『第六行仏威儀』第二十二段⑤『正法眼蔵』私訳〔心の前(記憶の過去)があり、心の後(観念の未来)がある〕

〔聞書私訳〕

/近頃の禅僧が盛んに修行僧に示す言葉では、今問法に来たその人自身(主人)が、「却知有」(却って有ることを知る)に当たる、法を問い法を学ぶからである。お伴の若い僧こそ「不知有」(有ることを知らず)であるので「三世諸仏」と言うのだなどと言うが、これは信じ難いことである。


「大地全収のまなこ」があって、「眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然なるゆゑに」こそ、「不知有を保任せる三世諸仏あり」と許されるのである。すべて不学・不知であれというのではないのである。




〔『正法眼蔵』私訳〕

さらに、収束したり放散しない光明がある、

僧堂・仏殿・庫裡・三門、それぞれが光明そのものである。

(さらに收放にあらざる光明あり、僧堂仏殿廚庫山門なり。)

〔万物はそれぞれ自己の光明を放っている。白菊は白く光明を放ち、

紅葉は赤く光明を放つ。人もやはり光明を放っているのだ。〕


さらに言えば、行仏(たった今を行ずる身心)には、

十方に通達する眼があり、大地を全て収める眼がある。

(さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。)


心の前(記憶の過去)があり、心の後(観念の未来)があるというが、

みな”たった今”あるだけである。

(心のまへあり、心のうしろあり。)〔過去を悔やんだり、未来を心配したりするのも、たった今そういう思いが浮かんだだけである。〕


このように眼耳鼻舌身意の光明の功徳が盛んであるから、

たった今以外のどんなものも有ることを知らない(不知有)

という境地を保っている三世の諸仏があり、

たった今以外のものも却って有ることを知っている(却知有)

などど言う狸や白牛の輩もいる。

(かくのごとくの眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然なるゆゑに、

不知有を保任せる三世諸仏あり、却知有を投機せる貍奴白牯あり。)


このつかまえどころがあり、この眼があるのは、

法(たった今)が行仏(たった今を行ずる身心)を説き、

法が行仏を許すからである。

(この巴鼻あり、この眼睛あるは、法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり。)



                                 合掌

                               




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