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【題未定】無償化してまで修学旅行を行う意義はあるか?葛飾区の愚策【エッセイ】

 修学旅行という響きにどのような印象を抱くだろうか。青春の一ページ、学生時代のメインイベント、友人たちとの交流などその思いは人によってさまざまだ。

 言うまでもなく、修学旅行は学校行事ではあるが、あくまでも任意参加のイベントである。旅行である以上、それなりの費用が発生し当然ながらその費用負担に耐えられない家庭も存在するからだ。そうした生徒は残留クラスで補講授業を受けながら他の生徒を待つことになる。生徒側の立場で見ればやりきれない気持ちがあろうし、教員側から見ても何とも言いようのない無力感を抱く瞬間でもある。

 幸いなことに私自身は、小中高と修学旅行を経験することができた。決して裕福な家庭ではなかったが、それらの金額を捻出するだけの経済力はあったようだ。個人的にはそれほど楽しい時間を過ごしたり、実になる経験をできたとは言い難いが親に感謝をしているところではある。

 さて、そんな修学旅行に関して昨今は「無償化」がキーワードとなっている。東京都の葛飾区が修学旅行の保護者負担を公費で賄うというのだ。葛飾区立の中学校では、京都旅行を8万円程度で企画しているが、これを区が負担して保護者の負担はゼロとなる予定という。

  先ずもって私自身の旗色を示すのであれば、全くもって理解できない政策であり、現行の修学旅行に公費を投入する価値は無い、という立場だ。なぜならば昨今の修学旅行は、基本的に「衆楽」旅行へと堕していることがほとんどだからだ。事実として「思い出作り」と「テーマパーク観光」を柱とした修学旅行となっているケースが大半なのである。特に中、高と校種の年齢が上がるにつれてその傾向は強いだろう。

 この事実そのものに関しては致し方ない側面も存在する。生徒や保護者の要望を無視することができない昨今の状況や、学校間で生徒の取り合いをする客寄せの要として修学旅行が機能している以上、修学的、啓蒙的な旅行から享楽的でポピュリズムに堕することは必然だからだ。

 とはいえこれらは「修学旅行」という形式を維持するからこそ起きる現象である。極論すれば、「修学旅行」を止めてしまえば質的な批判からも解放され、また費用負担が発生せず、しかるに自治体がそれを肩代わりする必要も無くなるだろう。

 そもそも修学旅行とは貧しい時代、自費で旅行に行けない生徒に見聞を広める機会を与えるという名目で日本中の学校に普及したと言われている。しかし近年は高速鉄道や交通網が発達し、そうした機会を学校が計画し生徒に与える必要性があるかは疑問の余地がある。また別環境における集団生活による体験に価値を見出す向きもある。しかし、生徒や保護者の要望で集団入浴、就寝を忌避し個室や少人数の部屋の要望が出るケースも少なくない中でで無理に修学旅行という形式を維持しても意味は無いだろう。

 葛飾区の今回の措置は、修学旅行に価値があるという前提に立脚しているために、公費負担を行うというものである。しかしその前提自体が疑わしいものである以上、これに公費を負担するべきではないのだ。

 正直なところ、現行の修学旅行の形式はもはや限界である。個人や各家庭で宿泊先、交通手段を確保した方がよっぽど条件の良い旅行になるだろう。修学旅行は一般的に個人旅行よりも割高である。それを中抜き、ぼったくりと批判する人間も少なくないが、あれは大口の宿や交通機関を確保するための費用であり、教員の酒代にも代理店の儲けになっているわけでもないのだ。

 もはや修学旅行ではなく、個人や家族で旅行をすべき時代である。事実、修学旅行以外の団体旅行、慰安旅行なども減少の一途をたどっている。仮に修学的な意味を持たせたいのであれば、夏休みなどの長期休暇中に遠方への旅行とレポートを課せばよいのであり、学校でみんな揃ってお出かけする必要などありはしないのだ。

 もちろん修学旅行を楽しむ人がいること、そこに何らかの学びがあることを全否定するつもりはない。しかし少なくとも、現在の修学旅行は公費負担を行ってまで実施するような教育活動ではないのではないだろうか。だからこそ、この葛飾区の公費負担は天下の愚策のようにしか私には見えないのだ。

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