『第六行仏威儀』第二十一段③〔破顔微笑や揚眉瞬目が現れる〕

『正法眼蔵』私訳〕
検点の子細にあたりて、満眼聞声マンゲンモンショウ、満耳見色マンニケンシキ、
さらに沙門シャモン壹隻眼イッセキゲンの開明なるに、
不是目前法なり、不是目前事なり。

雍容ヨウヨウの破顔あり、瞬目あり。

これ行仏の威儀の暫爾ザンシニなり。

被物牽ヒモツケンにあらず不牽物フケンモツなり。

縁起の無生無作ムショウムサにあらず、本性法性ホンショウホッショウにあらず、
住法位にあらず、本有然ホンウネンにあらず。

如是を是するのみにあらず、ただ威儀行仏なるのみなり。

〔抄私訳〕
「検点の子細にあたりて、満眼聞声、満耳見色、さらに沙門壹隻眼の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事なり。」とある。

眼で物を見、耳で声を聞くのは、普通のことである。今の「満眼聞声」「満耳見色」の言葉は普通ではないが、尽十方界である真実人体の上での「見色」「聞声」の姿であるから、はじめて聞いたかのように驚くべきではない。

真実人体を「眼」とし「耳」とするのである。この道理で、「聞」「見」の言葉を心得るべきである。この理を、あるいは日頃のように、眼で物を見る・耳で声を聞くと言うとしても、決して日頃の考えと同じではないのである。

また、「沙門一隻眼の開明なる」時節には、本当に目前のものも目前のこともない。全てが「眼」であるからである。

「雍容の破顔あり、瞬目あり。これ行仏の威儀の暫爾なり。被物牽にあらず不牽物なり。」とある。

「雍容の破顔」とは、巍巍ギギ堂々(姿が堂々としていていかめしく立派なさま)などという様子の言葉である。「一隻眼の開明」という言葉について、「破顔」「瞬目」などという言葉は出てくるのである。

これは皆、「行仏威儀」がしばらく始めて成る姿である。「行仏威儀」は、
本当に物に関わらないから「不牽物なり」と言うのである。

「縁起の無生無作にあらず、本性法性にあらず、住法位にあらず、本有然にあらず」と言う。

「本有然」は、もっともなことだと思われるが、これも始に対する「本」であれば否定されるのである。「如是を是する」とは、「如是」とあげれば、前に出した「満眼聞声」以下、「破顔」「瞬目」「縁起の無生無作」「本有然」等を指して、これらを「是するのみにあらず」、皆これらを「行仏威儀」であると決められるのである。ただ、あれもこれも「行仏威儀」であると言うのである。

〔聞書私訳〕
/「如是を是するのみにあらず、ただ行仏威儀なるのみなり。」とは、
「破顔」「瞬目」を指すのである。「あらず」「あらず」とある言葉は、
捨てる言葉である。

〔『正法眼蔵』〕私訳〕
点検を子細にするにあたって、
尽十方界の真実人体である眼で声を聞き、
尽十方界の真実人体である耳で物を見、
さらに尽十方界である沙門の確かな眼が開かれると、
一切は目前の法ではなく、目前の事ではないのである。
(検点の子細にあたりて、満眼聞声、満耳見色、
さらに沙門壹隻眼の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事なり。)

そこにゆったりと和らいだ破顔微笑や揚眉瞬目が現れるのである。
(雍容の破顔あり、瞬目あり。)

これが行仏の威儀(今の様子の通りにいる行仏という名の仏の身心の様子)
のしばらくの様子である。
(これ行仏の威儀の暫爾なり。)

行仏は、物に引かれるのではなく、物を引かないのである。
(被物牽にあらず不牽物なり。)

行仏は、縁起によって生じたり作られたりするのではなく、
本来本法性(本来仏)でもなく、そのもの自体の絶対境に安住しているのでもなく、本から自然にあるのでもない。
(縁起の無生無作にあらず、本性法性にあらず、
住法位にあらず、本有然にあらず。)

如是(かくのごとし)を是(よし)とするだけではなく、
ただ威儀が行仏であるだけなのである。
(如是を是するのみにあらず、ただ威儀行仏なるのみなり。)

                                   合掌
                               
追伸:禅僧の動画です。考えがあって自分がない  よければクリックして覗いてください。

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