『第六行仏威儀』第二十二段①〔法の為に身を捨てる或いは身の為に法を忘れる在りようも、すべて心に任せる〕

『正法眼蔵』原文〕
しかあればすなはち、為法為身の消息、よく心シンにまかす。

脱生脱死の威儀、しばらくほとけに一任せり。

ゆゑに道取あり、「万法唯心、三界唯心」。

さらに向上に道得するに、唯心の道得あり、
いはゆる「牆壁瓦礫ショウヘキガリャク」なり。

唯心にあらざるゆゑに牆壁瓦礫にあらず。

〔抄私訳〕
「しかあればすなはち、為法為身の消息、よく心シンにまかす。脱生脱死の威儀、しばらくほとけに一任せり。」とある。

上に「為法捨身・為身捨法」などと言うけれど、「捨」の字を付けるので、やはり迷う。ただ、法は法に任せ、身は身に任せるというのである。「脱生脱死」を仏に任すと言う。「心にまかす」というのと「仏に一任す」というのは、ただ同じ意味である。「心」と「仏」に違いはないからである。

「ゆゑに道取あり、「万法唯心、三界唯心」。さらに向上に道得するに、唯心の道得あり、いはゆる「牆壁瓦礫ショウヘキガリャク」なり。唯心にあらざるゆゑに牆壁瓦礫にあらず。」とある。

「万法唯心(あらゆるものはただ心である)、三界唯心」は普通のことである。「さらに向上に道得するに」とは、「万法唯心、三界唯心」というほかに、また「道得あり」というのである。「万法」と「三界」を略してただ「唯心」とだけあるのは、「万法」「三界」の言葉を引きずってただ「唯心」とだけ言えば、もう一枚交わるものがないように思われる。

「唯心」の道理は「牆壁瓦礫」である。「唯心にあらざるがゆゑに牆壁瓦礫にあらず」とは、ただ「会不会」(分かる、分からな)、「即心是仏」〈今の様子は仏である〉の上で「非心非仏」〈今の様子でなければ仏ではない。即心是仏と同じ意〉を説くのと同じことである。

〔聞書私訳〕
/「しかあればすなはち、為法為身の消息、よく心にまかす。」とは、「万法唯心、三界唯心」の解脱である。「ほとけに一任せり」というのもこれである。「生死」の解脱もこれである。

〔『正法眼蔵』私訳〕
そうであるから、法の為に身を捨てる或いは身の為に法を忘れる在りようも、すべて心に任せる。
(しかあればすなはち、為法為身の消息、よく心にまかす。)

生死を解脱する威儀も、しばらく行仏に一任するのである。
(脱生脱死の威儀、しばらくほとけに一任せり。)

だから、仏はこう言われる、「万法唯心、三界唯心」。
(ゆゑに道取あり、万法唯心、三界唯心。)

さらに言うと、唯心という言葉があり、それはいわゆる牆壁瓦礫である。
(さらに向上に道得するに、唯心の道得あり、いはゆる牆壁瓦礫なり。)

唯心ではないから牆壁瓦礫ではない。
(唯心にあらざるがゆゑに牆壁瓦礫にあらず。)
〔唯心というとまた一つに留まるから、唯心にあらずとはらうと、
その時は牆壁瓦礫でないことになる。〕

                                   合掌
                               

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