部活経験がない男は男性として未成熟、という考えは真実か、あるいは偏見か。
ジョージ氏の「モテ論」
X上で最近大バズりしているのが以下の動画です。
この動画の男性はどうやら「モテ」などに言及するいわゆる「男磨き」を奨励する動画で収益を上げているYoutuberのようです。
主な主張としては以下のようなものです。
スポーツや部活経験がない男、ゲームオタク、競走に身を置いたことがないは男は男性として未成熟
挫折経験のない男はメンタル面が弱くてモテない
モテるかどうかは主観的な要素も強いため判断が難しいのですが、部活動やスポーツ経験の乏しい人間を人間的欠陥、体育会系の文化に肌の合わない人間を社会不適合者として扱っていたのは近年まで続く慣習であり、こうした考えを根底に持つ人は日本社会に少なくないように思います。
部活動でスポーツに明け暮れ、理不尽にYES以外の返事をしない、アルハラ、パワハラが常習化している文化圏はいまだに存在すると聞きます。
懐かしい昭和的価値観
彼の言う「モテ論」、「男性観」は決して全否定できるものではありません。
たしかに、いわゆる昭和的価値観においてはそうした体育会系の部活動出身者が社会で幅を利かせてきましたし、彼らが日本をけん引する人材としての機能していたのも事実です。
この傾向は中小の営業職などはもちろんのこと、大手の商社などのインテリ層にも当てはまる傾向でしょう。
しかし社会の枠組みが大きく変化する中で、そうしたパワハラ気質がどこまで求められる要素となり得るでしょうか。
そもそもそうしたパワハラに適応した人たちは生存者バイアスがかかった判断をしがちであり、自身が経験したパワハラに対して「自分を成長させてくれた」といった美談に見なしがちです。
その結果、彼ら自身もまたパワハラの行使者として拡大再生産を行うでしょう。その帰結が近年頻発している、コンプライアンスの欠如な事案、例えばお笑い芸人の上納システムなどにも繋がっているのではないでしょうか。
スポーツ、部活動の適応者が社会の適応者とリンクしているか
さらに疑問に感じるのが果たして本当に部活動やスポーツで理不尽に耐える適性が社会におけるプレッシャーにも適用できるのか、ということです。
職場でのストレスで精神疾患にかかるかかる人はスポーツ経験のない人でしょうか。あるいは逆にスポーツ経験のない人は精神疾患とは無縁でしょうか。
例えば学校において、学校の教員のほとんどは部活動経験者であり、どちらかと言えばそうした理不尽や部活動文化のパワハラに対して適応してきた人たちです。
しかし実際には教員の精神疾患は増加傾向にあります。
20代の若い人はともかく、4、50代の教員にも精神疾患は少なくありませんし、彼らは学生時代に体育会に所属した経験が多いでしょう。理不尽な「しごき」に耐えた人は少なくないはずです。
私の個人的経験で見ても、その相関性は低く、まして因果関係が見られるとは到底思えません。
部活動顧問でスポーツで鍛えられた教員が精神を病み、現場を離れたケースをいくつも見てきました。また、肝心な場所で逃げ腰、弱腰になる体育会系の人物に関してもいくつもの実例を挙げることができます。
適性や相性、運
結局のところ、こうした問題に関しては業務や業界の慣行、常識と個人の適性や相性、そして何よりも運がその適応において大きな要素を占めるのではないかと思います。
ある業界で適応力のある人間が、まったく別の業種、業界と異なる価値観や慣行の中で上手く適応できるかは本人の柔軟性や運の要素が強いでしょう。
例えば、男性社会の体育会系の世界で育った人間がいたとして、彼が看護師や保育士などの女性が多数を占める業界の適性を同時に持っているとは私には到底思えないのです。
(加えて言えば、そうした業界にいる男性は気遣いができる人が多く、いわゆる「モテる」男性が少なくないように感じます)
今回のジョージなる男性の動画における「モテ論」も、マッチョな文化に慣れ親しんだ男性が、たまたまマッチョ気質な業界に入った結果、適応が上手くいったという成功例をあたかも普遍の方程式のように喧伝しているだけなのではないでしょうか。
もちろん、スポーツは健康維持のために重要ですし、運動をすることはQOLを高める上で必須であることは否定しません。
理不尽やストレスへの耐性を身につけることもある程度は必要な社会的スキルでしょう。
しかし、極端なマッチョイズム礼賛と、そこに適応性の低い男性を貶す行為には違和感を抱かずにはいられないのです。
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