見出し画像

【題未定】愚者の目には愚者が映る【エッセイ】

 先日、滋賀医科大学の学生の強制性交に関する事件に関しての記事を書いた。その中でSNSを見ていると感じたのが世の中のかなりの数の人が他者、しかも専門家を「愚者」であると認識、認定して話している、ということだ。

 実際、今回の飯島健太郎裁判長は拒絶の意味を知らない、理解していない、などの愚かな言説を垂れ流しているポストが私のタイムラインにも異常な量、流れてきている。

 まずもって確認しておくと、裁判官は極めて優秀な人たちであるということだ。裁判官になるためには司法試験に合格しなけれなばならない。法科大学院に進学し司法試験を受験する場合と、予備試験を受けて司法試験に進む場合の2通りが考えられるが、どちらも常人では考えられないほどの学習が必要となる。

 試験に合格したのち、司法修習生として研修を受けその後法曹職に就くことになる。この時点でも裁判官として任官できるのは上位の5%程度と言われている。

 この手の試験の難しさを書くと「お勉強ばっかりしてきた不見識者なのだ」という偏見を持つ人もいるだろう。しかし実際には法律知識や論理的思考能力の上に、研修中に実務処理能力や組織運営能力、コミュニケーション能力も見られているという。実際、裁判官の仕事は書記官とのやり取りが必要で、決してお勉強だけの狭い見識の人間が選ばれるわけではない。

 数多ある裁判においては、科学技術的な考察や世間一般の常識を前提とした訴訟も少なくない。裁判官はそうした事件に不可欠な知識のうち、持ち合わせていないものはその都度学習し直すという。そして事件担当時の裁判官の知識や思考は、専門家のそれに勝るとも劣らないレベルに到達するとも言われている。

 そう考えれば、飯島裁判長を愚者呼ばわりすることの愚かさが見えてくるのではないだろうか。ちなみにこの手の学識者軽視の批判は官僚や医師、研究者に対しても同様のものが見られる。(研究者の場合、本当に専門馬鹿という人もいるが)

 こうした批判を行う人の多くに見られるのは学習経験の浅さだ。彼らは身体的に経験したことに関してはより価値を見出し、書物から得られた知識を軽視する傾向にある。その理由は書物から得た知識を血の通ったものにした経験が極めて浅いからだ。得た知識は深く考察し、何度もアウトプットを繰り返して、初めて血の通ったものになる。その経験が圧倒的に足りないがゆえに、書物から得た知識を軽視するのだ。経験が足りないがゆえに、経験を重視するというのは皮肉の極みだろう。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは鉄血宰相ビスマルクの言葉だが、これはまさに正鵠を射ている。

 もちろんトンデモな専門家が存在するのも事実だ。しかしそうした割合は極めて低いという統計的事実を無視してはならない。現実に存在する専門家の多くはあなたよりも博識で、広範な知識と判断力を備えたプロフェッショナルであるという前提条件を忘れるべきではない。

 残念ながらこの文章を届けたい人たちにこの文章、そして文意が届くことはほとんどないだろう。しかしそれでも今回の愚かしい批判、中傷に対して物申さずにはいられないのだ。

 この現象はさしずめ「愚者の目には愚者が映る」とでも評して溜飲を下げることとしよう。

いいなと思ったら応援しよう!