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【連載小説】息子君へ 108 (25 かわいがられすぎていいことなんてないんだよ-1)

25 かわいがられすぎていいことなんてないんだよ

 君のお母さんは君をかわいがればかわいがるほどいいと思っているのだと思う。そして、それを当たり前のことだと思っているのだと思う。
 君のお母さんは親から傷付けられて、けなされて、いろんな邪魔をされて子供時代を過ごした。君のお母さんが、ずっとそのときの恨みを晴らすことを原動力にして生きてきたようなひとだということはこれまでに書いてきた。そのうえで、君のお母さんは、自分のことばかり考えていて、自分基準にしか何かを考えることがないひとでもある。そういう君のお母さんが、子供はどういうことをしてもらったらうれしいはずだというイメージは、どうしたってとんでもなく極端なものになってしまうのだろう。
 君のお母さんがそういう思いをモチベーションに生きてきたというのは、子供時代とか思春期の話ではないんだ。君のお母さんは俺にかわいいかわいいと言われて、徹底的にかわいいひととして扱われて、かわいいから好きであるかのようにかわいいと言ってもらうことに、そんなにうれしそうになれるなんてすごいなと思うくらいうれしそうにしていた。君がお腹にやってきたときでもそうで、君がお腹の中でずいぶん大きくなっていたときだって、かわいがってもらいたくて、君のお父さんが出張に出たり週末に丸一日家をあけても大丈夫な日ができるとそれを俺に教えて、会いに来てかわいがってもらいたがっていた。
 君のお母さんは三十代の後半になっても、かわいがられたいという気持ちを抱えきれないくらいに持っていたひとだったのだ。俺は一生懸命かわいいと思っていることを伝えたけれど、その怨念みたいなものをどれくらい成仏させてあげられたのかはわからない。むしろ、かわいいと言ってうれしそうな顔で自分を見てもらうことのうれしさにどっぷり浸っている日々の中で君を生んだから、君にかわいいと思ったときは、かわいいと思っていることをめいっぱい伝えてあげようと思うようになってしまったのかもしれない。
 かわいいと言われるのが気持ちよすぎて俺との不倫に狂っていたというのもそうだけれど、六本木の会社で同僚だった頃も、君のお母さんがいないところで君のお母さんの話になったときには、関西弁とか、ツッコミが関西ノリで困るとか、そういう話のあとは、あのひとって自分の話をするときすごく力が入るよねとか、意外とほめられたがりだよねとか、そういうことばかり言われていた。俺も君のお母さんのことを、不満げな子供みたいな雰囲気のひとだなとは思っていた。今思い返してみても、精神年齢が低いというより、精神構造が子供みたいなひとだったなと思う。
 君のお母さんがとにかくほめられたいし、ほめられるために頑張っているひとだというのは、君のお母さんがどういうひとなのかを最もよくあらわしているところなのかもしれない。あくまで自己実現よりもひとからちやほやされたいということがモチベーションの中心にある生き方をしているひとなんだろう。
 君のお母さんは自分がほめられたがりなことに自覚がないか、自覚があったとしても、それに恥を感じてはいないのだと思う。だから、君にも当たり前のように同じノリで接するのだろうし、君が自分なりに何かを体験して何かを思うのを見守ることよりも、自分がほめたくなったらすぐにほめてしまうのだと思う。そして、そこで君の顔がかわいいことが大きく影響してしまうのだろう。君が生まれつききれいな顔で生まれてきて、しかもその顔は、自分で自分はけっこうかわいいと思っているお母さんが、顔がいいなと思っていた男の精子で生んだ子供の顔なのだ。結婚してから十年以上思い浮かべていた自分の子供の顔よりはるかにかわいい顔だったのだし、見れば見るほど、自分の息子ちゃんはこんな顔がよかったと思えてくるような顔だったりしているのかもしれない。
 君がかわいい顔をしていることが毎日うれしくて仕方がないから、君のお母さんは、ふとするたびに君をかわいがってあげたくなってしまうのだろう。君がかわいいことににっこりしてあげて、優しくしてあげて、君がうれしそうな顔をしてくれるまで君が喜んでくれそうなことをあれこれしてしまうのだろう。それが楽しくて夢中になって、どんどんかわいさをほめるやり方が大げさになっていくのだろうし、ほめる側がもっと気持ちよくなれるように、よりほめていてテンションの上がるほめ方をしようとしていくのだと思う。それは大げさなくらいにおだてたくなるということだし、おだてた相手もその気になってくれると、大げさなことも本当にそうであるかのような気分になれて楽しくて仕方がなくなってしまうのだろう。
 子供をかわいがる場合だけではなく、どういう人間関係でも同じだけれど、何かとひとを持ち上げようとしたり、たいしたことでもないことでほめたりしようとすることは相手にとって有害なことなのだ。けれど、きっと君のお母さんはそんなふうには思っていないのだろう。
 そもそも君のお母さんはそれどころじゃない感じで育ったのだ。もし俺が君のお父さんになれて、君のお母さんに、あんまりほめるのはよくないから相手をよく見て、ほめる必要がないなら極力ほめない方がいいよと言ったとしたら、ふざけるなと怒り出して、自分が小さい頃、どれほど親からほめられたかったし、かわいがってほしかったのかというのを泣きながら話し始めるのかもしれない。たくさんほめてもらって、たくさん機会を与えてもらって、たくさんものも与えてもらいたかった。せめて他の子たちがそうしてもらっているくらいには、いろんなものを自分にくれたっていいはずなのにと思っていた。そうじゃなかったことがとても悲しかったし、とても傷付いたし、もっとかわいがってもらって、もっとほめてもらいながら育ったなら、私だってもっと幸せそうなかわいい女の子になっていたんじゃないかとか、そんなことを何時間も泣きながら言って、一段落するたびに、それなのに俺はひどいと言って、あなたには私の気持ちなんかわからないともっと激しく泣くのかもしれない。
 そうだったなら、俺は何を言ってあげるんだろうなと思う。例えば、俺の父方の祖母は、煮物でもポテトサラダでも、とんでもない量の砂糖をいれて、とんでもなく甘くするひとだったけれど、それは本人の好きにすることかもしれないにしても、ひとに食べさせるのなら話はちがってくるとか、そういう話をすればいいのかもしれない。祖母は愛媛の山の方の何もないところの戦中生まれで、子供の頃も、若者時代も、甘いものは全くといえるほど手に入らない贅沢品だったのだろう。その頃に甘いことが美味しいことであるというのが深いところから刷り込まれているのだろうし、ずっと甘いものを食べたくても食べられなかったことで、いくらでも砂糖を使うことができるようになったときに、美味しくしてあげようと、甘すぎるくらいに砂糖を料理に投入していたのだろう。俺は煮物も甘すぎて、一口でうんざりしていたけれど、いつだったかの正月の集まりのときにポテトサラダが出ていたときに、なんとなく食べてみたら、びっくりするぐらい砂糖甘くて、食べられないと思ったし、ティッシュを取るのも間に合わなくて手の中に吐き出してしまった。今までも甘すぎるだろうと思って、煮物がおいてあってもひとかけらしか食べなかったけれど、さすがにこれはひどいだろうと思った。世の中にいろんな食べ物があって、それはだいたいどういう味で、世の中でどういうものが美味しいということになっているのかを考えたときに、このポテトサラダは世の中のひとが美味しいと思うバランスを満たせていない、ただの甘みの強いまずいものでしかないと思った。そして、味見をしながら砂糖を足していったのだとして、こんなにも甘くなったところで、やっとこれくらいでいいだろうと思って、それを客に出したのだとしたら、このひとは普段どんな感覚でものを食べているんだろうと思った。年寄りになるまで、それなりにいろんなものをたくさん食べてきただろうに、人間がずっと発展させてきた食文化みたいなものを踏みにじるようにしてただひたすらに甘くしたものを他人に食べさせようとしたのだ。
 昔のひとは甘いものが貴重な時代を生きていたから、甘いのが美味しいと思っているひとがたくさんいるということは知っていたのだと思う。俺の祖母にしても、子供の頃は甘いものをもっと食べたいといつも思っていたのだろうし、大人になって甘いものが食べられるようになってとてもうれしかったのだろう。けれど、俺の祖母のように素朴にそう思い続けた場合は、甘ければ美味しいという感覚が自分の何かを食べる喜びの中で突出して強烈なものになってしまって、甘いものを食べられるようになった喜びを充分味わったあとでも、食べ物を食べる中でいろんなことを感じるようにはならずに、甘いのが美味しいのだと思いながら、甘い煮物を作り続けたりしてしまうのだ。
 祖母は若い頃から働いていたから、実家でも料理を手伝ったりすることがなかったようだし、そのあとも誰から料理を教わったこともなく、自分でも料理本の通りに作ってみたりとか、料理を勉強しようとしたこともなかったひとだったのだろう。大人になって、仕事を得ようと神戸にのぼってきて、結婚して子供ができてからも、あれこれ仕事をしていて、家事に専念できたこともなく、子供たちにも商店街で買ってきたものとご飯で勝手に食事をすませてもらっていたらしい。父親も、祖母は料理のできないひとだからと言っていたし、俺が記憶にある範囲でも、正月の丸餅以外に具のない雑煮は濃厚に出汁をとっただけの甘くないもので美味しかったけれど、その他には、甘い煮物をたまに作っているくらいで、親族の集まりでは、ひたすら買ってきたものが並んでいた。そもそも食べることにあまり興味がなくて、美味しいものを食べたいという気持ちもなかったのかもしれない。それでも、糖分が持つ強烈な刺激と、糖分による気分の高揚だけははっきりと感じ取れて、甘いものはいいものだということだけは子供の頃からずっと思い続けてきたのだろう。そして、大人になって自分で料理するようになってからは、とにかく甘ければ甘くていいということだけ思って、いい気分になりながら料理に大量の砂糖を投下し続けてきたのだ。
 手に入らない何かを強烈に欲しがって長い時間を過ごして、ついにその何かを手にすることができて、やっぱりそれがいいものだったときには強烈な喜びがあるのだろうし、それ以降はそれに触れるたびにうれしい気持ちになれてしまったりするものなのだろう。けれど、そういう喜びというのは、コンプレックスの裏返しとか、昔それを得られなかった恨みを晴らすことの気持ちよさとか、そういうもので気持ちよくなっている部分も大きくて、ちゃんとその物自体を感じずに、思い込みでそれを楽しんでしまっている状態だったりもするのだろう。
 祖母の甘い味付けにしても、甘いものは美味しいという感じ方の経路が確保できたあとに、常にそこに固執することで、甘くて美味しいということだけ思って、食べることからいろんなことを感じようとしてこなったということでもあるのだろう。その結果、そういうコンプレックスを共有していないひとからしたときには、世の中のいろんな食べ物のいろんな美味しく感じるバランスのどれからも逸脱した、甘ければいいというだけの食べ物を作るような、食文化を愚弄するかのような味付けをする、味覚を放棄して生きているひとのように思われてしまうことになったのだ。
 それと同じで、自分が親からひどい扱いを受けて、欲しいものも与えてもらえなくて、べたべたとかわいがられて、何でも欲しいものを与えてもらっているひとたちを羨ましく思っていたからといって、かわいがられることがいいことで、かわいがられるほどに幸せに決まっていると思って子供に接するのは、あまりにも自分のコンプレックスがらみの価値観に固執しすぎている状態だということになるだろう。もしも、自分と同じように、親からかわいがられなくて、欲しいものも与えられず、ずたずたに傷付けられた末に捨てられた子供を引き取ってきて育てるのなら、人間はかわいがられるとうれしいし、うれしいに越したことはないに決まっているというような単純なことを思って接していても、かえってそれが相手にとっては一番受け入れやすい愛情の形になったりするのかもしれない。けれど、同じコンプレックスを共有して、同じものに飢えていないのなら、そういうわけにもいかないのだ。子供はかわいがってあげるほどいいというのは、現実の人間の気持ちの動きを無視した距離感で善意を一方的に押し付けていることにしかならない。そして、そういう親からのむやみにかわいがられる距離感というのは、人間と人間がお互いの気持ちを確かめ合いながら、お互いの意思を尊重し合いながら一緒に何かをするときの距離感からかけ離れたものなのだ。そういうような、慣れさせることに全く価値がないものに、母子という人生で一番深い関係になるかもしれない相手で慣れさせようとするのは、身体が痛いときにモルヒネを打ってもらって最高だったからと、どこも痛くない子供にもたくさんモルヒネを打ってあげようとするようなことと大差がないのだし、子供の人生の邪魔をしていることにしかならないだろうと思う。
 そういうことを、ほめてもらえなくて、かわいがってもらえなくて、欲しいものも全然与えてもらえなくて、悲しくてしょうがないことが生まれてから大きくなるまでずっと続いて、それをずっと悲しく思ってきた君のお母さんに言ったとしたら、どうなるんだろうと思う。
 ポテトサラダと一緒にするなとブチ切れされそうだし、俺だってわざわざポテトサラダの話として説得したりはしないと思う。けれど、俺からすれば本当にそれと同じようなことに思えてしまうんだ。実際、甘すぎるポテトサラダは本人にとっては自分の好きにすることなのかもしれないけれど、子供にとってはそういう考えで作られた食べ物を食べさせられて育つことはいいことではないんだ。
 俺の父親は社会人になってから、先輩にたくさん飲んだり食べたりに連れ回されて、自分でもいろんなお店で食べるのが好きになったようだった。結婚しても夫婦でたまに美味しいものを食べに行くようにしていたし、テレビでもよく食べ物の番組を見ていたし、たまに何か料理するときもバランスのおかしな味付けはしなかった。けれど、父親の妹であるおばさんは、どちらかというと料理を積極的にやる方だったけれど、たまに食べさせてもらう機会があると、いつも甘さが他の風味より浮きすぎた感じになったものを作っていた。一度カレーを出してもらったときは、市販のルーを使ったカレーだっただろうに、ミックスベジタブルの甘さと、他にも何かの甘さが加えられていて、こんなに甘くて美味しくないカレーは初めてだと驚いたし、さすがあの祖母の娘だと呆れた。
 子供の頃に当たり前のものとしてすりこまれたものは、子供が外の世界で違う価値観に出会って、それにショックを受けて、自分のこれまでの価値観を相対化したうえで、いろんなことに興味をもって、新しい価値観での体験を積み直していかないかぎり、そのひとの一生にずっとついてまわるのだろう。それは料理が甘いのだってそうだし、あれこれほめまくって子供を甘やかしてかわいがりすぎるのも、その子供によくない影響を残してしまうんだ。

 やみくもにほめられることで一番悪い影響を受けるのは、むしろ君が何もできないくらいに小さい頃なのだろう。小さい頃には、君はただそこにいてよちよちしていることしかできない。けれど、親というのは、その状態の君にすら、かわいいかわいいとほめまくることができてしまう。そして、記憶にないどころか、君がまだ言葉もわからないくらいの頃から、君はかわいいと言われ続けて、それを言われるのが当たり前な状態のまま、だんだんと自分は自分だということをわかってきて、世界がどんな場所なのかを知り始めることになる。かわいいかわいい、一番かわいい、世界一かわいい、誰よりもかわいい、かわいいのを見ているだけで幸せなんだよと毎日言われながら、世界の中での自分や、友達の中での自分を知っていこうとすることになるとして、君はどういうものの感じ方をするところから人生がスタートすることになるんだろうと思う。
 君はものごころがついた時点で、お母さんにおだてられるままに、自分はかわいいし、まわりの子よりもかわいいとなんとなく思っていて、そのぶん自分はえらいような気持ちがあるような子供になっているのだろう。
 君がきれいな顔の男の子になったとして、それはいろんな局面で強力なことだから、君は実際に自分はえらいと勘違いしそうになってしまうだろうけれど、いくら君のお母さんが君のことをすごいかわいい、一番かわいい、かわいい顔を見せてくれるだけで幸せだよと言ってくれたからといって、君はそう言われたぶんだけえらくなるわけではない。自分が誰かよりかわいいから、自分はそのひとよりえらくて、かわいいからという理由で特別扱いされるのも当たり前だと思っているというのは、単なる思い上がりでしかないだろう。
 君の顔がかわいいのは、君が何かをしたからそうなったわけではないことなのだ。そういうものでほめられてしまうことで、小さい君は、何をしているわけでもないし、実際何もできないのに、ただそこにいるだけで自分はすごいんだという気分になってしまう。
 ちょっと見た目がいいからといって、自分がまわりの見た目がいまいちのひとたちよりえらいと思っているひとというのは、会社の外でも社長である自分は社長扱いしてもらって当然だと思っているようなみっともないひととたいして変わらない。会社の中での権威は、会社の中とか、ビジネス的なつながりのある界隈の中でしか権威として機能しないものだろう。見た目がいいことにしたって、そういう種類の見た目を見た目がよいものとしている界隈の中で、見た目がいいことをぜひとももてはやしたいと思っているひとたちにとってしか権威を持ちえないものなのだ。
 問題は、見た目こそが、同じ社会の中ならどういう場所でも通用するような形で権威化されているということなのだろう。世の中の多くの場所で、かなり多くのひとが、どういうひとが見た目がよくて、見た目がいいのはえらいということについて、同じ権威を認めて生活している。だから、ブスはどこに行ってもブス扱いされているし、見た目がいいひとはきれいなひとをちやほやすることで気持ちよくなりたいひとにちやほやされても当たり前のようにしているのだろう。
 もちろん、それがルッキズムとして非難されているもので、見た目のよさを階層化して、その階層に合わせて相手の扱い方を変えるような感覚で振る舞ったり発言することは、だんだんとマナー違反として扱われるようになってきているのだろう。
 君はそういう時代の流れとは逆行するような育てられ方をすることになるということでもあるんだ。君のお母さんからすれば、君が自分がかわいいことにえらそうにしてくれないと、かわいがることを楽しめない。君のお母さんは、ただ君を喜ばせたいだけではなく、君におだてられて喜ぶような思い上がった子供になってほしいわけで、君は延々とそういう喜び方をするように誘導され続けることになるのだ。
 もちろん、かわいいのがえらくて、格好いいのがえらいという感覚を持ったひとになったからといって、世の中に出て困ったりすることはないのだろう。それは人間の自然な感じ方で、同じような能力とか存在感のひとが並んだときには、より見た目にいい印象を受けるひとの方を、より有能で魅力的なひとに感じるものなのだろうし、それはこれから先も変化しない。変化するのは、世の中できれいだとかかわいいと言われているものの画一性が下がってくることと、それによって、かわいいとかきれいだと言われているひとのあり方をなぞっているだけの、それっぽいだけのひとは、たいしてきれいだともかわいいとも思ってもらえなくなって、実際に存在感があって魅力的なひとたちだけが特に見た目のいいひとと見なされるようになっていくというくらいのことなのだろう。そして、多数派のひとたちは見た目のいいひとをちやほやすることを楽しんでいるし、今の階層化された見た目の序列の中を上昇することにモチベーションがなくもないから、そういう変化は多くのひとが思っているよりは緩やかなものになるのだろう。君が思春期の頃だって、まだまだ人並みより頑張ってこぎれいにしているだけの多少顔の整ったみんなが言うようなことしか言わないつまらない男女がそれなりに美形として扱われているのだと思う。
 君はルッキズム的な権威からなるべく心の中で距離を置きながら生きていくべきだということはこれまでに書いた。君は自分のことを勝手に権威の中で位置付けてきて、その権威の中で君がそれなりの存在であることについて、すごいねとか、格好いいねと言ってくるひとの、その不純な気持ちの動きに敏感であるべきなんだ。
 もちろん、君はそれなりに見た目がいいのだろうし、むしろ、そういう権威が強く作用している場所に行った方がいい思いができるのだろう。みんな、自分が優位になれることについては、進んで権威に近付いていこうとするものだし、君がそうしたって、恥ずかしい思いをすることはないのだろう。
 どうしたところで、ほめられて喜ぶというのは、ほめてくれるひとたちの集団の中での順位が上がったことを喜ぶことでしかないのだ。集団に埋没しているときの人間の心はそんなふうに動いてしまうものだけれど、それが身体の自然な反応なのだから、そういう反応ともうまく折り合って楽しくやっていこうとしていると、せっかくほめてくれているのだから喜んでおこうというくらいのつもりで、君はいつの間にかルッキズムを当たり前に内面化していくことになってしまう。それは集団の中で自分がいい地位にいるからと、できるだけいい気になって過ごすために、いい位置にいるひととして他人を見ようとするようになるということで、それこそ俺がずっと集団の中にすっぽり収まっていばろうとしてはいけないと言ってきたことそのものでもあるんだ。




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