【題未定】なぜ重いカメラを持ち歩くのか?―スマホにない「撮影体験」の魅力【エッセイ】
「スマホで十分じゃない?」カメラを持ち出すようになってから最も多い問いかけがこれだ。もちろんこのままの表現でダイレクトに聞く人はそこまで多くないが、「スマホとどう違うの?」、「重くない?」といった質問を受けることは決して少なくない。
それらの質問に、誤解を恐れずに答えるとするならば、全くもってスマホで十分である。出来上がった画像データもほとんどスマホと変わらない。そして超絶に重い。少なくとも、昨今のデジタル一眼カメラはそうした質問をする人が持つようなものではない。普段使いに十分な画質と手軽さ、身軽さを求めるのならばスマホ一択である。
実際、ここ数年に発売されたスマホのカメラ機能は目を見張るものがある。画質は言うまでもなく、望遠や広角レンズまでついている。それを最新技術のCPUで処理、加工したデータが作品として吐き出されるのだからけちのつけようがないのだ。正直な話、スマホ写真は何らかの写真を必要とする人の99%が問題無く利用できるといって過言ではないだろう。
では問題のあるケースはいかなる場合だろうか。これは大判の紙に印刷したり、ポスターなどに利用するケースだ。あるいは動きのあるスポーツやコンサートを撮影するケースもあるだろう。そうしたケースでは一眼カメラの価値は唯一無二である。光が少ない場所での撮影や素早い動きを切り取ることはスマホでは難しい。加えてデュアルスロットなどの付加機能が必要なプロの場合もスマホでは難しいだろう。
さて私の使い方はどうだろうか。少なくともプロではないし、紙に印刷して張り出したりすることはない。せいぜいPCの画面に映して見る程度で、撮影した写真のほとんどはSNSにUPするといったものだ。また昨今はスマホでも編集が可能であり、色味をいじる場合にもデジカメを使用しなければならない必要性は存在しない。にもかかわざわざカメラを持ち出す意味はどこにあるのだろうか。
その質問への個人的な回答は「撮影体験」というものだ。スマホで写真を撮るのは手軽で便利、画質も良好だ。しかしその撮影体験に特別感は存在しない。あくまでもポケットから取り出し、サッと撮る。そこにこだわりは存在しないのだ。いやもしかするとスマホであってもこだわりを持っていて、設定を調整し撮っている人はいるのかもしれない。ただ、私にはそれができない。あくまでも手軽なツールとして記録に残す用途以外では写真を撮る気にならない。
一方でカメラ、特に現在主に使用しているE-M1Xのような大きなカメラの場合、その「撮影体験」は格別だ。大きさもさることながら、重く持ち運びに不便である。しかしそれを構え、ファインダーから覗いて撮影する特別感は他にはないものだ。限られた視界の中に被写体を収め、絞りやISO感度を調整し、自らの考えるベストのタイミングでシャッターボタンを押すという一連の行為は、その風景をそのまま宝箱に収めるような気持ちにさえなるのだ。
現代社会は豊かになった。これは貧困云々とは別として、物質的に不便なく生活できる条件が整ったという意味で豊かになったということだ。スマホはその豊かさの象徴である。電話、PC、ビデオ、CD、カメラ、スケジュール帳、地図、その他あらゆるものがたった一つの機械で代替できる。
豊かさはスマホだけではない。公共交通機関は整い、豪邸でなくてもエアコンの設置していない住居の方が少ない。物質的に複数の「モノ」を買いそろえなくとも生活できる世界がそこに存在する。
だからこそ多くの人たちは「モノ」ではなく「体験」に対価を払うようになった。観光や滞在体験型の旅行が人気を博したり、キャンプがブームとなったりするのはそうした傾向を示す現象の一つだろう。
一眼カメラでの撮影もそうした「体験」に価値を見出すものの一つなのかもしれない。事実、昨今はレンタルで一眼カメラを利用する人も増えているという。高品質な「撮影体験」は必ずしも高級機を所有する必要はないということなのだろう。
今日もまた、重いカメラを鞄に詰め込んで出かける。特別な「撮影体験」を考えれば、その重さは決して不快なものではないのだ。