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【題未定】科学と神の狭間に生きる無宗教な日本人:私は『神』を否定しない【エッセイ】

 寺社仏閣を訪れ写真を撮ることに最近はまっている。より正確に言えばその宗派や施設の成り立ち、歴史を調べることまで含めた趣味となっていると言えるかもしれない。ここ最近の言い方では「歴女」ならぬ「歴おじ」といったところだ。

 こうした趣味を聞くと、私のことを信心深い人間なのだろう、と考える人もいるだろう。しかし残念ながらその予想とは逆で、信心とは縁遠いのが私だ。個別の宗教に対して信仰を厚くすることはほぼ無いし、お布施をするということもまずない。つまるところ日本人的な「無宗教」という表現が最も近い人間なのである。

 では多くの日本人が口にするこの「無宗教」とは本当に「無」宗教なのだろうか。私を含めて実際には全くそんなことはない。彼らの大半は子が生まれれば神社へ参拝に行き、亡くなったら寺で葬式を行いお経を上げる。毎年除夜の鐘を打ち、初詣に出かける。またそうした場所で手を合わせたりお辞儀をすることに躊躇のない人達。そもそも日本人のほとんどは食事の前に手を合わせる。これ自体が自然への鎮魂の祈りであり、身近な宗教的儀式である。つまるところ、私たち日本人は世界的な視点で見れば、十分に敬虔な仏教や神道の信者であるが、それを自覚していないというだけなのだ。

 真の「無」宗教とは何だろうか。いわゆるコミュニスト、共産主義者は無宗教だという。共産主義は宗教を否定し、人間の理性に基づく社会統治を目標としている。しかし彼らでさえも真に「無」宗教かは疑問だ。彼らが聖者、聖典のように崇めるマルクスや国富論の存在、何よりも共産主義そのものを神格化=人智を超えるシステムと見なしているのではないだろか。結局のところ、コミュニストはそれを「神」と呼ばないだけなのではないだろうか。

 科学の進歩は「神」の存在を希薄化させた。この「神」とは人智を超えた存在や概念、考え方を指す。私たちは文明の進歩とともに世界をコントロールする術を手に入れた。その結果「神」の存在を感じずに普段の生活を送ることができるようになった。日本人の自称「無宗教」もまた、この副産物に近いものであろう。

 私は数学を専門とする自然科学徒の末端の末端にイニシャルを載せる程度の人間でしかない。しかしそれでも自然科学に関わるものとして、人間の持つ疑問や世界の謎、社会問題などを科学が解決することができると信じている。現在はともかくとして、遠い無限の未来には克服できると信じているのだ。しかし同時に現時点においては、人類社会はその理想から何万光年も離れた位置に存在することも十分に承知している。現代において科学は万物を理解、証明するのに最も優れたシステムである。しかし同時に科学が示すことのできないものが存在することもまた事実である。

 「神」の存在を否定したい立場の唯物論者は「神」の不存在を自ら示す必要がある。しかし残念ながら科学は現代において未だそれを成し得ていない。ゲーデル不完全性定理を持ち出すまでもなく、科学体系は科学自身によって示すことが不可能だとしても何ら不自然ではないだろう。

 だから私は日本人的「無宗教」でありながら「神」(=それに類するもの全て)を否定はしない立場をとる。人がそれを畏れ、敬う以上、そこには彼らが信じる「神」が実際に存在するからだ。科学と称して浅薄な知識と自己矛盾の論理で「神」を頭から否定する行為だけは受け入れないと誓っているのだ。

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