【連載小説】息子君へ 110 (25 かわいがられすぎていいことなんてないんだよ-3)
君のお母さんが君のことをかわいいかわいいと言っていい気にさせて育てるのが心配だとあれこれ書いているのに対して、君はバカらしい気持ちになっているのかもしれない。ここまで君のお母さんとのこともあれこれ書いてきたけれど、俺だって君のお母さんをかわいいかわいいと言いまくっていい気にさせ続けていたじゃないかと思っているのかもしれない。
確かに俺は君のお母さんにたくさんかわいいと言った。かわいいと言えば喜ぶからと、いくらでも喜ばせてあげようと、ひたすらかわいいよと見た目をほめてあげていたのだろう。
ただ、それはかわいいよという言葉で君のお母さんをおだてて、勝手にいい気持ちになっておいてもらおうというようなほめ方ではなかったんだ。
確かに、俺は君のお母さんがいい気分になりさえすればいいという感覚で、そのためだけに語りかけてはいたのだろう。けれど、それと同時に、俺自身がいい気分になれるようにも語りかけていたのだ。どれほど自分がかわいいと思っているのかを伝えることで、君のお母さんをどこまでいい気分にさせられて、自分にうれしそうな顔をしてもらえるのかを確かめるためにそうしていたわけで、君のお母さんができるかぎりいい気分になれるようにということに集中して、自分の中で嘘にならない言葉の範囲で、本当に思っていることとして、かわいいよと語りかけていた。君のお母さんのかわいさをずっと感じ続けながら、自分がかわいいと思うたびにそれを顔に出して、言葉にしていた。
それはむしろ、軽くおだてているようなのと真逆の、押し付けがましいくらいの伝え方で、本心を本心として伝えていたのだと思う。今までふざけてばっかりだから、恋人といちゃいちゃしていても、好き好きと言ってでれでれよりかかることができなかったひとに、ふざけることができないように逃げ場をなくして、自分がかわいいと言われるのを受け流さないで、真正面から受け止めて、かわいいことを自分で認めてかわいいと思ってくれてうれしいということを相手に伝え返すような、そういう状態に君のお母さんを引きずり込むようなことをしていたのだ。
軽く流したり、冗談ぽくやり過ごすことができないくらいの量と熱量と持続性で、君のお母さんの頭の中をかわいいと思っている俺の気持ちで埋めつくしてしまうようにしていたのだし、それはおだてるというのとは別のことだったのだ。何かしらの事実を認めさせるとか、自分に対しての態度を改めさせるとか、そういう接し方に近かったのだろう。俺に対してはかわいいと言われるのも、かわいがられるのも、そのまま受け入れるしかないんだということをわからせるような感じでもあったのかもしれない。
君のお母さんからしたときには、自分をかわいいと言う俺のエネルギーに押し流されるままになりながら、自分の中で恥ずかしくなったり、困ったり、思い切ってみたりしていた感じだったのだろう。気持ちが通じ合って、わかりあえている感じがして、相手の気持ちがよくよくわかったから相手を信じられるようになったとか、そういうことではなかったのだと思う。まさかこんなにかわいいと言ってもらえるとも思っていなかったし、そういう状況にも慣れていなくて、どうしていいかわからないまま、俺の熱意のようなものに押し流されるままになって、その場の主導権も全く取れなくて、かわいいと言ってくれる顔も声もうれしすぎてじーんとしてしまっていて、いつも通りにしたくてもできない状態になったままで俺にでれでれしてくれていたのだと思う。そして、でれでれしてしまって恥ずかしいのに、その顔をかわいいと言われて、もっと恥ずかしくてうれしくて頭がぼうっとしてしまって、もっとかわいいと言われたくて、それをねだるみたいで恥ずかしいけれど、かわいい顔を頑張ってして、その顔にすぐにかわいいと言われることでもっとうれしくなって震えそうになってくるとか、そんな感じだったのかもしれない。
俺はただかわいいと言っていただけではなかったんだ。実際、最初にかわいいと言ったとき、君のお母さんはその言葉を受け取ってうれしそうな顔になったけれど、かわいいと言ったことでお互いの間に気持ちの流れができたわけではなかった。その時点では、君のお母さんはうれしそうにしてこっちを見ているだけだった。俺はかわいいと言ったことが、かわいいと言っただけになってしまっている感じがして、これではダメだなと思っていた。かといって、君のお母さんはされるがままになっているだけで何もしないし、他に言えることもないからと、かわいいと言っていることが何かになるように、もっと自分の気持ちに集中しようとして、かわいいと思うたびに気持ちを乗せてかわいいと言っていた。そうしているうちに君のお母さんはどんどんうれしそうになって、とてつもなくかわいくなってきたから、それでそのままずっとかわいいと言いまくるセックスになっていった感じだったのだ。
ただ、ずっとかわいいと言い続けることで、ずっと何かしら反応が返ってくる状態はキープできていたけれど、どれだけかわいいと言い続けていても、目が合っているだけで自動的にお互いの気持ちが伝わり続けている状態にはなってこなかった。一回目のセックスだけでなく、ずっとそれは変わらなくて、だから、何度もセックスを繰り返しても、毎回かわいいと言い続けるばかりのセックスをすることになったのだろう。俺の君のお母さんは、セックスではお互いいい気分でうまくやれていたけれど、かといって、俺はいつも何かできるかなと思いながら、結局かわいいと言い続ける以外に、いい状態を維持できるやり方が思い浮かばなくて、どうしてもそうするしかないみたいな気がしながら、かわいいと言い続けていたのだし、うまくやれているようでいて、セックスですらそうでもしないと間が持たない関係ではあったのだ。
俺が君のお母さんにかわいいかわいいと言っていたことが、君のお母さんが君をかわいいかわいいとかわいがることとは全然別の行為だというのがわかるだろう。俺は君のお母さんとうまくやろうと君のお母さんの感情の動きを探っていて、けれど、かわいいと言う以外に、お互いの気持ちの一体感を維持できるやり方を見付けられなくて、けれど、そうだとしても、俺とセックスしたいと思ってくれた君のお母さんを喜ばせてあげたかったから、自分にできるかぎりのこととして、バカみたいにかわいいと言い続けるセックスをしていたんだ。
バカみたいに繰り返しかわいいと言ってあげることで、君のお母さんを今までしたことがないくらいでれでれさせて、どっぷり自分のかわいさに満足させてあげたことに関しては、もともとそんなつもりでセックスを始めたわけでもなく、君のお母さんの中の欲求を感じ取って、相手がしてほしそうなことをして、言ってほしそうなことを言っていたら、そうなっていった感じだった。
ほめられたいというのは、コミュニケーションを求めるのではなく、もらえるものをもらいたいというだけの空虚な感情なのだ。その空虚さは、ブラックホールのように他人をその空虚に引きずり込んでくるから、ほめてもらいたがるひとと接していると、ほめてもらいたいんだなとか、ほめてあげないといけないんだろうなと感じてしまって、自分はほめてあげたいなんて思っていないのに面倒くさいひとだなという気分になってしまう。俺はそういう相手に対して、面倒くささをかき消せるように、君のお母さんのかわいさに全力で集中して、その空虚が埋まるだけの量のかわいいと思っているよという感情を注ぎ込み続けてあげて、そうしたときに、君のお母さんは、今までなったことのない気分になれてしまったのだ。
俺は君のお母さんの中でずっとくすぶり続けていたかわいいと言われたいという欲求を深いところから満たしてあげられたのだろうと思う。それは相手に合わせてあげていたとかそういうことではないんだ。相手に合わせるようにしてほめていたとしたら、それは君のお母さんの日々の苦労話を聞いているときに、できるだけ話してよかったと思えるように聞いてあげようとしていたときなのだろう。どういうシチュエーションでどういう選択肢しかない中で、どこまでケアしてあげていたなんて、いっぱいみんなのために頑張ってあげたんだね、それはすごいことだと思うよというような、君のお母さんが労力を使ったところについて、ほめられ足りていなさに寄り添えるように、頑張ったねという話をしていたのだと思う。
俺はほめることがよくないなんて思っていないし、俺自身、自分の中で嘘にならない範囲で、相手のやったこととか、相手が心がけているものに対して、できるだけ肯定的なことを言おうとしていたりするのだ。
君のお母さんに対してだって、ぶらぶらしていたり、何か食べたり飲んだりしているときに話しているときでも、うれしそうなかわいい顔になってくれているときはかわいいと言っていたし、なるべく相手にいいことを思ったらそれを伝えようとはしていた。かわいいと感じるからかわいいと言うように、頑張っていると思うから頑張ったねと言うし、いいんじゃないと思ったらいいねと言っていた。ただ、すごくないことにすごいねとは言わないようにしていたり、おだてるみたいな感じになるようなことはしないようにと思っているだけなのだ。
俺にはほめられたいという気持ちがあまりないというだけで、ほめられたいひとに気味の悪さを感じたりするわけではないんだよ。俺だってほめられていると、頭では退屈していても、身体的にはなんとなく気分がよくなっていたりする。ほめられてうれしいのは自然な気持ちの動きなんだと思っているし、一対一の関係の中でなら、ほめてあげられそうだと気が付いたときには、自然とほめてあげようとしていたと思う。自然に出てきた言葉が、少し相手を持ち上げるようなニュアンスの入った言葉になってしまったって、そんなには気にしなかった。一緒にいていい気分で過ごせるのがいいことで、そういうつもりで相手と一緒にいたときに、してあげたいと思ったことがあったなら、してあげればいいと思っている。けれど、ものを買ってやれば喜ぶとか、甘いものをあげれば喜ぶとか、金をやれば喜ぶとか、そんなふうに相手をコントロールできる手段があるからといって、自分のさせたい反応をさせるために相手をコントロールするのは人間対人間の関係として不自然だと思っていて、まだ小さい子供を闇雲にかわいがるというのは、俺には同じように不自然なことに思えてしまうというだけなんだ。
コントロールしたくないというだけで、そうじゃないのなら、いくらでも親子で楽しいことをできるのがいいと思うし、お互いに大好きだという気持ちを伝え合っていればいいんだと思う。俺だっていつでもとても大事に扱ってもらったし、楽しいことだっていっぱいしてもらった。特に子育てのレジャー化ということなら、俺はむしろ、レジャーとしての子育てを存分に楽しもうとする家庭で育ったのだと思う。たくさん楽しいことをやらせてもらって、楽しいところに連れて行ってもらったし、俺は親にたくさん遊んでもらいながら、親のことをずっと大好きなままで子供時代を過ごすことができた。
俺の父親は、俺が大人になってから、昔家族でいろんな所に旅行に行ったりスキーにいったりしていた話をしているときに、自分はたくさん子供で遊ばせてもらったというようなことを言っていた。実際、共稼ぎ家庭ではあったし、ずっと保育園にいて、小学校に入っても、低学年の間は夕方までは学童保育にいたりとか、平日は夜まで親と関わらない毎日ではあったけれど、休日にレジャー的な遊びに出かける頻度は、自分の周囲の友達に比べるとかなり高かったのだと思う。父親は、特に趣味もなく、趣味は家族サービスだというようなことを言っていた気がするし、実際にそうだったんだろうなと思う。覚えていない範囲でも、アルバムにはいろんなところに出かけている写真があったし、冬は毎年スキー旅行に行っていたし、シーズンに二回行った年もけっこうあった。小学校低学年くらいの頃はキャンプにもよく行っていた。泊りがけの旅行以外でも、海水浴とか潮干狩りに行ったり、淡路島に猿を見に行ったり、パン屋でパンの耳をもらってきて、鳥の大群にパンを撒きに昆陽池に行ったり、いろんなことに連れて行ってもらった。旅行の段取りとか準備は全部父親がやっていたし、父親は子供を連れて行くと楽しそうなところの情報を普段から探していたのだろう。クリスマスは家でけっこう手をかけて少し大きめのツリーなんかを飾りつけしたり、子供の日も兜が飾られていたし、ちまきを食べたりもしていた。祖父からもらったものだったのだろうけれど、立派過ぎて近所に迷惑だから数年でやめた気がするけれど、庭で鯉のぼりをあげたりもしていたし、季節のイベントがあれば、何かしら家でやってくれていた。父親はいつも次はどこに連れて行ってあげようとか、今度は何をやらせてあげようかと考えながら生活していたんだろうなと思う。
父親はレジャー的なことをいろいろしてくれていたけれど、それは普段何もしていない埋め合わせのようにしてやってくれていることではなかった。俺がまだ小さい頃、父親はよくテレビで巨人戦を見ていて、俺は野球がやりたいと言っていたらしくて、少年団野球に入れる四年生から野球をやらせてもらったけれど、父親はコーチをやってくれないかと頼まれて、コーチもやってくれていたから、まだ週休二日じゃない頃に、土曜日の半ドンで帰ってきてから、俺と一緒に野球部の練習に行って、日曜日は八時からの練習に俺と一緒に行って、家の車が八人乗りのタウンエースだったのもあって、試合があると車係にも駆り出されて、野球部の子供たちを詰め込んで対戦相手の小学校まで連れて行ってくれたりもしていた。野球部の練習以外でも、練習したいかと聞いてくれて、俺がしたいと言うと、公園のグラウンドで守備の練習をしてくれたり、家の庭でバッティングの練習をしてくれたりもしていたし、野球をやっていたことで、俺はかなり長い時間を父親と一緒に過ごすことができていたのだろう。そして、俺も弟も、小学校の四年生から六年生は少年団野球をやらせてもらっていたから、その六年間はほとんどの土日は半日以上が少年団野球でつぶれていたけれど、夏休みや冬休みやゴールデンウィークで、野球がない休みがあると、そのたびにどこかしらに遠出していた。
俺の父親は、子供が大きくなるまで、ずっとそうやって自分の好きにできるはずの時間を家族サービスばかりして過ごしていた。それがずっと続いたというのは、父親にとってそれが楽しかったからなのだろうし、俺や弟も親に付き合わされているような気持ちになっていなかったから、親に誘われるままに遊びに連れて行ってもらっていたのだろうし、父親が自分は子供に遊ばせてもらったと思っているのは本心からの言葉だったのだろうと思う。父親はその頃、二十代の後半とか三十代だったけれど、そんな時期にひとりでやりたいことが何もなかったんだろうかと思ったりもする。けれど、たまに集まって飲む昔の友達もいて、職場のひとたちともよく飲んでいたようだし、それで充分だったのだろう。というより、俺は親のことがずっと好きだったのだろうし、子供が自分に対してそういう状態なのであれば、せっかく共稼ぎでお金に余裕があって、いろんなレジャーが世の中に用意された時代になったのだからと、子供にたくさん楽しいことをさせてあげて、そのたびに子供が楽しそうにしてくれているのを見ていられたら、そんなにも楽しいことはなかったのだろう。
俺の父親はそんなふうに子育てというレジャーを楽しみながら生活していたんだ。もちろん、二十年くらい大半の土日をそのために費やした感じなのだし、ほとんどライフワークのようなもので、自分が楽しみたいときにだけ楽しんでいたという感じではなかったのだろう。それに、趣味は家族サービスというような感覚なのだし、もちろん俺の父親は家事労働の主体という感じではなかった。共稼ぎだったし、休日に掃除するのは父親がメインでやっていたりもしたし、自分のシャツのアイロンは自分でかけていたり、たまには料理もしていたけれど、それでも土日に子供を遊ばせるというのを除外したときには、家事の分担は五対一くらいだったのだろう。平日はそこそこ残業もあったり、飲んで帰ることも多くて、家に帰ってからはひたすらテレビの前に張りついているひとだった。それでも、毎週のようにして、家族みんなで出かけて楽しく過ごすというのを、全て段取りしてくれて、車も運転してくれていて、母親はただ連れて行ってもらってのんびりしているだけで子供が楽しそうにはしゃいでいる姿を見られていたわけで、パチンコとか競馬とか休みになるとすぐに出かけてしまったりせず、休みはいつも家にいて家族のためにたくさん動いてくれていたから、母親は働きながら毎日子供にご飯を食べさせて面倒を見て大変でも、家事のことで父親に不満を持ったことはなかったのだと思う。子供の教育ということでも、俺は父親に特に甘やかされた覚えもないし、嘘をついたときとかに叩くのは父親の役割になっていたようだった。その他のことについても、子供にどう接するかということについては、もともと同じような考え方だったのかもしれないけれど、母親の意向に添って父親も子供に接していたのだろうし、そういう面でも不満はなかったのだろう。
俺はそういう家で育ったのだ。ただ、父親がいろんな楽しいことを企画してくれて、いろんなところに連れて行ってくれたり、いろんなことをやらせてくれたけれど、それはレジャーの範囲でのことで、生活のあらゆる面で親からあれこれといろんなもので楽しませてもらっていたわけではなかった。俺の家には買いおかれたお菓子がなかったし、俺は中学生になるまでお小遣い以前に自分のお金という概念もなかったし、テレビゲームをするのに時間制限があったし、漫画もほとんど家になかった。ほとんど覚えていないけれど、テレビもさほど好きではなかっただろうし、俺にはけっこう暇な時間がたくさんあったはずで、それがあればとりあえず楽しく過ごしていられるというものがない家の中で、自分の中で妄想を膨らませながら、ひとりで遊んだり、弟と遊んだりしていたのだと思う。
テレビゲームをあまりやらさなかったり、漫画を買ってやらなかったのが典型なのだろうけれど、俺の両親は、子供がゲームが大好きで、夢中になっているときにとても楽しそうにしていたからといって、それをさほどいいことに思っていなかったのだと思う。
俺の両親は、家族で楽しい時間を過ごせるようにとは思っていても、子供を楽しませてあげようとは思っていなかったのだと思う。むしろ、子供が自分で何かに興味を持って、自分の好きなものを見付けて、それを楽しんでいればそれでいいと思っていて、何かに触れられる機会を与えてあげれば、それで自分たちのやってあげることは充分だと思っていたのだろう。だから、いろんなところに連れて行ってもくれたし、俺が興味のありそうな習いことがあればやらせてくれたし、野球がやりたいと言えば少年野球団にも入らせてくれたり、子供がやりたいと思ったことがあったなら何でもやらせてあげようとしてくれていたのだろう。そして、特に母親がそうだったのだろうけれど、やりたいことをやるにしても、楽しくやっていればそれでいいとも思っていなかったのだと思う。
俺の通っていた小学校では、三年生くらいから書道の授業が始まって、それに合わせて毎年各クラスで五人くらい金賞が選ばれる書道のコンクールのようなものがあった。母親は俺にコンクールに向けて特訓したいかと聞いてきて、俺がしたいと言うと、一日、二日くらいのことではあったと思うけれど、二、三時間くらい、ずっとつきっきりで指導してくれた。母親は学生の頃に書道をしていて、楷書ではないものをやって、書道展にも出したりしていて、社会人になってからも書道サークルに誘われたけれどやめておいたという感じだったらしいけれど、母親の特訓というのは、ユーモアは一切なしで、筆の角度とか、筆の腰をどれくらい使うかとか、ひたすら俺の筆の扱いのおかしいところを指摘し続けるというものだった。俺はうまくできなくて、言われたこともぱっとはできなくて、同じように失敗してというのを繰り返して、泣きながら何度も課題の文字を書いていた。母親は指摘するだけで、俺を非難してくるわけではなかったけれど、できないなりにそれなりにいい感じになったならさっさとほめてあげようというようなつもりは一切なかったのだと思う。筆の持ち方や筆を紙の上におろす角度がおかしければ、そこからどうしようとしてもうまくいかないし、ひとに教わっているのだから、うまくできなかろうが、どれだけ泣こうが、ひとが教えてくれていることをできるようになるしかないし、泣きながらでも頑張って教えられたことができるようになれば、それで自分のやれることは少しは変わるという、そういう体験をさせてあげたかったのかもしれない。母親自体は、俺が泣くたびに、もう特訓をやめようかと聞いてきた。そして、やめると言えばさっさとやめるつもりだったのだろう。俺が大きくなってから、書道の特訓をしているときは、こんなことをしていると親子関係が壊れるんじゃないかと思って、胸が苦しかったと言っていた。実際、もし親が書道家で、小さい頃から息子を書道家にしようと、毎日書道をさせて、数時間ひたすらよくないところを指摘し続けて毎日を過ごしたなら、かなりの確率でまともな親子関係にはならないのだろう。俺と母親は、その学校内のコンクールの前に一日、二日だけのことだった。さすがに小学校五年生、六年生くらいの頃はコンクールの前も何もしなかったと思うけれど、それまでは特訓をして、俺が育った頃は書道を習っている子供も減っていたのだろうし、コンクールは毎回金賞だった。
父親は外で遊ばせてくれて、自転車に乗ったりとか、釣りをしたりとか、いろんなことを教えてくれていた。俺が少年団野球に入ってからは、野球部のコーチをやってくれたし、野球部以外でも練習に付き合ってくれたりしていた。運動が苦手な母親にとっては、ごくたまに俺が料理したいというのを後ろで見守りながら次はどうしたらいいか教えてくれたりはしていたけれど、そういうおままごとの延長みたいなことではなく、何かをできるようになるために一緒に訓練したり、教えてあげたりするということを俺にしてあげるとするのなら書道だったのだろう。ある程度真面目にやっていたひとなりに教えられることがあるのだし、むしろ、自分にとっては子供に教師面をして何かを教えられる唯一のものが書道になるのかもしれないと思っていたのかもしれない。だから、特訓した感が残ればいいというつもりで、にこやかに書き散らして終わりにするのではなく、どうすればいいのか理解して身に付けようと努力したのならあとに何かが残るということがわかるようにと思っていたのだろう。
ほとんど覚えていないけれど、母親は特訓の最中に俺がある程度きれいに書けたときも、特にほめたりしなかったし、にこにこもしていなかった。俺が自分で今のはうまくいったと自分で感じているのを見守っているだけだったし、また次におかしかったときにそのまま指摘できるような顔のままで通していた気がする。そして、学校のコンクールで金賞だったからといって、特別ほめようともしていなかった気がする。よかったわねというようなことは言っていただろうけれど、金賞をネタにして、お祝いのケーキなんかを買ってきてみんなで食べたりとか、あれこれと俺をほめてみんなでいい気分で過ごそうとしていたようなことはなかったような気がする。教室にしばらく張り出されたあとに、金色の紙が右上に貼られた台紙に貼った半紙とか、高学年になると八つ切の紙を巻軸に貼ったものを持って帰って、母親に見せると、ここはうまく書けているとか、ここはもうちょっとどうだったらよかったねということを話して、あとはよかったねというくらいだったんじゃないかと思う。何についてもそうだったけれど、母親は俺にすごいねとか、えらいねとは言わなかった。
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