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【題未定】無敵の人と日本社会:安全神話崩壊の現実【エッセイ】

 先日、北九州市において中学生二人に対する殺傷事件が発生したのは誰しもが知るところだろう。事件発生は12月14日、この記事を書いている12月19日の午前中には犯人と目される男が逮捕されたという報道が流れていた。

 現時点では動機が不明であり、何故中学生が刺され、うち一人は死に至らしめられなければならなかったのか、全くもって事件の全容は見えていない。しかし今回の事件は日本の安全神話が崩れていく様子を如実に示しているようにも見える。

 SNS等では中学生が夜間にファストフード店にいたことを問題視する意見もあるという。これこそ本当に意味が分からない行為だ。事件のあった20時半ごろであれば塾帰りや、場合によっては塾へ向かう中学生が街にあふれている時間である。どう考えてもその時間に店舗にいたことそのものを責めるというのはあまりにも理不尽、意味不明な言動である。

 事実、私が中学生であった30年弱前であっても、その時間にうろつくのは決しておかしな話ではなかった。22時過ぎに塾帰りにレンタルビデオ店やCDショップに寄り道するのは日常茶飯事だった。まして社会の活動時間がその当時よりも後ろ倒しになっている現代である。時間的に不適切であるという方が無理筋だろう。

 しかしだからこそ、安全神話の崩壊を感じさせる。全く違和感のない時間に、単純にファストフード店にいただけで何者かに刺殺されるというのだ。もちろん場所は北九州市であり、九州の中でも決して治安のよい場所ではない。とはいえそれでもこれまでであれば、その時間に中学生が危険な目に会うことなどほとんどなかった。今回の事件がその共通認識を変革させることは間違いないだろう。

 もちろん今回の事件および犯人に関しては詳しいことは分かっていないため、明確なことは言えないが、この手の通り魔的事件は年々社会問題化しているようにも見える。2022年に大学入学共通テスト当日の東大前で発生したた「東京大学前刺傷事件」、2021年には電車内で刃物で刺殺、放火した「京王線刺傷事件」や「小田急線刺傷事件」など近年に数多く発生している。

 この手の事件が近年に著しく増加傾向にあるかというとそうではないという。しかし高齢化と人口減少に伴う経済縮小が明らかな現代日本において、先行き不安や不透明感から、社会全体に漠然とした不安が漂っていることも事実だ。

 加えて、こうした通り魔的犯行に行う人を「無敵の人」と言語化したことは大きいかもしれない。これまでもそうした社会の片隅で不遇を強いられたり、忘れ去られたりした人は一定数存在したはずだ。しかし近年になって明確に名前を付け、カテゴライズされたことで疑心暗鬼に囚われやすくなったことも事実だろう。これまで忘れられていた「マンションやアパートの○号室の彼」は見えない住人から潜在的な犯罪予備軍に格上げされ、生活圏の周囲で常に潜む危険因子となったのではないだろうか。

 また「無敵の人」という定義づけがその言葉が差す本人に影響を与える可能性もある。その言葉によって自覚的になる人も少なくないだろう。自身の境遇をその定義によって再確認し切望するというケースもありうるはずだ。

 こうした事件に対して個人のレベルで事前の対策をするのも困難である。どこで、誰が犯行を行うかなど予想できるはずもないからだ。とはいえ個人情報が保護される現代において、不審人物を全て監視するようなことも難しいだろう。結局は社会全体でそうした社会の片隅にいる人に行政の補助や福祉との接続を促すことしか解決策はないのかもしれない。

正直な話、この問題は一朝一夕で片付くような問題ではない。忘れられた○十年によって積み上げられた貧困と格差の副産物であり、そもそも解決可能かすら不明なのだ。あるいはより大きな政変、混乱と貧困からの成長による解決を目指すかだ。少なくとも現時点で即効性のある解決策は存在しない。

だからといって被害に遭うことが仕方がないとも言えず、また犯人の罪はそれを理由として酌量を受けるべきものでもないだろう。まずはきちんと法によって裁かれることを祈るのみだ。

そして、何はともあれ、死亡した女子中学生の冥福を祈るばかりである。

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