過半数だったりするんじゃないかと思う。
男の大半がそうだし、そうでなくても、多くのひとが他人の気持ちをほとんど感じていない状態で生活している。
そして、そういうひとたちからすると、ひとの気持ちを理解しようとしながら話を聞くなんて面倒くさすぎるし、無理をしてもいらいらするばかりだし、そんなことできるわけがないだろうというのが本音だったりもするのだろう。
そもそも気持ちに気持ちで反応するつもりでひとの話を聞いていないのだから、そう思うのも仕方のないことなのだろう。
相手が自分の気持ちを確かめながら話してくれているときには、相手の心が動くスピードに合わせてそのひとが話すのを聞いていないと、相手の話は遅くて散漫でたるく感じられてしまう。
頭で相手の話している内容の要点だけ聞いているのなら、相手はいつも喋り終わるのが遅いひとになる。
身体が気持ちに気持ちで反応する状態になっていないのなら、頭は自分が快適なように好き勝手なことを思い続ける。
頭はいつも、すぐにわかった気になろうとするし、前にも聞いたような話だったり、なんとなくでも知っているものには、すぐにこれはあれと同じだと思ってしまう。
そして、同じだなと思うと即座に頭も心もだらけてしまう。
少しでも楽をしたくて、自分がそれに対して自分なりに何かを思う前に、こういうものにはこんなふうに思っていればいいというパターンを思い浮かべて、それを自分の思ったことにしてしまうということなのだろう。
それは自分で何か思うよりもはるかに楽だから、自分の日々の生活や人間関係に慣れてきて、いつも通りではないようなこともめったに起こらない生活を送っていると、ひとはどんどん自分では何も思わないようになっていく。
できるだけ楽をしようとするのは人間の習性のようなものなのだろうし、自然とそうなってしまうものなのだろう。
だからこそ、自分が楽をしたいという以上に、相手に喜んでもらいたいという気持ちの方が強い状態を維持することで、相手を前にしたときに、楽をしようとする気持ちを自分で落ち着かせていられるようになることが大事なのだ。
むしろ、知っているつもりのものを、知っているとはいえ、まともに感じようとしてみるというのが、ひとと接したり、ひとが伝えようとしているものを受け取るときに、自分が誠意を示せるところだったりするのだろう。
ちゃんと受け取って、ちゃんと反応するということ以上に、相手に喜んでもらえることはないのだ。
何かを思いながら、自分の考えていることで半分埋まっている頭と心で受け取ろうとしても、自分が思っているほどは、相手がどんなふうに語りかけてくれているのかということを受け取れていないのだ。
相手からしてもちゃんと受け取ってくれている感覚がするくらいに受け取るには、自分のことを考えたがる頭を黙らせて、しっかり相手に身体ごと心を向けて、相手の身体から伝わってくるものをできるだけそのまま受け取って、受け取った相手の気持ちの動きをいったん自分の中にまるごと入れてしまう必要がある。
自分がどう思うとか、自分はどういうつもりだとかいうことはおいておいて、自分を空にして、ただ相手は今そうなのだということだけを確かめるようにして相手に身体を向ける必要があるのだ。
そのためには、知っていることを思い出して受け取ったふりをする自動的な意識の働きを止めて、知っていることを語りかけてくる相手の何かを思うスピードの遅さを当然のものだと受け入れて、頭で何か思おうとするのをやめて、頭を空っぽにして寄り添っていられるようにならないといけない。
相手の気持ちをじっくり感じたとしても、感じているだけならずっと感じているだけになるし、それに何かを思うのは結局自分の頭なのではないかということになるのかもしれない。
じっと感じているうちに、自然と思い浮かんでくるものがあったとしても、それだって頭が思い浮かべていることだったりはするのだ。
たしかに、全ての感覚は身体の中に閉じているし、イメージや言葉が思い浮かぶのだとしたらそれはそのひとの意識の上に浮かぶのだろう。
そのひとはそのひとの意識しか感じていないといえばそうなのだ。
けれど、自分は自分しか感じていないような気がするとしても、それはそのひとが頭のスピードでしかものを感じていないからなのだ。
気持ちと気持ちが自動的に伝わり合っている状態になったままで喋ったり表情を交わしたりという時間を誰かと過ごしたことがあれば、自分がそう受け取ったから相手がそういう感情だと感じたわけではないというのは体験として知っていることなのだ。
自分に感情があるように相手にも感情があって、相手はいつでも自分の感情を勝手に解釈してくるわけではなく、自分の感情をそのまま受け取ってくれているのを体感できるし、言葉や表情を交わしたりしていて、自分の気持ちが解釈のワンクッションなど挟まずにそのまま伝わっているのが実感できる。
体感レベルだけではなく、そういうときには、状況レベルとしても、言葉の使い方はひとによって違っても、気持ちとのやり取りとしては、どれだけ喋っていても誤解されていなさが揺るぎなくて、気持ちはちゃんと伝わっているとしか思えない状況になっている。
自分が感じているものが相手の感情の動きだけになっていて、それをずっとあふれ出てくる自分の相手への感情が包み込んでいて、何も意識しないでも相手に言ってあげたいことが無限に浮かんでくるような感覚になったことがあれば、相手をしっかり感じられているときと、そうではないときとは、相手の気持ちの感じ取れ方は質的に全く違ったものになるし、自分のことばかり考えているときにはそんなふうにはなれないというのはよくわかることなのだと思う。
もちろん、気持ち伝わるというのは、はっきりした感情がぶつかり合って高揚感があるような状態の中でしか感じられないものではないのだろう。
軽く話していて、何もかもが当たり前のように心地よく噛み合っていて、感じたままに話していても何かを誤解される余地が全くないような気持ちの行き来ができている気分になっているときなんかでも、そういうものは感じられる。
ひとによっては、日常の中で当たり前のように、相手の様子を見ながら自分の頭で相手の気持ちを判別するような感覚なしに、相手の気持ちをそのまま感じ取っているような気分で多くの時間を過ごしていたりするのだと思う。
けれど、自分のことばかり気にして、いつでも自分がこの状況の中でどう振る舞うのがいいのかという、状況対自分という感覚で生きているひとたちは、自分のことから意識をゆるめて、相手だけ感じている状態になることがないのだろう。
それは鬱病のひとが花が咲いていても花がきれいなことに気が付かないまま何ヶ月とか何年もが過ぎてしまうようなことなのだろう。
それは、目の前にあるものが、目の前でそんなふうに存在していることをそのまま感じることができないということで、鬱病の場合は、ひとによるとはいえ、一瞬たりとも目の前のことをそのまま感じられない状態がずっと続いてしまったりする。
そして、鬱病じゃなくても、自分が見たいものを見て、自分が気持ちよくなりたいもので気持ちよくなる以外には、目の前にあるものがどんなふうにそこに存在しているのかということを全く感じないままで生活しているひとがとてつもなくたくさんいるのだ。
特に男はそうで、男には、何かに没頭できているとき以外は、自分のいらいらする気持ちをまぎらわせるような気持ちの動きがずっと続いているようなひとがとても多い。
そういうひとたちは、見たいものしか見ていなくて、気にしたいことしか気にできなくて、鬱病のひとが回復するまで何年も花が咲いていてもきれいだと思うことがないみたいにして、まともに目の前のことを感じられないままで毎日を過ごしているのだと思う。
(続き)