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不当判決か、法治主義か──滋賀医大生事件をめぐる考察


事件と裁判の流れ

滋賀医科大学医学部の学生2名が2年前、別の大学に通う女子学生に性的暴行を加えたという事件の裁判、第2審の判決が話題になっています。

この事件の主犯とされる別の学生はすでに控訴中ながら実刑判決が出ており、また罪状自体に関しては認めているようです。

今回の2名に関しては無罪を主張したものの1審の大津地方裁判所女子学生の証言の信用性を全面的に認め、それぞれ懲役5年、2年6か月の実刑判決を言い渡していました。

その後の控訴審において大阪高裁は、「女子学生は自身に不利な行動を隠す供述をしていたのに1審は十分な検討をせずに信用できるとしたのは不合理である」と指摘しました。「2人の行為や発言が暴行・脅迫に当たるとは認められず、女子学生の同意があった疑いを払拭できない」として1審の判決から一転、無罪を言い渡しました。

判決に不満を抱く人たちの存在

この判決に対してネット上の方々で異論と不満が噴出しているようです。

証拠として提出された現場映像での女性の「やめてください」、「絶対だめ」、「嫌だ」といった拒絶の言葉が「性的な行為の際に見られることもある卑猥な発言という範疇のもの」として判断したことなどがその理由のようです。(それ以外にも加害者宅に自分から入っていること、あえて証言していない事実が存在することなども理由として存在します)

確かにこの状況だけを聴けば不満はもっともであるとも言えます。こうした言葉を発し、しかも1対複数の状況であり、常識的に考えれば同意があったと考える方が難しいのも事実です。個人レベルで考えれば憤懣やる方ないというのも仕方ないことでしょう。

エスカレートする判決への批判

そうした判決への不満と批判がエスカレートした結果起こったのが、高裁の判事である飯島健太郎裁判長を糾弾し、罷免を行おうという署名活動です。

これ以外にもSNS上では主に女性からの批判の声が大きくなっています。#飯島健太郎裁判長に抗議しますというハッシュタグは広範囲に拡散されているようです。

これらの批判、抗議のほとんどは飯島裁判長が男性本位な人物で、女性の拒絶行為を認識できない、あるいはミソジニストであるかのようにこき下ろしています。

ではこうした批判運動こそが正当なものであり、裁判は人権無視の不当な判決だったと言えるのでしょうか。

判決の妥当性と「法令不遡及の原則」

まず冷静にこの事件と裁判について考察をします。とはいえ私は現時点で判決文を読む立場になく、また公開もされていないため詳しい状況が確認できていませんので、報道発表の情報を組み合わせて考察していることを断っておきます。

この事件は2年前に起きたものであり、現行法ではなく刑法改正前の「強制性交等罪」で逮捕起訴されたものです。

「強制性交等罪」は現行の「不同意性交等罪」と異なり「同意の有無」ではなく、「暴行や脅迫を手段として行う性交等」が構成要件となっていました。

そして裁判や法律の適用に関しては「法令不遡及の原則」という大原則が存在します。要はその時点において施行されていた法律によって裁かなければならない、ということです。(そうでなければ政治家は事後法によって望む相手を犯罪者に仕立て上げることが可能になります)

つまり、現時点において同様のことを行えば、「不同意性交等罪」が適用されてかなり高い確率て有罪で結審しますが、2年前においては難しいのが事実なのです。

今回の高裁の判決がどの程度正当性があるのかは判断が難しいのですが、少なくとも報道から分かる情報のみで裁判長を差別主義者扱いし、罷免を求めるような署名活動を行うほどのヘイトを受けることに妥当性があるとは到底言えないでしょう。

民意で裁判を動かしてはならない

SNSを見ていると勘違いしている人たちが少なくないように感じますが、裁判所は道徳と倫理に基づく正義を執行する場所ではなく、あくまでも制定された法律に則って社会の争いを解決し、国民の権利と自由を守る場所です。

今回の事案の場合、法律上は医大生の行動が犯罪とは認定が難しく、仮に犯行を証明するのであれば検察や警察が証言だけではない、違法性を示すような物的証拠を示す必要があったわけです。

そしてそれが出来なかった以上、「無罪推定の原則」に基づいて無罪判決を下すことこそが裁判所の役目であるのです。

ところが署名活動をしている人々は民意を縦にこの制度や原則に横車を押して無理を通そうとしています。これは非常に危険な行為です。

民意で裁判を捻じ曲げてしまえば、法律の価値は地に落ち人治主義が支配する近代以前にまで逆戻りする愚行を国家レベルで行うことになりかねないでしょう。

そもそも今回の事案のようなことから女性の権利を守るために刑法が改正され、「不同意性交等罪」が新設されました。仮に問題がある場合、判決を覆す、判事を罷免するのではなく法律改正を求めるのが民意を示す正しい在り方のはずです。

実際、民事での不法行為認定と損害賠償請求、大学側の処分など全てがお咎めなしというわけではないのです。あくまでも刑法上「無罪」であるにすぎないのです。

「リーガル・ハイ」、古美門研介

以下は法律や弁護士をテーマに扱ったテレビドラマ「リーガル・ハイ」の第2部第9話における主人公、古美門研介の長セリフです。

死刑にしましょう。現場での目撃証言はあやふやだけれど、死刑にしましょう。
被告人の部屋から押収された毒物が犯行に使われたものかどうか確たる証拠はないけれど、死刑にしましょう。
現場に別の毒物らしき瓶が落ちていたという証言があるけれど気にしないで、死刑にしましょう。
証拠も証言も関係ない。高級外車を乗り回しブランド服に身を包みフカヒレやフォアグラを食べていたのだから、死刑にしましょう。
それが民意だ。それが民主主義だ!なんて素晴らしい国なんだ。民意なら正しい。みんなが賛成していることなら、全て正しい。
(中略)
本当の悪魔とは、巨大に膨れ上がったときの民意だよ。
自分を善人だと信じて疑わず、うすぎたない野良犬がドブに落ちると
一斉に集まって袋叩きにしてしまう。そんな善良な市民たちだ。

この言葉は法律に関わる全ての人間、つまり国民の全てが考えるべき問題を指摘しているように思います。

法律や権利、制度をいかに学ぶか

現代の教育は権利や自由に関してはそれなりにきちんと教育を行っています。もちろんそれが生徒に伝わっているかどうかは別としても、権利や自由に関しての関心を喚起することには繋がっています。

事実、昨今の若者は自他の権利意識が非常に強く、また相手を傷つける言動なども昭和時代の私たちに比べて忌避する傾向は強いように見えます。自由を制限することへの反発も強くなっているように感じます。

しかしその一方で法律に関してどれだけのことを教育できているでしょうか。条文や内容を守るということではなく、法律という仕組みの意味、三権分立の本当の価値についてどれだけ伝えられてきたのでしょうか。

今回の裁判から判事罷免署名までの流れは、そうした法制度に関わる教育が不十分であったことを示唆しているようにも思えるのです。

現代の教育において求められる最低限の知識として、法律の基本原則に対する理解が求められているのかもしれません。特に本件は「教育の改善」、「法治主義の重要性」、「SNSの責任」という3要素が絡んだ非常に複雑な事件であり、家庭での教育だけでは難しいのは間違いないでしょう。だからこそ、教育機関における法律を含めた現代的な判断の基準の指導、その役割が重くなっていると一教員として痛切に感じたのです。

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