【連載小説】息子君へ 242(終)
そんなふうに書き終えたんだけれど、どうもそれではいけない気がしたから、書き終えたあとのことも書いておこうかと思う。
君に伝えたいことがあると思ってこの手紙のようなものを書き始めたのは本当なんだよ。そして、君に伝えられるのならと思って、本当に思っていることを書いたのも本当なんだ。
けれど、これをいろんな場所で書きながら、いろんな親子やいろんな子供たちの姿を見ていて、別に君のお父さんになれたとしても、俺は君に何をしてあげられるわけでもないんだなと思うようになってきた。
俺ができることなんて、ある程度自分というものができて以降は、ずっとスクリーンを見詰めて無表情なまま何かを思ったり、スクリーンの中の何かを操作しながらひとりでいい気になっている君の横顔を見ながら、いろんな種類の餌を出してあげるくらいしかないんだなと思って、だったら別に君のお父さんになんてなれなくてもいいのかもしれないと思うようになった。
君が自分の気持ちを自分でゆっくり感じようとするような子になって、ひとの話をゆっくり聞くようになって、損得じゃなくて、自分の気持ちがそう動いたからそうするというのが当たり前で、自分の心が自分をどこに連れて行ってくれるのかを楽しみながらいろんなものに触れていける子になれるように、俺にできることをしてあげられたら、それは自分は子供にこんなことをしてあげられたと自分自身に誇れるようなことなんだろうと思っていた。そのためにどうできたらいいなと思うということをずっと書いてきた。
けれど、この手紙を書きながら、街の景色と、街の景色の中に埋没した子供たちを見ていて、君だって、ずっと携帯電話を見詰めて過ごす子供になるしかないんだなと思ったんだ。俺だって、二十歳以降で大きく感じ方が変わっただけで、ゲームをしていられるのならずっとゲームをしているだけで満足していられる子供だったし、俺が若者時代にマイペースな人間だったのは、単に思春期や青春時代のピークにインターネットが身近になかったからだった。街の中の子供たちの姿を見ていて、俺が今の子供なら、ずっとゲームをしてばかりで、ずっと動画を見てばかりになるのだろうし、自分の感じていることを自分で感じようとなんてするはずがないんだなと思った。そして、そんな俺の子供なんだったら、別に子供なんて育てられなくてもいいのかもしれないと思ったんだ。
もちろん、実際に君のお父さんになれたのなら、できることはしてあげるし、いろんなことを一緒にするし、いろんなところに一緒に出かけたり、美味しいものを一緒に食べたりするし、そういう楽しい時間をたくさん共有したなりの親子関係にはなっていけるのだろうし、何度も感動することがあって、父親になれてよかったなと心底から思うことになるんだろう。子供を育てられないよりも、子供がゲームばかりしたがるようになるまでの数年でも、そういうことを経験できた人生の方がいい人生だったと自分でも思うのだと思う。
それでも、ずっと子供を育てることを最後の希望のように思っていたけれど、もう今のやる気がなくなってしまって、心がほとんど動かなくなってしまった俺にとっては、子供を育てることですら、結局がっかりして終わりになってしまうのだろうとしか思えないことになってしまった。もしもそんなことがありえるのならと思って、子供のことを考えていたけれど、そんな唯一の希望らしきものすら、この手紙を書きながら多少なりとも具体的にあれこれ考えたことで消え失せてしまったんだ。
そもそも、俺は子供を育てる生活がしたかっただけで、自分の子供がほしいわけではなかった。遺伝のことや発達障害のことを本で読んだりするようになるまでは別に養子でも何でもいいと思っていた。俺は昔から自分のことを特にいい人間だとも思っていなかったから、人間には自分の遺伝子を残したいという本能があるというようなことを書かれているのを読んだりするたびに、自分の遺伝子こそ生き残ってほしいなんて全く思わないし、別に養子でもいいだろうにと不思議に思っていた。
この数年くらいで、遺伝によって身体的気質的特徴があまりにも強く決定付けられるということを知って、養子でいいじゃないかという思いは消し飛んだ。大多数の男を話がまともに通じなかったり、自分のことしか考えていなかったり、損得抜きに他人のことを自分のことより優先できないようなひとたちだと軽く軽蔑している俺が、かなりの確率でそういう男の血を引き継いでいる養子をもらうなんていうのはびっくりするくらい大変なことだったのに、養子でいいじゃないかというのは、特に俺のように多くのひととはノリが合わない人間には危険な考えだったし、俺の場合は、自分と一緒にいられるようなひとと自分との子供を育てる方がはるかに安全なのだろうと今は思っている。
けれど、本を読んだりしたことで、父親の年齢が高いほど子供に発達障害の傾向がある確率が高くなるというのも知った。これから誰かと出会って、四十歳を過ぎた自分で子供を作るとなると、また話は違ってくるんだなとも思った。父親の年齢のことは、統計的には、診断がつくような強めの発達障害の割合とはいえ、そんなことを気にして子供を諦めるのはバカげている程度のものだったりはする。けれど、それ以外にも、俺の血筋というのはそこまでリスクが低いわけでもなかったりするのだ。
君のお母さんは、虐待の影響もあるにせよ、もろにそういう系の血筋なんだろうけれど、俺だって、祖父はふたりとも何を考えているのかよくわからない感じのひとたちだったし、片方は軽度知的障害だったのだろうし、もう片方だって、ぎりぎりそのレベルだったのかもしれない。祖母たちにしても、片方はずるいことばかり考えていそうな、わざとらしいひとで、俺が生まれたあとでも、束ねられたチラシや包装紙の裏に、よれよれのミミズがはったような字が百字帳みたいに書かれているのを見かけたけれど、今思えば書字障害のような学習障害があったのだと思う。もう片方の祖母も、女らしくなくて知能が高いということで、いかにも発達障害っぽいひとではあった。俺や俺の両親にはそういう傾向が希薄でも、俺の血の中には充分すぎるほどそういうものが混じっている。俺が四十歳を過ぎて子供を産んでもらったとき、診断がつくくらいの発達障害傾向がある可能性はそれなりに低いのだろうけれど、グレーゾーンということなら、けっこうな確率だったりしてしまうのだろうなと思っている。
別に肉体的な共感能力が低くても、他人に興味を持てるひとになってくれれば、それでその子を見守ってあれこれ喋って楽しくしていられるのだろうし、人類はそんなふうに変質していくんだなということを、自分と似ているようで自分とは別の心の動き方をする息子を通して体感するというのは、むしろその方が経験するべきものだったりするのかもしれないと思わなくもない。
けれど、この手紙を書きながら、多くの親子を眺めていて、そして、君のお母さんとの話の通じなかった苦しさを何度も思い出しながら、やっぱり俺は気持ちと気持ちが自動的に通じ合っていて、お互いの言葉を一切誤解される心配がない状態で顔を向け合っていられることをとても大事に思っているんだなと思い知った。俺は子供の頃、両親に対して、話が通じないとか、なかなかわかってもらえないと全く思っていなかった。伝えればわかってくれるのが俺には当たり前だったのだ。今でも、インターネットの記事なんかで、勝手なことばかりをしてくる親に育てられたという毒親エピソードを読むたびに、自分がこんなことをされたらと思うと、恐怖なのか怒りなのかわからないような感情で、少し心拍数が上がってきたりするくらいなのだ。君のお母さんと一緒になったとして、夫婦で話が通じていないのは我慢できそうな気がするけれど、親子で話が自動で通じないというのは、俺にはどうしてもグロテスクに思えて耐えきれないのかもしれない。だからこそ、四十歳が近付くほどに、もう子供を育てる生活をしたいなんて思わない方がいいんだろうなという気持ちが強くなってきているのだろう。
どうであれ、俺はもともと遺伝子を残したいという気持ちではなかったんだ。自分が育てられなくても、君が俺の息子で、自分の遺伝子がこの世界に残っていくということをうれしく思えたりするわけではない。だから、君のお母さんから連絡がなくなってずいぶん経った今となっては、君が俺の子供でないことを願ってすらいるのかもしれない。
どうしたところで、君のお母さんは俺にとってずっと一緒にいたいひとではなかった。かわいがることを通してしか好きになれない相手だった。
自分の子供がそんなひとに育てられて、携帯電話の画面ばっかり見て育つなんて、ひどい話だとうんざりしてしまうんだ。だったら、君のお母さんを幸せにしてあげただけで俺は満足だから、どうか君が俺の血を引いていなければいいなと思う。
この手紙を書いたことで、むしろ俺の気持ちはそんなところにたどり着いてしまった。
この手紙を書き終えてしまったら、一度だけ会った、もうおぼろげにしか覚えていない君のことを思い浮かべることもなくなって、次に思い出そうとしたときには、君の顔はおぼろげにすら浮かんでこないんだろう。
君のお母さんから明日にでも電話が来るのかもしれないし、何も言われていないからこそ、その可能性はまだゼロにはなっていなかったりもする。別にそうなったなら、それでいい。君の顔を忘れていたって、君のお父さんになれるのなら、赤ちゃんのときと違って俺によく似てきた君に、新しく第一印象を受け直すというだけなのだろう。俺は今も日々何かしらに触れて何かしらを思いながら楽しくやれている。俺はまともな人間のままだし、君のお父さんになる資格はまだ失っていない。ひとりでも楽しいのだから、君のお父さんになれるのなら、もっと楽しくやれるというだけなのだろう。
けれど、もしそうなったら楽しいだろうなと思っても、そういう未来を生きられるかもしれない自分が羨ましくもならないんだ。そういう未来は自分にはなかったんだなと思っているこの俺は、こうじゃなかったかもしれない俺のことが、もうどうでもよくなってしまった。何もかも、なるようになればいいし、もう何も起こらなくてもいいんだ。
この手紙は、君は心がそのうちに死んでしまうことを前提に生きなくてはいけないよということを伝えるために書いたようなものだったんだけれど、それはそういうことなんだよ。この手紙は、心が死んでいるひとが書いたから、こんな手紙だったんだ。それが伝わればなと思う。
これを書き終えたら、俺は君のことを思い出さなくなる。君がこの手紙を読んでいるときには、俺はもう君のことを何も思い出せなくなって、君のお母さんとのことも、この手紙に書いたことが本当だったのかわからないくらいに忘れてしまっているのだろう。
これを書いているときだけ、俺は君の父親だった。
何もしてあげられないんじゃなくて、この手紙を残してあげられてよかった。父親らしいことではなかったとしても、本当に思っていることを君に伝えられてよかったなと思う。
君の父親はこんな人間だったんだよ。
(終)
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