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【題未定】「学歴ロンダリング」という言葉に潜む偏差値教育の爪痕【エッセイ】

 学歴ロンダリングという言葉がある。入試難度の低い大学を卒業し、学部入試では入ることが難しい難関大学の大学院で学位を取得することを批判めいて使う言葉だ。

 ロンダリングという言葉は「洗濯」という意味だが、昨今はマネーロンダリング(資金洗浄)などの用語に使われマイナスの意味を帯びている。この学歴ロンダリングという言葉も過去を洗い流すという意味を込めた侮蔑的表現ということになるだろう。

 ここ最近この言葉が話題になったのは、とある大学教員のSNS上の呟きが原因だ。彼女は講師をしている大学の学生の英語の課題(録音データ)をバイリンガルの実子に聞かせて笑いものにしたというポストを行った。この件自体は守秘義務違反であり、当該教員は批判を受けても仕方がないだろう。しかるべき処分を受けるべきは言うまでもない。

 ところがこの件が別の視点から問題となった。どうやらこの教員はいわゆる中堅レベルの大学を卒業し、その後東京大学で博士号を取得したということらしい。そのためネット上の偏差値至上主義者はこぞって「学歴ロンダリング」こそがこのトラブルを起こすような知性の不足を物語っている、という批判をしているようだ。

 それに対し現場研究者などからは反論の声も出ている。大学院で別の大学へ行くことは決しておかしなことではないし、大学院の入試を受験、合格し、しかも学位を得ているわけで十分な能力は示している。そもそも学士しか持たない東大卒よりも、無名大学でも博士を取得した人の方が評価を受けるのは当然だ、というものだ。

 この問題を考える上で重要なのは、「学歴ロンダリング」という言葉を口にする人たちは、どうして大学院で偏差値上位大学へ移ることを忌避するのか、ということだ。

 彼らは大学の入学試験という形式に非常にこだわりが強い。それは自身が受けてきた教育の成果もあるだろう。また、これまでかけたコストも関係するかもしれない。いずれにしても彼らは大学が研究機関であり、学位を認定するという機能よりも、入学試験そのものに価値を見出しているということだ。

 そのため、難関大学に入学するほどの学習を行った、その問題を理解し解答することができる能力こそが人間を測る指標として正確であり、大学院の入試などは専門と英語の試験で誤魔化せる偽りの学力である、という主張なのである。

 こうした人たちの批判の源泉は大学院の入試が学部の入試よりも簡単だ、というところにある。彼らからすれば大学院を移る選択肢は、安易に大学名を手にする卑怯な手段に見えるのだろう。

 では実際に大学院入試は大学入試と比べて難度が低いのか、ということだ。ここに関しては安直に簡単であるとまでは言えないが、入りやすいとは言えるだろう。出題される問題自体は遥かに高度ではあるが、専攻している分野であればしっかりと対策をすれば十分に対応できる。語学にしても、論文を読み解く能力を聞かれる意味では大学入試の英語よりも解きやすいと感じる人は多いのではないだろうか。

 また、受験回数も複数存在する。加えて国立大学の入試日程とは異なり大学院の場合は複数を併願することも可能だ。少なくとも一発勝負の大学入試と比べればいわゆる上位大学への切符を手にする可能性は高い。さらに旧帝国大学などの大学院大学では大学院生が不足しているケースも少なくない。学問領域によってはかなり入りやすいこともあるという。

 以上のことから、確かに大学院は大学入試で挫折した人が、その大学名を履歴書に書き加えるための大きなチャンスとなることは事実である。しかし、その考えこそが偏差値至上主義者の視野狭窄を如実に示しているのだ。

 大学院は学位を取得する場所である。修士であればきちんと論文を出せれば十中八九学位を取得できる。とはいえ、そこに至るまでには相当の苦労や学習を必要とする。担当教員からの厳しい指導もあるだろう。それを乗り越えてようやく学位取得に至るのだ。博士の場合はそれをはるかに上回る努力が必要だという。門外漢の私がそれを示すことは難しいが、理系でも博士に相応しい研究や論文が出せなければ取得は出来ないし、文系に至っては単位取得退学というケースも少なくない。

 つまり大学院は中でどんな研究をし、論文を書き、どうやって学位を取得したかが重要なのだ。ところが偏差値至上主義者たちは入試のことしか頭にない。彼らは入る時点での能力測定の結果を重要視し、それを大学の価値だとしているのだ。大学名はトロフィーであり、それを受け取る資格があるのは入試を突破した自分たちだ、という自負である。その認識のギャップが論争になっているということなのだろう。

 個人的には偏差値至上主義者の語る入試難度による序列で大学名をトロフィー化することに価値があるとは到底思えない。実際、それは受験勉強が得意なだけであって、大学入学以降のその人の研究実績や積み重ねた経験をスポイルする考えだからだ。

 一方で学位は単なる資格ではない。長期間にわたる研究や学習を通して得られた専門知識や問題解決能力を証明するものだ。特に高度な専門知識が求められる現代社会において、学位は個人の能力を客観的に評価する上で重要な指標である。

 とはいえ、今後しばらくはそうした価値観が残り続けるだろうこともまた事実だ。偏差値という指標はあまりにもわかりやすく、そして明解に序列決めをしてくれるシステムだからだ。自身の有能さを主張するのにこれほど便利な指標は存在しないだろう。少なくともこの上位に占める人間にとって、相手と自分を区別する(あるいは差別する)ためのシステムとしては極めて機能的であろう。

 おそらくこの状況は10年は続くだろう。しかし、昨今の学校現場においては必ずしも偏差値だけで大学を選ぶわけではない流れも同時に訪れつつある。偏差値的な見方が薄れ、20年後にはそうした価値観が過去の遺物となることを切に願うのみである。

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