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【題未定】藤崎宮秋季例大祭を考える:文化批判とその本質【エッセイ】

 昨日、9月16日敬老の日、熊本市内は祭りで大賑わいだった。この祭りというのは「藤崎宮秋季例大祭」であり、一連の行事の最後となる「神幸行列」である。

 この祭りには以前から賛否が分かれている。この祭りの以前の呼称は人権団体や隣国からクレームを受けて変更が行われた。また、飾り馬を引いて練り歩くという性質上、その馬の扱いに関しては動物愛護団体などから虐待の指摘を受けるなどしたこともある。(現在においてもその批判は大きい)

 一方でこの祭りを楽しみにしている人が相当数存在するのも事実だ。1970年以降、参加団体の減少のテコ入れのために高校同窓会の参加数が増加した。その結果、祭りとその準備が高校同窓会の交流や懇親の意味合いを持つことになった。現在では地元に残った卒業生と遠方へ就職、進学した卒業生が集まる機会ともなっており、熱心な参加者は少なくない。

 また地元企業が会社ぐるみで参加をする例も多い。その参加者すべてが希望して参加をしているわけではないにせよ、企業のアイデンティティや文化として活用する例もあるようだ。

 ここ最近、SNS上ではこの祭りに対する批判が多い。もちろん先述のように批判を受けるべき要素が多いのも事実だ。しかし昨今目につくのは「下品で嫌いだ、だから早く中止、廃止すべき」という論調だ。これらはエコーチェーンバー化して、同じ思考方向の人たちの間を何周も巡って強化されつつある。彼らからすれば「悪しき風習」ということになるのだろう。いわく「日本一下品な祭り」だそうだ。

 さてでは個人的にはどう考えているのか、と問われると、私自身もこの「藤崎宮秋季例大祭」及び「神幸行列」は決して好むところではない。そもそも祭りや行事ごとなど自体が好きではないし、騒がしいのも苦手である。したがって、参加をしないのは言うまでもないが、関わりを持ちたいとも思わない。毎年この日は家の中で静かに過ごすか、遠方へ出かけるようにしている。しかしでは祭りを無くすべきと考えているかと問われると、その答えは「否」である。

 祭りは風俗や風習、慣習と結びついて生活に結びついた文化となっている。これはどの土地、地域でも変わらない。「藤崎宮秋季例大祭」も例外ではない。この祭りの場合、確かに馬への虐待や整然としない踊りや行列に嫌悪を感じる人の存在は理解できる。しかしでは全国のどの祭りが粗野で下品でなく、優雅で上品であろうか。

 あるSNSでは同じ熊本の「山鹿灯籠まつり」を上品である、と讃える声があった。しかし「山鹿灯籠まつり」は景行天皇伝説の道案内が由来、「藤崎宮秋季例大祭」は加藤清正の生還祝いと放生会を重ねたものであり、これらを単純に比較することはできないのだ。

 前者が落ち着いた雰囲気であり、後者が荒々しいのはその成り立ちの違いというものだ。これに優劣をつけようとする行為はエスノセントリズムの亜種であり、優生学の土壌を生み偏見と差別の源泉となる思考体系であろう。付け加えると、それを語る人の多くがLGBTや動物愛護をタグ付けした自称人権派の傾向が強いというのは興味深い現象かもしれない。

 そもそも祭りと呼ばれるものの多くは「ハレ=非日常」を演出するものである。そのため「ケ=日常」では許されない下品さや無礼講を容認するという性質を持っている。したがって、祭りという存在そのものが日常からの解放である以上、あらゆる祭りは「下品さ」を内包しており、それをもとに批判すること自体、無理があるのだ。

 マナーを守らない参加者が存在するのも事実だ。彼らの行動や騒音など批判される要素を持つことも否定はできない。しかし、主催者側から規制や注意は促されており、それは祭りそのものではなく参加する個人の問題でしかないのだ。

 繰り返しになるが、個人的にはこの祭り、全く好むところではない。参加もしないし関わるつもりはない。ただ、仮にこの祭りに関し正当な批判ではなく、自身の考える正義や秩序のみを絶対的にとらえ、中止を求める人間に関しては断固反対をする。文化の優劣を基準にし、歴史を否定し文化を汚す人間の専横を許してはならない、と思うのだ。

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