【題未定】教員という仕事の裁量と責任:その適性を考える【エッセイ】
学校の教員という仕事は他の職業と比較して異なる点の多い職業である。もちろん職務内容そのものは言うまでもないだろう。利益を上げることを目的としない、授業を行い指導することそのものを職務とするなど、明確な差異がそこには存在する。
一般的な企業においても後進の育成というのは業務の一つであるのは間違いない。しかしそれは企業経営の持続性を保持するための手段であるに過ぎず、教員のように生徒の成長やスキルアップそのものを目的とするものではない。
ところが教員という仕事には、そうした職務的なものとは異なる差異が別に存在する。今回はその点に焦点をあててまとめてみたい。ここで事前に注意しておくと、この記事では昨今教員叩きの理由とされがちな「教員の社会性の無さ」を話題にはしない。そうした議論は教員憎しのインフルエンサーに任せて、現実的な差異を論じたい。
ではその異なる点というと、それは労務管理という観点に関してだ。具体的に言えば教員は実質的に一労働者として労務についていない、ということだ。もっと踏み込んだ言い方をすれば、多くのサラリーマンよりもかなり強力な裁量権を持っていると言える。
例えば民間企業の場合、それこそ新入社員などは直属の上司に対して逐一報告を行い、進捗管理を受けることがほとんどだ。したがって、残業をする場合は、上司の指示によって行うことになる。
ところが教員の場合、新卒の時点から自身の授業、担任クラスなどの業務の大半は自身の裁量で割り振って業務を行う。これは学校という組織が明確な数値目標をノルマとして動く集団ではないということ、また教育の独立性に由来するものだろう。生徒の成長に繋がると目されるものであればかなり自由に教育活動に取り入れることが可能であり、この点は民間と大きく異なるところだろう。もちろん学年全体での進度目標など、ある一定の到達点の設定はなされるものの、業務全体に関しては一貫して教員の独立性が認められている。これは公私を問わず多くの学校で共通した特徴だ。
だが一方でこの独立性、自由度が教員自身を苦しめることも多い。明確な目標が無いがゆえに視座の高い目標を掲げ、生徒とのギャップに苦しむケースは少なくないのだ。特に教員になる人材の多くは学校優等生であった経験があり、そうではない大半の生徒との価値観のずれに戸惑うことは多いという。
また明確な上司からの指示がないがゆえに、横並びで揃えることを強制する同調圧力が精神的な負担になることもある。特に上下関係がないがゆえに年齢順の序列で年長者を尊重する空気感が生まれやすい教員現場においては、パワハラと本人が認識しない程度の圧力となり、心を病んでしまうということもあるという。
私はこの文章で教員が大変、しんどい、難しいということを言いたいわけではない。ただ、民間とは明らかに異なる組織体系、指揮系統が存在し、空気を読んだり、あえて鈍感(ナチュラルに鈍感である場合も)に振舞える人間が適性が高いのではないか、と考えられるのだ。
もちろん、これはあくまでも私の私見であり、必ずしも正しいと言える見解ではない。ただ、こうした適性が必要な可能性がある、と認識したうえで将来の職業選択の一助にしてほしい、と思う。この文章が若い教員志望者の目に留まれば幸いである。