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【読書メモ】三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか』

今日の本

三田一郎(さんだいちろう)
『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』
講談社,2018年,ブルーバックスB-2061
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000311907


索引・参考文献

● 索引あり。合計3頁。
● 参考文献は,章ごとにまとめてあるのではなく,書籍全体の参考文献として記載されています。合計3頁。


内容

● 著者は,素粒子物理学を専門とされる研究者(名古屋大学名誉教授)でカトリック名古屋司教区終身助祭などを務められている三田一郎先生です。この説明からも分かるように,三田先生はクリスチャンです。


● 本書のタイトルは「科学者」となっています。しかし,三田先生が物理学の研究者であることもあり,本書は,主として物理学者,特に宇宙論に関与した物理学者を取り上げています。例えば,コペルニクスガリレオニュートンスピノザアインシュタインボーアハイゼンベルグディラックホーキングなどです。

● 物理学の発展により,これまで不可知・不可思議とされていた事象が説明可能となり,「神の領域」はどんどん狭まってきています。ところが,高名物理学者の中には神の存在を信じている人が少なからず存在します

● それはなぜなのか? そして,そういった物理学者は神と科学の関係をどのように考えていたのか? 本書はこうした観点から,古今の物理学者の研究成果を分かりやすく紹介した上で,当該人物がどのような考えを持っていたか,について説明していきます。私は無神論者なので(それにもかかわらず,宗教には関心がある),本書のテーマには強く興味をそそられました。

● このように,本書では,古今の物理学者の研究成果について私のような素人にも分かるように説明が為されていますので,狭い範囲ではありますが,本書は物理学の入門書としての一面も有しています(裏を返せば,物理学の知識・素養がある方からすれば,物理学の研究成果の箇所は退屈かもしれません)。


● ところで,言うまでもなく,世界には様々な物理法則があります。それらの物理法則は,基本的には世界のどこでも,宇宙のどこでも妥当します。しかし,なぜ,この世界がそのようなルールで構成されているのかについては,解き明かされていません。

● 例えば,なぜ,この宇宙はアインシュタイン方程式で説明できるような性質・構造になっているのでしょうか。なぜ,絶対零度は−273.15 ℃なのでしょうか。世界を成り立たせるために,その値である必然性はあったのでしょうか。

● こうした点について突き止めて考えていったとき,そこに何かしらの作為――そして,その作為の主体として超自然的・超越的な存在――を措定することは,逆説的ですが,論理としては自然なことのように思えます(※ちなみに,この点については,マーカス・デュ・ソートイ『知の果てへの旅』〔新潮社,2018年〕27頁が興味深い指摘をしています。)。物理学者に神を信じる方々が一定数おられるというのは当然なのかもしれません。


● 最後に,本書の内容をイメージしやすくするため,幾つか本文を引用いたします。

「しかし,実は聖書には,天動説が正しいとか,地動説が誤っていると明らかに読めるような記述はないのです。それにもかかわらず,たとえば,ガリレオ裁判では,教会が禁じている地動説を唱えたとして,ガリレオは有罪になったのです。なぜそのようなことになったのでしょうか。」(45頁)

この点 ↑ は,私は本書で初めて知りました。


「科学においてはある実験や観測の結果を説明するのに,どのような科学法則が適切かを考えます。それまでの科学常識を覆す結果が現れたとき,それを説明できれば,その法則は優秀なものと評価されます。」(120頁)

科学理論は常に「仮説」ですよね。


「人間を信じられなかったニュートンにとっては神だけが、信じるに値する絶対的な存在だったのでしょう。そして科学とは、神に一歩でも近づくための手段でした。運動方程式がいかに万物の動きを指し示そうとも、その考えは終生変わらなかったようです。彼はこう言っています。
〈私は浜辺で遊ぶ少年のようなものだ。ときどき、滑らかな小石や可愛い貝殻を見つけて遊んでいる。その一方で、真実の偉大な海はすべて未知のままに私の前に広がっている〉」(128頁)

ニュートンは幼少期が不遇であったため,他人に対する信頼や愛情といったものに欠けていたという評価があります。


「《聖書の執筆者はみな、「人間の救済」という問題についてなんらかの答えを得ていた。しかし、それ以外の問題については、彼らの同時代人たちと同程度に賢明、あるいは無知だった。だから、聖書に歴史的・科学的な誤りがあるとしても、それは何の意味もない。不死や救済の教義に関して正しいのだから、ほかのすべての事柄についても正しいに違いないと考えることは、聖書がなぜわれわれに与えられたのかを正しく理解していない人が陥る誤解である》」(167頁)

この発言 ↑ は,カトリック司祭でもあった物理学者ルメートルのものとのことです。彼は,ハッブルに先駆けて膨張宇宙論を整理・発表していましたが,『ブリュッセル科学界年報』という目立たない雑誌にフランス語で発表していたため,世界でほとんど注目されませんでした。そのため,膨張宇宙論についてはハッブルの研究成果であると世の人々は認識してしまったのです。しかし,彼は,自身の研究成果が注目を浴びることによって,科学と宗教という不毛な対立が生じることを嫌い,世の誤解を指摘しませんでした。


「中世から起こっている、互いに激怒しあった科学と宗教の間の紛争は、誤解にもとづいている。宗教の中に存在するイメージやたとえ話を、科学的な表現と間違えた結果だ。あたりまえのことだが、この紛争には一切の意味はない。信仰とは一人ひとりがもつ考え方であり、どのように生きるか、どのように行動するかを決めるのに役立つ。たしかに私たちはこのような決断をするとき、家族、国、文化など、周りの人々に影響される。決断は教育のレベルや環境によって大きく左右される。だが最終的には、それぞれが出した結論は主観的なものであり、他人が正しいとか間違っていると断言することはできない。プランクは(もし私の理解が正しければ)この自由度があることで、キリスト教的な考えが非常に重要だと考えているのだ。だから客観的な科学と、主観的な宗教を切り離して考えることができるのだ」(211頁)

この発言 ↑ は三田先生のものではなく,ハイゼンベルグプランクの考え方を評したものとのことです。


そして,最後の最後に,本書のテーマに関する三田先生のコメントを引用いたします。

「私が考える『神業』とは、永遠に来ない『終わり』と言うことができます。人間には神をすべをて理解することは永遠にできません。しかし、一歩でも神により近づこうとすることは可能です。近づけばまた新たな疑問が湧き、人間は己の無力と無知を思い知らされます。だからまた一歩、神に近づこうという意欲を駆り立てられます。『もう神は必要ない』としてこの無限のいたちごっこをやめてしまうことこそが、思考停止なのであり、傲慢な態度なのではないでしょうか。科学者とは、自然に対して最も謙虚な者であるべきであり、そのことと神を信じる姿勢とは,まったく矛盾しないのです。」(263頁~264頁)。

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