受験勉強という苦役に耐えることに価値を見出す文化が「ゼロ勉強社会人」を生む
「ゼロ勉強社会人」
日本の社会人は勉強をしないという話を方々で聞きます。
上のリンクは2016年の調査をもとに書かれたコラムですが、こうした社会人の勉強しない問題は常に話題となるものの一つでしょう。
記事中にもあるように、リスキリングやリカレント教育などの言葉が流行りだして早数年たっているにも関わらず、学習時間は7分しか増加しておらず、明らかに日本の社会人が勉強をしない状況が数字にも表れています。
勉強しない理由
勉強しない理由は個人によってさまざまですが、最も多く口にされる理由の一つは「時間がない」ということです。
日本の企業の場合、多くは残業をすることが求められます。
ところが上のデータを見る限りにおいてはそれほど残業時間が多いとは言えません。業種にもよりますが、一日1時間も残業していないということになっているのです。
ただ、ここにはサービス残業が含まれていないことは問題でしょう。特に中小企業の場合は依然として労基法がきちんと守られていない状況が存在するからです。
とはいえ、時間がないから勉強をしない、ということはどうもデータからは否定せざるを得ないようです。
しかしながら、勉強をする心理的余裕やゆとりが存在しない、ということは否定できるものではありません。個人的に勉強をしない人たちに話を聞く場合の多くはそうした気持ちの部分での忌避感が強いようです。
勉強をしない人の多くが勉強に対して忌避感、とくに苦役性を感じています。
そしてその原因こそが学校や受験勉強に存在しているのではないかと考えられるのです。
勉強=苦役
日本における勉強、授業は苦役であることが多いようです。
授業中は黙って座り、先生の指示に従い、皆と同じ行動を時間内にしなさい、これは学びというよりも苦役、労役の類です。
受験勉強などはその典型的な例で、苦手な教科もすべて全教科勉強する、同一日にある試験で一点を争う競争を行うということを楽しんでやれる人間の方が少数派でしょう。
結果、苦役に耐える人材が評価されることから、勉強=苦役、苦役に耐える=評価されるという勉強に対する苦役性の強調が強化学習されることになります。
実際、こうした苦役に耐える精神を高める訓練は高度経済成長期においては社会から求められていましたし、それに耐えられる人材こそが評価されてきました。
工場労働で決まったルーティンで働く労働者にはそうした苦役耐性こそが良き労働者の資質だったからです。
これが時代の変化によって求められる人材像が変わり、そこでミスマッチが起きているに過ぎないのです。
昨今の学校教育
近年の学校教育や授業は変化を見せつつあります。
能動性や自発性、主体性を重視した教育技術、技法やICT活用が現場で見られるようになっています。
とはいえその多くが初等教育における事例で、中等教育においては変化が鈍いようです。
その原因は高校入試、大学入試の存在です。
これらの試験の内容の多くが、苦役に耐えた人ほど有利になるシステムになっているため、いかに教育内容を変えようとしても実際の入試というハードルへの対策がボトルネックとなってしまうからです。
こうしたことを書くと「自分は楽しんで東京大学に入れた」といった体験談を上げる人が出てきますが、それこそが例外的な存在であって、一般化することは不可能です。
結局のところ、入試制度を変えないことには学校教育、特に中等教育の本質的な変化は訪れず、「ゼロ勉強社会人」を生み出し続けるだけになるのではないでしょうか。