『第六行仏威儀』第二十九段①〔もしこの経(自己の真の在り様)を説けば、釈迦牟尼仏を見るのである〕

『正法眼蔵』原文〕 
釈迦牟尼仏シャカムニブツのいはく、
若説此経ニャクセツシキョウ 則為見我ソクイケンガ 為一人説イイチニンセツ 是則為難ゼソクイナン
《若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為ナす。
 一人の為に説くは、是れ則ち難しと為す》

しかあれば、能ノウ説法は見ケン釈迦牟尼仏なり、
「則為見我」は釈迦牟尼なるがゆゑに。

又いはく、
於我滅後オガメツゴ 聴受此経チョウジュシキョウ 問其義趣モンゴギシュ 是則為難ゼソクイナン
《我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す》

〔抄私訳〕
「釈迦牟尼仏のいはく、若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為す(以下略)」とある。

「若説此経」とは『法華経』を指すのである。「則為見我」の「我」は釈迦牟尼仏である。

釈迦が説く経を衆生が転読(経の数行だけの略読の)すれば、
罪がが滅し善が生じ、すみやかに悟りの境地に至ることができると心得るので、「則為見我」とあるのである。

「見我」の言葉も見るものと見られるものの義ではない。
「此経」と「我」と「見」とまったく別とすべき道理がないから、
「則為見我」と心得るのである。

「為一人説、是則為難」とは、「則為見我」と心得ないと言われるので、
「為難」である。

今の親切な理に任せて心得る時は「難し」としないのである。
つまり、説くのも釈迦、「見我」も釈迦の道理である。

「又いはく、「我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す(以下略)」とある。

「於我」の「我」は釈迦である。「我滅後」に一人いて、「聴受此経、問其義趣」するなら、みなこれは「我」のようであると言う。
この道理が、「是則為難」と言われるのである。

仏(たった今に住む人)のほかにこの甚だ深く微妙で難解難入の理を説き、説き明かすものはいないのを、今「問其義趣」し「聴受此経」するのはすでにこの『法華経』と等しいから「難し」と説かれるのである。

〔聞書私訳〕
/三人の言葉を疑うわけではわけではないが、
仏説に一致しなければ仕方ない。

そのために、経に「若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為す、一人の為に説くは、是れ則ち難しと為す」と説き、「我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す」とも説くのである。

「聴受者もおなじくこれ難しと為すなり、勝劣あるにあらず」と言うのである。

/この「是れ則ち難しと為す」は有り難いことだと、
褒めているのだと心得るべきである。

/「此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す。しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり(以下略)」と言う時に、

「一人の為に説く」のを「難し」と説くのは、「一人の為に説く」ということは、『法華経』の義ではないから「これ為難なり」と言うのである。

また、「若説」は「我を見る」であるから「一人の為」とも言えない。
「聴受」者と「其の義趣を問ふ」者に差別がないから、
また「是れ則ち難しと為す」と言われるのである。

〔『正法眼蔵』私訳〕
釈迦牟尼仏は言う、「もしこの経(自己の真の在り様)を説けば、
すなわち我を見るのである。
一人の為に説く(自己が自己の法を転じる)ことは、難しいのである」。
(釈迦牟尼仏のいはく、「若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為す。
 一人の為に説くは、是れ則ち難しと為す」。)
〔これは説く者の尊を言われる。説く自己と説かれる経と一体になり自己の真実を説くのだから、一番難しいのである。〕

そうであるから、よく法(たった今)を説くことは釈迦牟尼仏を見ることである(説く人がそのままそのまま仏である)、
すなわち我を見るのは釈迦牟尼であるからである。
(しかあれば、能説法は見釈迦牟尼仏なり、則為見我は釈迦牟尼なるがゆゑに。)

また言う、「我が滅後に、この経を聴き、その根本の義を問うことは、
難しいのである」。
(又いはく、「我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す」。)
〔これは聴く者の尊を言われる。経を聞いてその経の義趣を問うということは、問う者自身がすでに法華(たった今の華)になり切っている時だから、
よほどの大力量である。〕

                              合掌
                               

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