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【連載小説】息子君へ 115 (26 ほめられないと縮こまるタイプにならないようにね-2)

 けれど、実際に子供をかわいがって甘やかしている親たちの多くからすれば、ほめることが子供にどういう影響を与えるのかということは、どうだっていいことなのかもしれない。かわいがってあげたいから、たくさんほめてあげているだけで、子供のためにそうしてあげている気持ちなんて全くないのかもしれないし、そもそもかわいがることを絶対的にいいことだと思っていて、ほめるのはよくないと言われたとしても、かわいがっているだけなのに何を言っているのかと意味がわからないのかもしれない。
 俺の両親くらいが、それほどかわいがられて育ったわけではない最後の方の世代だったのだろうけれど、子育て世代の多数派が俺の両親よりも下の世代になってきた頃には、世の中の空気として、子供はあまり甘やかしてはいけないという考えは昔のひとの考えとして扱われるようになっていったのだろう。そこからずっと、子供はいくらでも甘やかしていいことになったことをみんな喜んできたのだろうし、みんな実際に子供を甘やかして育ててみて、それをよかったなと思ってきたんだろうなと思う。自分が子供の頃より楽しい子供時代を自分の子供に過ごさせてあげられている気持ちになっていたのだから、自分がいいことをしてあげられていると思うのは当然のことなのだろう。
 子供の方だってそうで、たくさんちやほやしてもらって、自分には価値があるんだと実感させてもらえるような言葉をたくさんかけてもらいながら、自分が好きで、自分の家族が好きな子供として育つことができた子供が増えたのだろうし、若い世代の多数派グループのノリも、そういう方向に変わり続けてきたのだろう。
 もうずっとそうで、世の中の若いひとたちのかなり多くは、たくさんほめてもらいながら育ったひとたちなのだろう。ぼろぼろに傷付けられながら育つ子供の比率は少しずつ下がっているのだろうし、手をかけてもらえないまま育つ子供も昔よりは減って、それで子供たちや若者たちの世界は実際に昔よりもマシになっている面もあるのだろう。
 みんな相変わらず権威主義的なのは人間の動物としての習性なのだろうし、それがこの十年で加速しているとしても、インターネットのせいなのだろうから仕方がないのだろう。少なくても、暴力的だったり攻撃的だったりするひとは減ったし、他人を押しのけるようにしていばりたがるひとも昔より減ったのだろうなとは思う。
 ただ、それは俺が乱暴なひとたちがあまりいない界隈で生きているからそう感じるのかもしれない。若者時代は乱暴なひとも混じった無作為に集められたような集団にいることもあったけれど、社会人になってからは、街ですれ違ったり飲み屋の近くに座っている若者を見る以外には、自分の業界に来るようなタイプの若いひとしか目にすることがなかった。けれど、俺が働いている業界にくるようなひとたちのことだけを考えても、若いひとになるほど、みんな自分をほめられて伸びるタイプだと思っていて、自分に対してポジティブというわけではないことを言われている間、ずっと居心地が悪そうにしていたり、何でも言える状況でも、反対意見を言われる可能性がありそうな状況では消極的な発言しかしなくなるようなひとが、自分の若い頃の同年代のひとたちに比べて、かなり多くなったように思う。
 ほめられて伸びるタイプという言い方は、俺が大人になるくらいの頃に日常的な会話にも出てくるようになったようなイメージがあるけれど、俺はずっと違和感があった。伸びるというのなら、ほめてもらうよりも、役に立つアドバイスをもらえる方が伸びるんじゃないかと思っていた。
 もちろん、ほめられると自信がつくし、これでいいんだと思えて不安が減ることで集中できるようにパフォーマンスが上がるとか、ほめられて伸びるという言葉で何が言いたいのかはわかっている。俺も学生の頃に、自分では普通にやっていたつもりだったことを、テスト用紙とかレポートを返されながらセンスがいいなと先生に言われて、自分はそうなのかと思って、その後そういう領域になんとなく苦手意識を持たずにいられたりとか、そういうことは何度かあったのだと思う。けれど、それは実際にそうだったわけだし、先生の側もほめてやりたいというよりは、そう思ったというのをせっかくだから教えてくれたという感じだったのだろう。そして、そういうもの以外だと何かポジティブなものを受け取った気がするようなほめられたエピソードは特に思い出せなかったりする。
 俺は放っておかれると怠ける方ではあった。かといって、がみがみ言われていないと頑張れないわけでもなかったし、どちらかというと、厳しくされても平気だけれど、近くでがみがみ言われるとモチベーションが下がる方だった。だからといって、ほめられて伸びるタイプだと思うような経験は自分にはなかった。いろいろと自分のいいところを見付けてくれてほめてくれようとしてくれたひとが身近にいたことがない気がするし、いたとしても、ほめられていて面倒くさいだけのようなほめ方をしてくるひとしかいなかったんじゃないかと思う。
 本当にほめられて伸びるなんてことを、みんな自分で実感してきたんだろうかと思う。けれど、何かの記事で読んだ比較的最近調査だと、世代を問わない七割くらいのひとが、自分はほめられて伸びるタイプだと回答したようだった。もちろん、ちゃんと昔の実体験を思い返してみたときに、叱られてばかりだったひとと一緒に過ごした時期より、自分を認めてくれていて、期待もしてくれていたひとが、ほめてくれたり叱ってくれたりしていた時期の方が、自分を成長させてもらえたと感じるのは当たり前なのだろう。設問自体に偏りがあって、ほめられることと叱られることの影響力を比較するのなら、全く叱られなくてほめられてばかりだったひとと過ごした時期の方が、ほめられたり叱られたりしたひとと過ごした時期より自分を成長させてくれたと思うかどうかという質問をしなければいけないのだろう。
 普通に考えれば、どうだと伸びるかというのなら、ほめるとかけなすじゃなくて、ちゃんと見てくれていて、そのつどちゃんと自分が納得できるように思うことを伝えてくれている場合が一番伸びるのだろう。自分のことをちゃんとわかろうとしてくれているひとが、感じたことを自分のために一所懸命になって伝えてくれるのが、一番自分に気付きを与えてくれるものなのだ。その伝え方がほめるというやり方になるケースはあるだろうけれど、そうならないときも、それ以上に多いはずだろう。だとしたら、自分はほめられて伸びるタイプだと他人に向かって宣言して、ほめられているわけではないときの相手の言葉は始めから心を閉ざしてやり過ごすようにしか聞いていないというのは、誰かと一緒に時間を過ごしていて、せっかく相手が自分に何かを思ってくれて、それを伝えようとしてくれているような、自分に気付きを与えてくれるかもしれない言葉であっても、自分はすごいと自己追認していい気になれる言葉以外は全て拒絶したがっているということになる。それで伸びるもクソもないだろう。
 そういう自己申告をするひとというのは、ただ単にけなされると縮こまるタイプというだけだったりする場合が大半なんじゃないかと思う。そして、もっと迷惑なパターンとして、ほめられていないと何を言われてもケチをつけられていると思っていらいらしてしまってパフォーマンスが下がるというタイプもいるのだろう。そして、そういうひとたちはめちゃくちゃたくさんいるし、若いひとほどそういうことをよく言うし、実際何かを注意されたり、やったことが評価されないとすぐに縮こまるようになってきているなと思ってきた。
 ほめられて伸びるタイプだと主張するときに、本気で一切自分を叱らないようにしてほしいと思っているようなタイプのひとたちというのは、叱られている状況だと叱られていることが嫌で嫌で仕方なくて、もうひとの話をまともに聞いていられなくなるようなひとたちなのだろう。叱られているわけではなく、フラットな感じであれこれアドバイスされることですら、自分のやり方はよくないとか、もっとどうしたらいいのにどうしてそうしないのかと攻撃されているような気持ちになって、攻撃されていることが嫌で嫌でもう何を言われているのかなんてほとんど耳に入ってこなくなるのだろう。単純に、ほめられているという快適な状況じゃないと、ひとの話をまともに聞く態勢になれないひとというのが、ほめられて伸びるタイプだと自分のことを思っているひとたちのことなのだろうし、もしかすると、ほめられながらですら、アドバイスは干渉に感じられて、干渉を感じるだけで心が閉じてしまうのかもしれない。本当にただ、あなたはそれでいいとか、あなたはうまくやったとか、そういうことだけを言ってくれれば、自分はそれでやる気が出るし、自分だって多少の向上心はあるから、アドバイスされなくても、自分で考えたり調べたりして自分で成長していけるから、ただ自分が機嫌よく自信を持ってパフォーマンスが高い状態でやっていけるように、とにかく自分に何か言うのならほめるだけにしてほしいとか、それくらいのことを思って、自分はほめられて伸びるタイプだと主張しているのかもしれない。
 そういう意味では、ほめられて伸びるタイプだという自己申告をしているひとというのは、世の中には叱られてやる気になって頑張れるひともいるだろうけれど、自分はそうではなくて、叱られるとただただ凹んでパフォーマンスが落ちるだけになるタイプだから、無駄なことはしない方がいいと、自分を叱ってもいいことがないということを相手にアドバイスしているつもりだったりするのかもしれない。
 どうしたらそんなに自己完結的な態度でひとの輪の中で働けるのだろうと思う。けれど、一緒に仕事をしていたりすると、本当に一切何も自分のやっていることに文句を言われたくないし、言っている側が文句のつもりじゃなくても、文句として受け取れるのなら文句として扱って不愉快そうな顔をするひとというのはけっこうたくさんいた。そして、そういうひとたちが全員低生産性なひとたちだったわけでもなかった。
 自分のペースでしかやれないし、自分のきっかけでしか何かに気付くことができないひとでも、自分のタイミングでひとのふりを見て自分のふりを直したり、ひとにあれこれ言われているときは、不愉快そうにほとんど聞いていないみたいな態度で聞いていたけれど、あとになって言われていたことを思い出して、自分でそれを検討して自分で納得がいったからそういうようにするようになったりとか、向上心があるひとは、そんなふうに、ほめられているとき以外はほとんどまともに相手の話を聞いていられないようなメンタリティーでも、問題なく仕事をやっていけたりしてしまう。
 ほめる以外には不愉快そうな反応しかしないひとに対しては、確かにほめると機嫌よくなって平常運転してくれるし、叱ると不愉快そうにしてやる気が下がって人間関係が悪くなるだけだし、ほめる以外のことをしても悪影響しかないのは本当だったりするのだろう。
 そして、そういうひとがそれなりにたくさんいることで、現実として、最大多数の最大幸福みたいな見方をしたときには、とりあえずできるかぎりほめてあげるのが一番マシな結果が出るやり方になってしまっているということなのかもしれない。
 自称ほめられて伸びるひとというのは、そういう意味では正しいことを言っているのだろう。けれど、それは太りすぎのひとが自分は運動すると膝が痛くなるんですと言っているようなものでもあるんだろうなと思う。生まれつき関節や筋肉が弱かったりして、運動が苦痛だからじっとしながら楽しめることばかりしていて太ってしまっているひとも世の中にはいるのだろうけれど、そういうひとが珍しいのと同じくらい、生まれつきほめられていないと縮こまるひとは珍しいのだろう。それこそ、発達障害の児童は失敗から学べなくて、成功からしか学習できないとか、そういうことはあったりするのだろうけれど、そういう感情の行き来を難しくさせる特性があるわけでもなければ、ほめていないからといって、けなされているわけではなくて、相手から敵意や悪意を向けられていないのに、何か言われること自体に拒否反応がでたり、防御意識が働いてしまうのは、花粉症みたいな反応する必要がないものへの過剰反応でしかないだろう。
 子供が成長する接し方とか声のかけ方というようなテーマの記事だと、ほめられることが子供が何かをするときの動機になるのはよくないことだということも書かれていることは多い。けれど、そういうことも書いてあるからといって、基本的には子供が頑張ったり、何かできたらいっぱいほめてあげて、いっぱい喜ばせてあげるのがいいというように書かれている。そして、仕事の部下のマネジメントでは、ほめられるところがないように感じても、何かしらほめられるところを探してほめてあげるべきだと書いてある。それはひとつながりな話だったりするのだろうとも思う。
 俺の世代でも、親に殴られたり叩かれたりした子供の方が圧倒的に多数だっただろうし、小学校は頭がおかしくなっていた先生しか叩いていなかったけれど、中学高校は授業中でもそれ以外でも先生が生徒を殴ることが普通にある中で育った。昔のひとは親からも殴られたり怒鳴られたりして育って、そういう扱いにも慣れていたのだろう。親からそうやって育てられたひとは減ってきて、体育会系の集団で過ごしてきたひとでもないと、そういうノリには耐えられなくなってきて、それがさらに進んで、いちいちほめてもらわないと不安でしょうがないひとがたくさんいるような状態になってしまったというのもあるのかもしれない。
 それは逆に言えば、とりあえずほめられているからと気をよくできるような、自分のほめられ方の中身のなさは気にならないという意味で鈍感なひとが増えたということでもあるのかもしれない。そして、三十代の前半より下くらいだと、そういうひとがかなり多くなってしまっていて、そういうひとたちをマネジメントすることに、昔育ちのひとたちが昔の若者に接していたノリで接していてはどうにもならなくなってきているのがこの十年とかなのかもしれない。すぐにへこみまくって、すぐに精神的にダウンしてしまったり、すぐに会社を辞めてしまうひとたちと、そういうひとたちよりもう少し要領がいいだけで、似たような雰囲気のひとたちに対して、いろいろ言いたいことがあっても、とにかく機嫌よくやってもらうところからしか何も始まらないのだろうというような諦めがだんだんと共有されてきているのがここしばらくなのだろう。
 そういうひとたちがほめられているからこれでいいんだと思って、自分に都合よくだらけるようになったとしても、みんながやっているくらいのことはやってくれるし、ほめてもらえなくていらいらされて、他のひとに悪い影響が出るよりはよりは、はるかにマシだと思いましょうというのが、とにかくほめようという延々と繰り返されるアナウンスが世の中に刷り込もうとしている感じ方なのだろう。
 小さいときから日常的にいろんなことを制限されて、そのかわりに自分がやりたいと思ったわけでもないことをやらされて、あれこれほめられていることで、他人が望むあれこれに付き合わされているストレスをうやむやにしながらやってきたというのが、若いひとたちの普通の感覚だったりしているのかもしれない。自分の好きなことを勝手にやっていられるわけでもないのなら、ごちゃごちゃ言わずに、さっさと満足して、それでいいとほめてもらえないとやっていられないというくらいの感覚のひとが増えてはいるのだろう。少し頑張ってみたくらいで、頑張ったね、すごいねとほめられてばかりきたのだ。怒られたりけなされたりしながら何かをやらされてきた経験も少ないし、あったとしても、部活のように、みんなでどなられて、みんなで頑張っていたようなパターンで、みんなと同じように対応していただけなのだろう。自分ひとりで怒られたり、責められたりする中で、相手の圧力に流されてしまうばかりではなく、自分が取りたい態度を取れるようになるための訓練になる経験があまりにも少なかったりするひとばかりなのだろう。そういう扱われ方をされている状態が自分の中で普通の状態になっていないから、そうされるたびに自分が非常事態に置かれているような嫌な気持ちになってパフォーマンスが急激に落ちてしまうひとが増えすぎて、もう世の中はほめておくことしかできなくなってきつつあるということなのかもしれない。
 もちろん、世の中全体がそうなっているわけではなくて、集団によることだったりはするのだろう。お互いのやっていることに興味を持ち合って、何かを思ったらそれを伝え合うというのは、それが当たり前になっている集団では、当たり前に延々とサイクルしていることなのだろう。そういう集団では、やみくもにほめておけばいいと思っているひとがいたときには、まわりのみんなから、もうちょっと考えればいいのにと呆れられていたりするのだろう。呆れられつつ、悪いひとではないし、そういうひとがいるのも全体の雰囲気には貢献しているからと、たまに真剣に話し合っているときに何も考えずにほめようとしたときに、ちょっと黙ってろと釘を差されたりするくらいで、やんわりと受け入れられている感じになるのだろう。
 けれど、自分のやり方を自分で突き詰めてきたようなひとたちの集団でもなければ、全体としてはそんなふうにはならないのだろう。言われたことを言われたようにやるというのが基本の人生を送ってきたひとたちが多数派になる集団では、一部のひとだけしか他人のやっていることに興味を持っていなくて、大半のひとは役割分担をされたものを面倒くさがりながら、自分が楽しめそうなところがあったら楽しもうというくらいのモチベーションでぼんやりとやり過ごしている感じになりがちなのだろう。やらされている側として仕事をしているひとたちの集まりなのだから、そうなるしかないし、やらされている側のひとたちは、自分はやらされたことをやっているんだから、やらせている側には、やったことをねぎらう誠意を見せてほしいと思うものなのだろう。
 君が生まれつき優秀なら、放っておいても優秀なひとたちで集まっている集団にたどり着くし、その中でみんなと刺激を与え合って生活していけるのなら、いくら世の中にほめられすぎて育ったひとが増えていても、あまり関係がないのかもしれない。けれど、君は俺と君のお母さんの子供だし、普通のひとたちの中で生きていくことになる可能性はとても高い。だから、とにかくほめておけばいいという物言いがまかり通る界隈の中で、君がまわりにいるひとたちの姿と自分の感情の動き方のギャップに何を思うべきなのかということを書いているんだよ。
 俺がこんなことを書いているのは、君がそれほど知的能力や運動能力が高い子供ではなかったとしても、君は集団の中でその他大勢としては生きないと思っているからなんだ。特に目立ったところがなくて、まわりの多くのひとからはその他大勢のように思われていたとしても、君自身は自分を世界の中心のように思って、自分の気持ちをいつでもなんとなく感じていて、まわりの子に合わせているだけであっという間にその場のあれこれが流れ去ってしまうような毎日を送るわけではなく、いろんな気持ちになっていろんなことを思う日々を送るのだろうと思っている。
 俺は君が自分のことは自分の気持ちが決めるということを当たり前に思って生きていくと思っているから、そういう君にとって、君のお母さんからかわいがられすぎることは、君の人生の邪魔にしかならないと思っているし、たくさんほめられて育てられることも君にとってプラスにはならないと思っているんだ。
 親にほめられてうれしいこと自体は自然な気持ちの動きなのだろう。けれど、ほめられるようなことをしようとしたがるのが子供の気持ちの動きとして自然なものなのかどうかは別の話だし、そもそも、ほめられて喜ぶということ自体、自然な気持ちの動きなのかということでもあるんだ。そして、ほめられたい気持ちというのは、君のお母さんのように、あまりにも長続きして、人生まるごとを覆い尽くしてしまうものになってしまったりもする。
 自分をすごいと思うことは気持ちがいいことなのだろう。みんなの前ですごいと言ってもらわなくても、頭の中でそう思っているだけでも気持ちがよくなれるのだろう。それに快感があるから、たくさんのひとの中で生活するようになって、自分がすごくないことを思い知る経験ばかりを毎日するようになってからも、自分はやればできるんだとか、本当はすごいんだとか、そういう妄想をずっと手放せずにいて、頭の中で自分はすごいというポルノを繰り返し再生することをやめられないままになってしまうひとがたくさんいるのだろう。
 全く何もすごくないのに、いつまでも自分はすごいと思っている男というのはとてつもなくたくさんいて、そういうひとほど、おだてられるとその瞬間にうれしそうにしたりする。自分の妄想は妄想だとわかっているけれど、妄想しすぎでほとんどそういうつもりでいる時間が長すぎて、他人がちょっとすごいと言ってくれたら、やっぱり本当に自分はすごいみたいに思ってしまって、一気にうれしくなってしまうのだ。そんなにもちょっとしたおべっかですぐに気持ちよくなるというのは、誰かが自分をすごいと言ってくれるのをいつも待っているような状態で生きているということなのだろうし、それはとてもみっともないことだろう。
 大人になってからだって、かなり多くの男たちが、あれこれほめられたり、実際よりもいいひと扱いされたりしながら、自分の話をにこにこ聞いてもらいたくて、キャバクラに行っているのだろうし、充分すぎるほど生きて老人扱いされるようになってからも、まだちやほやされ足りなくてスナックに行ったりしているのだろう。
 そういう男たちは、自分ではキャバクラのひとがほめてくれるのを真に受けているわけじゃなくて、それがお仕事で言ってくれているおべっかであることはわかっているし、わかったうえで楽しんでいるのだから、害はないだろうと思っているのだろう。けれど、キャバクラが好きなひとたちというのは、おべっかだとわかってはいるし、自分では本気になっていないし、おべっかに喜んだ感じでリアクションしているのだって、半分冗談でやっているつもりなのだろうけれど、実際は心身ともに本当にうれしくなっているし、相手が半分バカにして言っている場合も気が付かないくらいにほめられた瞬間に気分のよさでいっぱいになっていたりする。それはあんまり好きじゃないなと思っているポルノでも、抜きにいけば抜けるようなもので、自分では不本意なつもりだし、映っている女のひともブスだと思いながらも、見ていればなんだかんだすぐに勃起してくるようなことと同じなのだろう。
 ほめられることが好きになるというのは、それくらい鈍感になるということなんだ。相手から感情を受け取っていない状態でも、ほめられているというシチュエーションを与えてもらえればそれだけで気持ちよくなれてしまうものなのだ。シチュエーションとして自分のそばにいるひとが自分を持ち上げてくれている状況になっていて、心がこもっているかどうかは関係なく、笑顔でそれらしくほめてくれさえすれば、充分にほめてもらえたうれしさを感じられる。それは、そそると思わない女のひとがひどい演技をしているポルノでも、とりあえずポルノらしい体裁でポルノらしい映像として見せてもらっていれば勃起するというのと同じなのだろう。女のひとが死んだ目で棒読みっぽくほめていても、ほめられた男が喜んでいるということに、それを見る多くのひとは気味悪さを感じるけれど、死んだ目で棒読みっぽくあんあん言っていても、裸で入れられているところを見せてもらっていれば勃起するのだから、大好きなおべっかにも同じくらい鈍感になれるのは不思議なことではないのだろう。
 もちろん、キャバクラに行くようなひとたちだけがほめられることで鈍感になっているわけではないのだろう。キャバクラに行くかどうかは、ライフスタイルとか、どういう界隈で生きているのかの違いでしかない。自分はほめられて伸びるタイプだと本気で思っているようなひとたちも全員そうなのだし、そうすると、かなりのひとが、ほめてもらえたときにできるだけ気持ちよくなれるように自分を鈍感に保っているということになるんだ。
 どうしてなんだろうなと思う。ほとんどのひとが、鈍感なひとをうとましく思っているはずだろう。どうにかしてほしいと思っていることとか、どうしてもちゃんとわかってもらいたいことがあっても、わかってほしくて真面目に話すだけで、拒否反応を示してきて、受け流すような態度で半笑いになって視線を外しながら聞き流して、全然話も理解してくれないままで話を終わらされて、翌日になってもやっぱり言われたことを自分で考えてくれた形跡もなくて、態度や振る舞いも全く改めてくれないというよくあるパターンを、誰もが心底不愉快に思っているものだろう。普段からへらへらと自分はほめられて伸びるタイプだと言っているような相手だとしても、こちらの気持ちの切実さを無視して自分に対して面倒くさそうにされるたびに、どうしても軽蔑心が湧き上がるし、パートナーであっても嫌いになりそうだったり、別れたいと思うくらいに嫌な気持ちになるものだろう。それなのに、七割のひとが自分はほめられて伸びるタイプだと思っているのだ。
 その調査自体軽いトーンのものだったのだろうし、自分が実際にどんな経験をしてきたのか振り返りながら調査に答えたわけではないから、自分をほめられて伸びるタイプだと答えることに恥を感じなかったというのもあるのかもしれない。けれど、ほめられて伸びるタイプかというテーマの会話に巻き込まれたことくらい、誰にだって何度かあるものだろうし、自分がどうなのかは考えたことがあるのが普通だろう。それで七割ものひとが自分はほめられて伸びると思っているのだから、ほとんどのひとは、自称ほめられて伸びるタイプのひとたちに慣れていて、特別の嫌悪感などないのかもしれない。
 怒られるとまともに話を聞けないとか、真面目なトーンで話しをされることすら苦手だというひとに嫌な気持ちになったことがあっても、それと相手が自称ほめられて伸びるタイプだということが結びついていなかったりもするのだろう。もしくは、自分が何か伝えようとして不愉快そうにされると嫌な気持ちになるからって、自分も他人からほめる以外のやり方であれこれ言われると不愉快でしょうがなくなってしまって、ほとんど聞いていない状態になってしまうから、ひとのことは言えないというのもあるのだろう。そういう後ろめたさがある状態で、みんなもそれが普通でしょという感じで自分はほめられて伸びるタイプだと言っているから、そういう自分を恥じなくてもいいのかもしれないと思って、真面目な話をまともに聞けないひとだという意味だとうっすらわかっているうえで、むしろ開き直りのようなものとして、自分はほめられて伸びるタイプだと七割のひとが答えているのかもしれない。




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