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【連載小説】息子君へ 114 (26 ほめられないと縮こまるタイプにならないようにね-1)

26 ほめられないと縮こまるタイプにならないようにね

 世の中には他人をほめなくてはいけないという言説があふれかえっている。けれど、君はそれを真に受ける必要はないんだよ。
 君はひとの気持ちを自然と感じ取れるひとになるのだろうし、そうなったときには、相手の気持ちを感じながら、自分が思うことをすればいいだけで、たくさんほめるのがいいと何かに書いてあったからといって、取ってつけたようにほめる必要はないんだ。取ってつけなくても、ほめたいときにはほめたくなるし、そのときだけほめさせてもらえば充分なんだ。それだと誰のこともずっとほめないままになるのだとしたら、それは君が他人の気持ちを感じていないからなんだし、そのとき必要なのは、とってつけることじゃなくて、目の前を行き交っている人々のいろんな感情の中でちょっとした善意を見過ごしたり、それをどうでもいいものに思うのをやめることなのだろう。
 子供が何かするたびに、できるかぎりほめてあげることを心がけるようになって、子供との関係がよくなったり、子供たちへの指導の効果が上がったというひとがいたとしてもおかしくはないのだろうと思う。けれど、そういうひとがいたとして、それはそのひとがもともと放っておくと全くいい感情を相手に向けないひとだからだったんじゃないかと思う。
 ものの感じ方が歪んでいたり、自分がストレス状態だとすぐにひとにきつくあたってしまうような親だった場合は、ほめることを心がけて、ほめるところを探してそれを伝えようとしたときには、少なくてもそう心がけている間、放っておいたときには発生しなかった肯定的な感情が子供に向かうことになる。そうすると、子供の側も親に対して、言うことを聞かないと嫌なことをしてくるひとというだけではなく、こういうことをしている間は優しくしてくれるひとだというように親への態度も変わって、指導もうまくいくようになるとか、そういうサイクルなら充分ありえるのだろうと思う。
 けれど、そもそも子供が親に対して、どんなときも親は自分にとってよくないことはしないという信頼感があったなら、親の言うことは常に真に受けて聞くのだろうし、そうすれば、意思疎通がうまくいかないということがないし、普段からちゃんと伝わっていることに満足感があるから、それ以上ほめてもらわなくても何の物足りなさも感じないのだろうと思う。
 世の中の子供はとにかくほめてやれという言説は、子供にとってそれがいいということを伝えようとしているというよりは、まともに子供に接することができない親に向けて、ほめた方が得な理由を教えるから、いろいろ思うことがあるだろうけれど、そういうものだと思ってとにかく頑張ってほめろということを伝えようとしているのだと思っていればいいのだと思う。
 それは部下が伸びる上司はほめるのがうまいというような軽く読める記事とまるっきり同じようなものでしかないのだ。周囲とまともに意思疎通できているひとからすれば、そういう記事の内容というのは、納得できる部分はあっても、一概に言えることではないだろうと思ってしまう内容も多いし、単純化しすぎだろうと思ってしまうものである場合が多い。そもそも話した相手に納得感をもってもらえる話し方ができているひとは、想定された読者ではないのだ。まともに部下と接することができない管理職や、仲のいいひととしかいい雰囲気で仕事の受け渡しができないリーダーに向けて、そういうひとたちが、よくわからないなりにとにかくほめることを心がけた方がいいのかもしれないと思ってもらうためのものとして書かれたものであって、そういうものだと思って読まないと、かえって読むほどに頭が悪くなってしまうようなものだったりするのだ。
 世の中には、いらいらしていると、まわりが自分の思っているように動いてくれないことに腹が立つのを止められないようなひとがたくさんいる。社会的に自分の置かれた状況に満足がいっていなければ、いつでもいらいらしているのだろうし、そういうひとたちは、子供に対しても自分をさらにいらいらさせる存在のように感じて、不機嫌さによって子供を脅しながら、自分の邪魔をしないことばかりを要求していたりするのだろう。
 昔から世の中には子供からしたときに接しにくい親がとんでもなくたくさんいたのだろう。言う通りにしないといらいらして、何をしてもすぐにケチをつけてきて、子供を常にうっすら不安にさせ続けてしまうような親は珍しくないのだろうし、そういう親のせいで、間違った行動を取りたくなくて、不安な気持ちでその場の状況に振り回されてばかりいる、自己肯定感が低い子供時代を過ごしたひとがとてつもなくたくさんいたのだろう。
 昔より生活が苦しいひとは減って、子供に対して攻撃的な態度を取ったり、暴力を振るったりする親は減ってはいるのだろう。それでも、放っておくと子供に対して嫌なことばかりしてしまう親はまだまだたくさんいて、だからこそ、いらいらすることに開き直っていないで、とにかく子供をほめろということが今でも盛んに言われ続けているのだろう。
 親の側からしたときに、子供に対してのストレスの種類が変化したというのはあるのだろう。昔は今より悲惨な家庭も多かっただろうけれど、比較的平和な家庭では、子供は放っておいてもらえて、のんびり過ごせていた場合が多かったのだろうと思う。
 俺が育ったのは、貧乏度合いの高いひとたちの少ないニュータウンだったけれど、小学校高学年で学習塾に行っていたのはクラスで五分の一もいなかった。みんなほとんど勉強せず、他のみんなと一緒にダサい格好をしていて、みんなと同じようなものを見て、みんなと同じ遊びをして、みんなそんなものだと思っていたのだと思う。
 今は子供をずっと友達と遊ばせておくわけにもいかなくなっただろうし、子供に兄弟がいる家庭も減って、親が子供と一緒に過ごす時間も増えたし、親が子供に何かをやらせようとしている家庭も増えたのだろう。昔は金持ちとか一部の教育熱心な界隈のひとたちだけが子供にあれこれやらせて親同士で自慢し合ったりしていた文化が、庶民にまで広がってきているのかもしれない。そして、多くの親が子供を放っておかずに手をかけるようになったことで、子供にいろいろやらせてあげているのに、子供が思ったようには頑張ってくれなかったり、成果を出してくれなかったりしたときに、もっと自分の理想像に近付いてほしいという自分勝手な思いでいらいらしながら、子供に対して否定的な小言ばかり言ってしまって、家庭の雰囲気が悪くなったり、自己嫌悪に陥ったりしている親が増えているのかもしれない。そういう親の場合は、結果として小言が減るなら、とにかくほめた方が子供が伸びるという教えを鵜呑みにしてほめまくったとしても、子供にとってはいいことしかないのだろう。
 けれど、そういう場合というのは、その親がそもそも子供のためには自分の思い通りにいかないことにいらいらしたまま接していると逆効果だということも人生経験としてわかっていないようなひとだからそうなっているだけだったりもするのだろう。
 そういうひとたちは、相手に何かを伝えたいときには、とにかく相手の今の感情や相手が今思っていることに合わせた伝え方をしないと伝わらないとか、相手には自分がどういうつもりで言っているのかは関係がないというような、当たり前の感覚が身に付いていないのだろう。そもそも、伝えたいことがよく伝わるような伝え方を自分なりにイメージすることすらないのかもしれない。
 日々他人とやりとりする中で、うまくいかなかったことを振り返って、もっとどうにかならないのかと考えてみたり、何かを気を付けてみたりして、だんだん自分の他人への振る舞いを自分がしっくりくるものに調整していきながら、人付き合いや社会人生活をやってきたひとたちばかりではないのだろう。そういう意味でも、ひとのためだからといって、自分を顧みながら頑張るなんてことはできないひとたちが、とにかくほめろと言われたときに、それなら自分でもできると思えることが大事なのだろう。とにかくほめられそうなところを探してほめるのがいいということなら、何をほめるのかは自分が勝手に決められるし、自分が成長しなくてもできるという意味で、そこまで頑張らなくてもできる簡単そうな努力として、ほめることを心がけるというのなら、やってみようかなと思ってもらえるのだろう。
 そんな親がむしろ多数派なくらいたくさんいるというのが現実だとしたときに、子供主体で考えようとするまともな親は勝手にまともにやっているから放っておけばいいし、裕福なひとたちはそういうひとたち向けのメディアで、アドラー心理学がどうだとかモンテッソーリ教育とかの情報にも触れたりして、ほめればいいというだけではないこともわかっているだろうし、その残りのひとたちに向けて、そういうひとたちはわかりやすい話でないと理解しようという気にもならないから、一般論であるかのようにとにかくほめるのが大事なことだという単純化したことをアナウンスしているということなのだろう。
 何のハウツーも頭にない状態で子供に接していると、子供を自己肯定感の低い子供にさせてしまうことになる親というのは多いのだろうし、そういう親に向けて、たくさんほめてあげて、自分は愛されているし、自分はしたいことをしてもいいんだと思えるようにしてあげることは大事なことだとアナウンスすることはいいことなのだろう。
 けれど、せいぜいそれくらいのことなのだ。放っておくと嫌なことしか言わないような頭のおかしいひとと、ひとの気持ちがあまりわからないひとや、ひとの気持ちを感じる気がなくなってしまっているひとや、ひとりひとりの気持ちを気にしていたらやっていられないような役回りで忙しくやっているひとに向けて、ほめておくというのが一番無難だということを伝えようとしているだけなのだ。もしくは、過干渉して思い通りに成長してくれないことにいらいらして子供を傷付けるよりは、ひたすらほめまくって、やれと言われたことはやったんだからさっさとほめてあとは放っておいてほしいと思うような子供に育ててもらった方が世の中からしたらまだマシだとか、そんな話でしかないのだ。

 子育てという人生をかけた一大事業に対して、みんなそんなにやる気がなくて、とにかくほめろというのが一番効果のあるアドバイスになるなんておかしいと思うんだろうか。けれど、とにかく部下をほめろという単純化した話は、ビジネスの領域でも管理職に向けた記事でよく書かれている。仕事というのは、特に子供を生み育てられるわけではない男からすれば、人生そのものだったりする。そして、自分が業績につながる成果を残すという以上に、自分と一緒に仕事をしたひとが成長することで、自分のあとに優秀なひとを残すことの方が、もっと大きな自分の業績になるというのは、誰もがどこかで読んだり言われたりしてわかっていることだろう。
 それでも現実としては、世の中の上司に選ばれたひとたちの少なくない割合が、放っておくと自分の思うように進まないからと、自分のいらいらする気持ちをまぎらわせるために部下を責めてばかりいたりする。部下に攻撃的な態度をとらなかったからといって、管理職としての仕事のタスクをこなしているだけで、部下がどんなふうに仕事をしているのかを全くまともに見ていないひとや、勝手な思い込みで部下を振り回してばかりいるひとというのも全く珍しくないのだろう。
 みんな仕事で成功したいし、部下にも慕われたいと思っていて、それでもそんなひとがたくさんなのだから、世の中のレベルはそれくらい低いということでもあるのだろう。
 それはやる気の問題ではないのだ。ひとと一緒に気分よく何かをやったり、相手に何かをやってもらったり、何かをできるようになってもらったりということを繰り返していくのは、会社でも家庭で子供を育てていくのでも同じだろう。
 そもそも、平社員の頃から、みんなに嫌なやつだとか、信用できないひとだと思われていて、上司になってもやっぱり同じだったと思われているケースも多いのだろう。そういうひとはどうしようもないのだろうし、そういうひとは子育てでも嫌なひととして子育てするのだろう。
 逆に、みんなから嫌なやつだと思われているわけではなかったのに、上司になると即座にダメな上司だと思われて、嫌われるようにもなってしまうひとというのも、とてつもなくたくさんいるのだろう。それと同じように、友達からするとそれなりにみんなからいいひとだと思われているけれど、家庭では干渉が強かったり、否定的なことをすぐに言ったり、子供をあまりにも頻繁に嫌な気持ちにさせて、よくない影響をたくさん与えてしまっているひとも大量にいるのだろう。
 同僚としては嫌なひとではなかったとしても、上司になったときに、みんなの考えていることをそれぞれのひとの考えとして受け止めることができなかったり、納得感をもってもらえる接し方を誰にでもできるわけでなかったりする場合はとても多いのだろう。そうやって相手主体で考えたり話すという感覚がそもそもないひとは、上司らしい振る舞いを周囲の真似をしてやるのだろうけれど、みんな自分のことしか考えていない上司に慣れているからそれでも仕事は回るだけで、仕事上の信頼関係のようなものは深まっていかない。そういうひとは、自分のことしか考えていないのだから当たり前だけれど、自分なりには頑張っているつもりだから、それなのにうまくいかないと、被害者意識をどんどんとふくらませていきがちなのだろう。そうなると、自分が何をできていないのかもわかっていないし、うまくやれないことにも開き直りがちになるし、それを立場が上のひとがやってくるのだから、嫌な上司だと思われてしまうのは当然なのだろう。きっと、部下を持たされるようになった最初から自然とそれなりな感じで上司をやれなかったひとたちの場合は、上司としての経験を積んでいっても、いばるようになったぶんだけ部下からより嫌われていくことになるひとが半数以上だったりしているのだろうなと思う。
 世の中の多くのひとは、上司になったときにさほどいい上司にはならないのだし、自分の家庭で親になったときでも、相手の人柄や状況に合わせて的確なコーチングのできる親にもなれないのだろうし、一緒にいろいろやっているうえでの喜びをそのつど共有してくれるいい仲間になってあげるのだって難しくて当然なのだろう。そして、そんなひとでも遊びで友達として関わるくらいならそれなりにやれるから、小さい頃はひたすら甘やかして、その後は友達親子という感じでやっていくという親がたくさんいるということだったりもするのだろう。
 上司になってやる気があっても自分本位な感じ方と振る舞いしかできなくて、部下とうまくいかないひとばかりなのと同じように、子供にとっていいことをしてあげたいという気持ちがあっても、子供といい関係でありたいという気持ちがあっても、自分の機嫌がよければ自分勝手にかわいがって、自分の機嫌がよくないと、いらいらすることで子供を威圧して自分の思うように動かそうとしてくる嫌な親になってしまうひとが大量にいるのだろう。社会人をしていて、いろんなひとの自分なりに頑張っているつもりになっている姿を見ていると、どうしたって現状のそのひとの他人と関わる能力としてそうなっているようにしか見えないし、いくら大切な自分の子供だからって、家庭で同じことをやっているんだろうなとしか思いようがなかったりする。
 それは単に、決まったことをやる以外には、自分本位にしかひとと関われないひとが世の中にはたくさんいるというだけのことなのだろう。だからこそ、部下をほめることが大事だとか、どういうタイミングでどういう言葉をかけるのがいいというような本や記事が昔から膨大に生み出され続けてきたのだ。ダメな上司たちのほとんどだって、そういうものをちらっと読んだりはしてきたし、部下のマネジメントの話も日常的にしているし、上手にほめてやらないとうまくいかないという話は飽きるほどされてきたはずなのだ。そういうことをいくら読んだり聞いたりしても、多くのひとが自分の都合ばかりで行動して、みんなを嫌な気持ちにさせるようなことばかりしていたり、ほめようと頑張ってみようとしても自分勝手な頑張り方しかできなくて、とってつけたようなほめ方ばかりをして、部下から気味の悪いひとだなと思われたりしているのだろう。
 それでも、開き直って嫌な感情を垂れ流しにしている嫌なおじさんよりは、ほめようとしてばかりいる気味の悪いおじさんの方がマシなのだから、不機嫌ハラスメントをしてはいけないという記事を発信したり、短くしすぎてとにかくほめろという以外に中身がなくなっている記事を発信することだって、世の中を少しずつマシしていることにはなるのだろう。
 それは子育てでも同じで、ほめることが大事だと読んだからと、とにかくやみくもにほめて、子供から不審がられて、それがずっと続くとだんだん空疎なことしか言わないひとだと軽蔑されるようになっていった親というのも多いのだろう。
 けれど、軽蔑して親を軽く見ることができているからこそ、何に怯えることもなく気をゆるめていられたり、友達と一緒にいるときよりえらそうに喋っていられるというのもあるのだろう。そんなふうに親を軽蔑して下に見ていたいという子供のニーズに応えられるようにと、とにかくほめろというアナウンスが繰り返されているというのもあるのかもしれない。
 さすがに自分が気分よく生活するために軽蔑している相手を都合よく利用することに何も感じない人間になることにいいことなんてないのだろう。それでも、放っておくとケチをつけたり、いらいらしたり、怒鳴ってばかりになるのなら、やみくもにほめる方が子供に悪い影響を残しにくいのは当たり前なのだろう。
 けなされていると関わるのが嫌になるし、攻撃されるんじゃないかと思ってその相手に対して常に警戒した状態で過ごすようになるし、家で常にそんな状態では、何事にも消極的になっていってしまうのだろう。逆に、ほめられていると、何か行動するとご褒美がもらえるかもしれないという感覚がついて、いいことがあると思って、何でも積極的にやるようになったりもするのだろう。そして、そういう子供たちが混ざりあったときに、積極的な子供の方が、集団内で人気者になりやすいし、楽しいことを中心になってやれる役回りになりがちだろうし、そうすると、成長につながる経験もたくさんできる傾向にはなるのだろう。そうやって、ほめられて育った子供というのは、けなされて育った子供と比べて、ただ不幸を回避できているというだけではなく、積極性や適応性の発達や集団内での人気や知識や技能の習得ですら有利になってしまうのだ。
 けなされると自信が下がるのだから、それと比べれば、ほめられた方がマシなのは当然なのだろう。積極的にけなしてこなくても、半分無視するみたいに、返事以外には何も言わないとか、何か言ったとしたらだいたいケチを付けてくるみたいなひとも多い。そういうひとたちにしても、関わるほど嫌な気持ちになるだけだし、それよりは、全く信用できない感じでもほめてばかりのひとの方がマシなのだろう。そこまでひどくなくて、何をしてもほとんど反応がなくて、言うとしてもわかりきったことしか言わないような、害というほどの害もないようなタイプのひとのことを考えても、それよりは、よく見もせずに何でもかんでもほめている方がマシなのかもしれない。実際、無視とか嫌なことしか言わない状態からすれば、上辺だけでもほめようとすることは、嫌な親から少しでもマシになる第一歩になっていたりするのだろう。子供がひどい親の元で育つケースを減らすというのが、世の中にとって一番改善するべきことのひとつだったりするのだろうし、最悪な親が最悪一歩手前になったなら、そんなに素晴らしいことはないとすら言えるのかもしれない。
 けれど、世の中の親の対人能力として、それくらいを目標にするのが妥当だというだけではなく、親がどういうひとであれ、とにかくほめておけばいいということになっているところもあるのかもしれない。子供の方からしても、やみくもにほめる親はどうしても軽蔑してしまうからといって、親からちゃんと向き合ってもらって、ちゃんと応対されるよりも、とにかく何でもいいからほめてくれて、甘やかしてくれる方がありがたいという気持ちもあったりするのかもしれない。
 近年日本の子供が親と仲良しになってきたのは、子供の側から求められてそうなっているところも大きいのだろう。友達付き合いがストレス過多だからというのもあるのだろうし、みんな似通いすぎて逆に同調圧力も強くて、みんなが無知全開で適当なことばかり言っているのではなく、インターネットで見たことの話ばかりするようになってしまったのもあって、コミュニケーションには常に正解があって、それをなぞらなくてはいけないような気分でしか喋れないし、話題についていけている感じを出すためのあれこれだけで時間が過ぎていくし、話題についていったからといって、他人の自慢話につきあわされてばかりで、愛想笑いするのに毎日疲れてしょうがなかったりするのだろう。外の世界がそんなにも精神的に過酷なら、親がひたすら自分に肯定的でたくさんほめてくれてかわいがってくれるくらいでちょうどいいくらいなのかもしれない。
 甘やかされて育ったひとが増えてしまうことがどれくらい悪いことなのかというのは、一概には言えないことなのだろうけれど、逆に、親から好意的な言葉を向けてもらえずに育つ子供が減ることは、明らかに社会にとっていいことなのだろう。
 きっと、自分なりの楽しみを見付けながら、友達も巻き込みながら自分のしたいことをしていられたような子供は、甘やかしたりせずに、放っておいて、必要なときだけ助けてやるくらいにした方が、本人にとってよかったりするのだろう。けれど、集団の中でその他大勢だったり、みんなから軽く見られている状態で子供時代を過ごすような子供たちは、親からはひたすら甘やかされていた方が、本人がその後自分のやりたいことをやれるようになったときに、根拠のない自信であっても、今度はうまくいくかもしれないとか、新しい環境ではうまくやれるかもしれないと思いながら生きていける可能性が高くなって、その方がマシだったりするのかもしれない。
 何も考えなかったときに、子供に対してケチをつけたり無視しかしないような親が、いらいらしつつも、自分に言い聞かせながら、頑張って気が向いたときにはほめたりあげたりしたのなら、それだけでずいぶんマシになる家庭はたくさんあるのだろう。逆に、放任しておけばもっと主体性のある子供が育ったのに、甘やかされすぎた結果、サービス消費さえしていれば満足しているような子供になってしまう場合もあるとして、そのプラスマイナスはどっちが大きいのだろうと思う。
 乳幼児期に親に甘やかされすぎてつまらない子供になっていたとしても、その後いい仲間ができたり、本気でやりたいことができたら、そこからひとは変わるのだろう。そうすると、世の中には放っておくとネガティブな影響ばかり与える親が多いということを何よりも重く見て、過干渉でぐったりさせるぐらいでもいいから、世の中から傷付けられた子供が減るのがとにかくいいことなのだということにして、親はとにかく子供をほめてあげまくればいいとアナウンスするのが世の中のためだったりするのかもしれない。
 単純に、深く傷付いているひとが減れば減るほど世の中から不愉快なことは減るのだし、そんなに素晴らしいことはないのだろう。放っておくと子供が一生引きずるほどに傷付けるような親が、表面的なものだったとしても、嫌な言葉の代わりにほめ言葉を繰り返してくれるなら、その子供も、少なくてもものごころつくくらいまでは、さほど愛されていないのはどこかで気が付いていても、拒絶されて自分をよくない存在だと思わずにはすむのだろうし、復讐心のようなものが生きるモチベーションの中心になっていったり、自分を最低なひとの血を引いている人間なんだと蔑まなくてもすむのだろう。そして、そうやって傷付けられすぎていない状態なら、家の外の世界で、友達や仲間との関わり中から自然と自分らしさを見付け出していけるのだ。




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