『第六行仏威儀』第二十六段③〔転法輪(たった今の在り様を転じる)は説法だけではない〕
『正法眼蔵』原文〕
「転法輪」といひ、「転大法輪」といふ、その別あるか。
転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。
しかあれば、雪峰の道の、道取すべき道を道取しつくさざる道にあらず。
〔抄私訳〕
「転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか」とある。
これは、「転法輪」「転大法輪」とある。「説法」は玄砂の言葉で、「転大法輪」は雪峰の言葉であるから、「説法輪」と「転大法輪」と言うとあるべきだが、ともに「転法輪」「転大法輪」とあるのは不審である。
だから、原本には「転法輪」の傍に「説歟」と付いているのである。説と転は、ずっと違うのではないが、雪峰と玄砂の言葉をしばらく「別ある」と言われるからにはこの言葉は疑問である。
「転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや」とある。
雪峰は「転大法輪」と言われ、玄砂は「説法」と示される。しばらく「法輪」を「法輪」として置き、「説法」を「説法」として置くという一応の考えである。
だからといって、ずっと違うのではない。これは、間違いなく「説法」は口業クゴウのはたらきであり、上の聖人が下の者に受けさせるものと思うのは、凡夫の妄見(間違った考え)である。「説法」のすがたが、他の為でない道理が明らかである。
〔聞書私訳〕
/「転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか」とは、同も別も二つの義があろう。そのわけは、大乗を説くのは「大転法輪」と言うからである。
「転法輪」とは、仏の金口より出ることは「法輪」であり、小乗も説く仏法東漸トウゼン(仏法が次第に東方に伝わったこと)ということがあり、仏法がインドより伝わって始まったことは、『四十二章経』(最初の漢訳経典)にある。これは、小乗の経であるが仏法東漸と言い、天台の初心の論議(意義を論じること)である。
〔『正法眼蔵』私訳〕
〔玄砂は火焔が三世の諸仏のために〕説法(転法輪)すると言い、〔雪峰は三世の諸仏が火焔の中にあって〕大法輪を転ずると言うが、両方の言い分に違いはあるか。
(転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか。)
〔自問自答だ。〕
転法輪(たった今の在り様を転じる)は説法だけではない、
説法は必ずしも他のためにするだけではない。
(転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。)
〔坐禅、礼拝、念仏、喫茶喫飯、あらゆる行住坐臥はみな転法輪(たった今の在り様を転じる)だから、説法だけに限らない。〕
そうであるから、「三世の諸仏は火焔の中に在って大法輪を転ず」という雪峰の言葉は、言うべきことを言い尽くしていない言葉ではないのである。
(しかあれば、雪峰の道の、道取すべき道を道取しつくさざる道にあらず。)
合掌
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