作り笑いしていると他人の楽しい気持ちを感じ取りにくなる
(こちらの記事の続きとなります)
そんなふうに相手がたいして面白いと思ってもないのに笑ってくれていることに満足しながら喋り続ける時間や、そういう行為に付き合わされる時間をたくさん過ごしていると、そのひとの顔はどうしたって気持ちが見えにくいものになっていくのだろう。
奥行きがなくなって、待ち構えられた笑えるタイミングで笑う準備をした、笑えること以外は何も話しかけるべきではないような雰囲気のする顔つきになっていくのだろう。
そして、もちろん本人は主体的にみんなで楽しくやろうとしている毎日だと思っているから、自分の顔から透明感が失われていっているなんて思ってもみないことなんだろう。
心理学の実験では、頬をあげている状態では他人の笑顔への反応が弱まってしまうということだけれど、作り笑いしながらいつも顔に笑う準備をさせていたら、他人の笑顔から他人の楽しい気持ちを感じ取れる度合いも下がってしまうのだろう。
予定調和なことばかりで、笑っているから楽しい気分がしてくるという程度の満足感で喋っている友達とか仲間とは、お互いに用意されていた笑顔を向け合っているのだし、どうせ半分作り物の笑顔だから、相手の笑顔をうれしく思ってあげられなくても、お互い様ということで何も問題なかったりするのかもしれない。
けれど、素直になれる相手がいないなら、パターンをなぞり続けるばかりで時間が過ぎていって、いつでも顔に思っていることとは別のものが貼り付いてこわばったままになってしまうのだし、そうしているうちに気持ちは顔にはっきりとあらわれなくなってしまうのだろう。
楽しげに仲間とバカ笑いしているひとたちも含め、他人に向かって感情で表情を動かすことに顔が慣れていないようなひとがたくさんいるのだろう。
そして、自分が感情と表情を結びつけながら他人とコミュニケーションをとっていないのだから、そういう感覚は衰えていくのだろうし、他人の表情から感情を感じ取る感覚だって同時に衰えていくことになるのだろう。
顔が作り笑いとバカ笑いにしか慣れていないことで、ボトックス注射で顔の筋肉が動きにくくなって他人の感情を判別する能力が下がったりするように、相手の顔から感じ取って、自分の顔の感覚を使って共感するのもうまく働かなくなっているひとは多いのだろうなと思う。
周囲のひとの気持ちをあまり身体で感じなくなって、視覚的な情報からパターン的に理解するばかりになって、そうするとますます頭だけで他人を見て、自分が思いたいように思ってすませるばかりになるのだろう。
そして、誰かと一緒にいても自分の気持ちが動かされないことが当たり前になっていても、本人は自分の毎日には楽しいことがあると思っているのだろうし、それなりに笑えているからと、自分はちゃんとやれていると思っているのだろう。
不快な人間関係しかないから濁った顔になってしまうわけではなく、自分ではそれなりに楽しくやれているつもりのひとたちも、頭の中で楽しい気持ちになるばかりで、顔を笑顔でこわばらせて、だんだんと顔を濁らせていく。
濁った顔をしたひとはあまりにもたくさんいるけれど、それは多数派として生きようとすることが、すでに顔をどうしても濁らせずにいられないような生き方だったりしてしまうからなのだ。
特に男は多いけれど、よく喋って、よく笑って、ある程度リラックスできていそうなときでも、顔から気持ちが見えてこなくて、じっと見ているほどに変な感じがしてくるひとというのはとても多い。
そういうひとというのは、何をしているでもないときは、何をしたら楽しいだろうとか、何をしたら気分がすっとするだろうかということくらいにしか意識が向かなくて、自分で自分の気持ちを感じていない度合いがあまりにも高いから、取り繕ったもので顔が濁っていなくても、顔から透けて見えるはずのものが見えてこなくて、それによって不自然な感じがしているのだろう。
あまり顔から気持ちが見えてこないひとで、実際に接していても、意思疎通はできているとはいえ、こっちからすると気持ちはほとんど素通りしている感じなのに、本人的にはちゃんと気持ちも込みで関われていると思っているらしくてぎょっとさせられることがある。
そういうひとは、ひとの気持ちを感じ取れて、お互いの感情を確かめ合って同調できているのが普通の状態だと思っているひとからすると、自分の中で自分はこういう気持ちだと自分で思い込んでいるもので自己完結的に盛り上がっているだけで、ずっと空回りしているように感じられてしまう。
けれど、こちらの感情にも反応せず、空回ったまま感情っぽいものを込めようと頑張っているのを見ていると、そのひとにとってはそれが感情なのだとしても、どうしてこのひとは感情っぽいものをなぞっているだけのものを感情であるかのように思っていられるのだろうと、気味が悪くなってきたりする。
もちろん、本人だって、怒りとかいらいらとか、その逆とか、自分の気持ちがストレス周辺でしかほぼ動いていないことはわかっているのだろう。
けれど、感情がないからといって、感情がないことを相手に伝えながら関わることもできないのだ。
だから、やらないといけなさそうな感情表現をやけくそでやっている面もあったりするのかもしれない。
特に、職場で喜怒哀楽の変化の激しいおじさんを見ていると、何もまともに見ていない目をしながら下手な演技を何の目的もなく繰り返しているように見えてくることがあって、本当に同じ人間なんだろうかと思ってしまうことすらある。
そして、その演技が止まったあとの空っぽな顔は、見れば見るほど醜くて、そんなにまで擦り切れてしまっているなんてかわいそうになと思ったりもする。
いろんな顔がある中で、もっとも濁りを感じさせる顔というのは、ただひたすらに不快感でいっぱいで、自分はどうしたいというのはないまま、空っぽな被害者意識の目つきで、顔全体にストレスを充満させているような顔なのだろう。
それはとてもありふれたよく見かける顔だったりする。
思うようにいかないことが続くと、何を考えているのかわからない顔でいらいらしているし、上機嫌でも普通の状態でも空っぽな感じがして、気持ちを込めて何かを伝えても絶対に気持ちでは反応せずに面倒くさそうにしながら言葉だけを返してくるような旦那に絶望し続けている奥さんというのはたくさんいるのだろう。
けれど、そういう気持ちの見えない顔をした男たちも、集団で生活する中で、自分の場合は気持ちと顔を切り離した方が楽にやっていけるんだなとだんだん気付かされたからそうなったというだけなのかもしれないのだ。
自分が話しているのをうれしそうに聞いてくれて、自分がこういう感じ方であることを楽しんでくれるひとがいないと、自分の思っていることを思ったままにした状態でひとと関わることはできない。
親の腕の中から友達の輪の中に飛び出して以降、ずっとその他大勢扱いで、恋人ができたことでそういう時間を取り戻せるひともいるのだろうけれど、恋人ができても、何を思っているのかよくわからないひとだと思われてばかりだったひとも多いのだろう。
そして、どれだけそれが屈辱だったとしても、楽しければいいだけなら、そんなふうに思われていてもそれなりに楽しく付き合っていられるし、そのまま結婚もできるし、子供も育てられるのだ。
そんなふうにして、気持ちの見えにくい顔をしているのに、本人はそれなりに楽しくやれているつもりで、そして話してみると、気味が悪いほど話が通じない男たちというのが、自分を普通だと思って、自分がそんな自分であることに何も思わないままで生きているのだ。
けれど、他人の気持ちに気持ちで関わっていなくて、自分の心がそう思ったものを生きているわけでもないし、他人の心がそう思ったのならそれを受け止めてあげたいとも思っていないのだから、そうなるのは仕方がないのだろう。
自分の心を生きないというのはそういうことなのだ。
(終わり)
「息子君へ」からの抜粋に加筆したものとなります。
息子への手紙形式で、もし一緒に息子と暮らせたのなら、どんなことを一緒に話せたりしたらよかったのだろうと思いながら書いたものです。
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