心が透けて見えるような顔をしていられるのは傷付けられないから
心が見えやすい顔をして生きているひとと、そうではないひとというのがいる。
もしくは、ひとの顔を見ていて、顔を通して、そのひとの中の気持ちの動きが透けて見える度合いということで、顔の透明度という言い方をしたとしたら、なんとなくぴんとくるだろうか。
今さっき一瞬かわいかったなと思うくらいなら、いくらでもいろんなひとにかわいいと感じてきたけれど、そういうかわいさは、すれ違う散歩されている犬がかわいかったなと思った程度のもので、かわいいからといって、すぐ忘れてしまうし、見ているとそのひとのことをどんどん好きになっていったりするには、そういうかわいさでは足りなかったりする。
俺が見ているだけで好きになったようなひとたちというのは、どのひとも顔を通して心がそのまま見えているみたいに感じる時間帯の多い、顔の透明度の高いひとたちだった。
顔の作りで好きになるのではなく、心がよく見えたときに、その心の動き方をいいなと思って、そのひとを好きになるから、俺は他人の顔の作りをどうでもよく思っていたのだろう。
そして、そんなふうに他人に好感を持つからこそ、いかにもブサイクらしい性根の歪んだブサイクを好きになったこともなかったということでもあるのだろう。
君がルッキズムをよくないものに思って、見た目がどうであってもわけへだてなく接するひとでありたいと思っていたとしても、世の中の外見至上主義的な価値観に傷付けられた見た目がよくないひとというのは、ルッキズム的な価値観の中で魅力が低いだけではなく、君にとっても、眺める対象として魅力を感じてあげることが難しかったりしてしまうのだ。
そういうひとたちは自分の外見を蔑まれ傷付けられ続けることで、他人からの攻撃を耐え忍ぶひとらしい外見になってしまっている。
自分に向けられる感情をまともに感じてしまわないようにしているうちに、表情が曇って顔の奥が見えにくくなってしまって、見ていても気持ちが伝わってこなくて、人格の魅力に触れることが難しいひとになってしまう。
君がわけへだてなくしたくても、ブサイクだと傷付けられているひとたちは、傷付けられていることによって、そのひとらしい魅力をこちらに感じさせてくれないひとになっているんだ。
君が他人を見ていてもそのひとの気持ちの動きをあまり感じられないひとになっていたら、見た目なんて何の意味もないんだという自分の思い込みに閉じこもったままでいられたりするのかもしれないけれど、ひとの気持ちを感じていると、そういうわけにもいかなくなる。
もしくは、君が変態なら、そうだったとしても、何かしらの観点で興奮する邪魔にはならないのかもしれない。
実際、メンヘラとするセックスは刺激が強くて最高だというようなことはずっと言われていたりすることだったりもする。
けれど、君が他人の気持ちを感じ取ろうとすることができるひとであるほど、君はそういうひとたちに魅力を感じられなくなるし、振り回してくれることを楽しんでいられなくなって、そんなふうになるまで傷付けられてしまったことを憐れんだり、そんなふうにしてそのひとを傷付け続けたひとたちにうんざりした気持ちになることしかできなくなってしまうはずなんだ。
それなりに多くの男が、メンヘラセックスは最高だと思っているだから、メンヘラセックスには本質的に素晴らしいところがあるはずだし、そんなことをいうのはおかしいと思うのだろうか。
けれど、多くの男がメンヘラセックスに強く興奮するとして、それは単純に、そういうひとたちとのセックスがポルノに近いからなのだろう。
もしくは、メンヘラのひとたちがポルノをなぞるようなことをするのに付き合ってくれるから、メンヘラセックスが好きなのだ。
きっと、メンヘラセックスをしてくれるメンヘラ以上に、ものわかりがよくて、いろいろ気も利いて、あれこれお世話もしてくれて、しかもセックスは自分の好きなタイプのポルノをなぞって、一生懸命演技してくれる女のひとがいるのなら、そういうひととのセックスこそが好きだという男がもっとたくさんいるのだろう。
だからといって、ポルノをなぞるセックスとメンヘラセックスに関連がないわけではないのだ。
そもそもポルノや性産業の世界で働いている女のひとたちが、いろんな女のひとたちがいる中で、かなり偏った集団になっているのだろう。
そこには発達障害とか愛着障害とかそういうものが大きく関係しているのだろうし、そういう気質を持っているからこそ、仕事とはいえ、多数派の女のひとたちには全くついていけないような、男のポルノ的妄想に付き合ってあげられるのだろう。
相手の気持ちの動きをリアルタイムではっきりと感じてしまっていると、男が頭の中いっぱいにポルノ的妄想を膨らませて、こちらの気持ちを確かめもせずに自分が興奮するためにいろんなことをしようとしてくることはグロテスクに感じられるし、こちらがグロテスクに感じていることに気付かずにその行為を続けていられる相手の感じていなさに恐ろしくなってくるものだろう。
ひとの気持ちを感じ取ってしまうひとは、グロテスクなことをしてこないひととでないと安心してセックスしていられないし、グロテスクなひととセックスすることに甘んじているひとたちも、何も感じないようにしたり、自分も別の妄想に没頭することで相手の気持ちを感じないですむようにしていたりするのだろう。
けれど、ひとの気持ちがいつもよくわかっていないひとからすると、むしろ、気持ちを確かめ合いながら、お互いがお互いに合わせるようにしてセックスされると、相手が自分に何を求めているのかわからないし、自分が何をすればいいのかもわからなくて困ってしまうのだろう。
そうしたときに、相手がポルノをなぞるようなセックスをやりたがってくれるのなら、むしろ相手の要求がはっきりしているし、やっていることの過激さに興奮させられるぶんだけ自分も入り込めたりしてしまうということになるのだ。
そんなふうに、相手と気持ちが通じ合わない状態でセックスされることが脅威になるひとと、それほどでもないひとという違いがそもそもあるのだ。
そして、ポルノ的な文化というのは、気持ちが通じ合っていないまま好き放題やらせてくれる女のひとの存在を前提にするようにして作られているのだ。
メンヘラとのセックスを最高だと感じているひとたちというのは、そういうものに最高だと感じているのだ。
もちろん、ポルノ的なものの世界の中で勝ち上がっている女のひとたちは、単に共感していないから好きなようにされながらも自分なりに興奮して盛り上がってくれるというだけではない、もっと高度な見ているひとを興奮させるセックスをやって見せているのだろう。
けれど、そういうことをやっていられるということ自体が、先天的なり後天的なりに、まともな気持ちの行き来を遮断できているからこそできることではあるのだ。
性産業で働くひとたちの多くが、そもそもメンヘラ的になれてしまう気質を持っていて、そのうえでポルノ業界で働き出したことではっきりメンヘラ的になってしまっているひとたちなのだろうし、メンヘラ的な気質がさほどなかったひとが性産業で働く場合は、より精神的なダメージが大きくて、そのうちに精神障害になってしまう場合が多かったりしているのだろう。
別に俺だって、変なひとや、自分のことばかりなひとも好きになったことがあるし、そういうひととセックスしたこともあるし、そんなに不快だったわけではなかった。
けれど、相手が自分の気持ちをまともに感じていないのをいいことに、自分の頭の中で妄想を膨らませて、それにのめり込むようにして相手に乱暴なことや変態なことをして、相手がそれに興奮したみたいに大きく反応してくれることに夢中になったりしたことはないし、いつだって、相手が俺の目の中を覗き込んでくれなくて、俺の気持ちをちゃんと感じようとしてくれていないことに、何だかなと思っていた。
そして、このひとはどうしたってそういうひとなんだなと思うたびに、悲しい気持ちになっていた。
そのひとがメンヘラ的であるのは、そのひとがたくさん傷付けられてきたからで、それはどうしたってかわいそうなことで、相手がメンヘラ的であることを、自分やりたいようなセックスをやらせてもらえるからという理由で喜ぶのは、人間への悪意をベースにした変態性でしかないのだ。
君が目の前にいるひとの気持ちの動きを感じ取れるひとならば、君はそのひとを見ているほどに、そのひとの中で歪んでしまっていたり、今でも痛みに耐えて縮こまっているものを感じ取ってしまうはずなんだ。
どういうことがあったのかわからないまま、それほどにまで傷付くようなことがあったんだろうなと繰り返し思わされることになるのだし、それこそがそのひとと接しているときに伝わってくるあれこれの通底音のようなものになるはずなんだ。
たくさん傷付けられてきたうえで、その傷を引き連れたまま、自分の気持ちのままに生きようと頑張って、魅力的なひととして生きているひともいるのだろう。
けれど、たくさん傷付けられてきたひとたちの多くは、そういうわけにもいかないまま生きていたりするし、見た目がよくないひと扱いされてきたひとたちというのは、どこにいても、誰からもそういう扱いによって傷付けられてきたわけで、傷付けられる痛みに耐えるだけで精一杯になって生きてきた場合が多いのだ。
そういうひとたちが、自分を守るために、あまりひとの気持ちをもろに感じてしまわないような習慣を身に付けて、見ていてもそのひとの気持ちがよくわからなくて、いろいろ傷付けられてきたんだなということばかり感じてしまって、すんなりとそのひとのそのひとらしさを魅力的なものとして受け取ってあげられないひとになってしまっているということは、君がルッキズムをよくないものに思って、誰に対してもわけへだてなく接しようとしていたとしても、君がひとの気持ちを感じ取れるひとになっていた場合に、どうしてもそこからしかそのひとに何かを思っていくことができないような、そういう土台となる印象になってしまうんだ。
君はそれを直視していられるひとになるべきなんだよ。
見た目がよくないひと扱いされてきたひとたちは、見た目がよくないからではなく、そういう扱いを受けてきたことで、見た目を気にしていないはずのひとからしても、そのひとらしい魅力を自分の中でくすんだものにしていってしまうことになる。
そうしたときには、本人からしても、ブサイクだから蔑まれているのか、魅力がないひととして蔑まれるときに、たまたまブサイクだからブサイク扱いして蔑まれているだけなのか、よくわからなくなってしまう。
それがどれほどの屈辱なのかということなんだ。
見た目で蔑まれるせいでまともな顔をしていられなくなっているのに、まともな顔をしていられないことも含めて、見た目を蔑まれないといけないというのは、どれだけひどい状況かということだろう。
そして、そういう扱われ方をすることが集団内での自分の役割として固定されて、毎日毎日揺るぎなくブサイクを見る目をした顔が自分に向けられるのだ。
そういう状況の中で、心が透けて見えるような顔をしていられるわけがないのだろう。
他人から見た目がよくないひと扱いされてきたひとは、他人に自分の顔をしっかりと見せようとしなくなる。
自分を傷付けてこないと安心できる相手以外には、なるべく何も言われたくないし、自分に何かを思われたくもないから、顔から自分の中を覗き込まれないようにしようとする。
他人から自分を守るだけではなく、自分も他人を感じすぎてしまわないようにしたいし、自分の気持ちが他人に伝わってしまわないようにしたいというのもあるのだろう。
見ていても何も感じないようなひとであろうとして、目の中に何のメッセージもないようにして、相手から何も感じないように、自分で目を死んだ状態にしていく。
そうやって、顔から透明感が減っていって、曇った目になっていくのだ。
見た目のことであれ、のろまだからとか、理由のないいじめであれ、他人から嫌な目で見られ続けていると、他人の敵意や悪意を待ち構えるような感覚が常に離れないようになってしまうのだろう。
それによって、さらに顔は濁ってしまう。
自分の気持ちとは別の不快な感覚に常に意識がある程度割かれてしまっているような状態になるのだから、それはしょうがないことなのだろう。
そして、そういう状態で生活することで、何もかもに防御的になって他人の感情を遮断しがちになるし、物事をまっすぐに受け取っていられないことでものの感じ方が歪んでいくし、たまに他人とよい感情を行き来させることも難しくなっていくのだろう。
保育園であれ、小学校であれ、人間の集団に加わるようになれば、その中で順序はつけられて、劣位に置かれたひとは、気まぐれに劣ったひと扱いを受けるようになる。
そうやってひとは傷付けられて、傷付くことによって心が少しずつ歪んで、少なくない確率で傷付くほどそのひとの魅力は減退していく。
そうやって集団の中で生き始めて傷付けられるようになる前から、家族によって傷付けられてきて、それによって、心の一部がうまく動かなくなったり、不自然な世界観や人生観を身に付けてしまったことで、集団に入ったときに他人に違和感を与えて、異物として蔑まれてしまったという場合すら膨大にあるのだろう。
そして、生まれてから家族に傷付けられてきた可能性だって、見た目がよくなく生まれてきたひとたちの方が高かったりするのだ。
(続き)
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