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【題未定】五輪と能登半島地震:皆で不幸にならないと気が済まない人たち【エッセイ】

 災害大国、わが国の別称と言っても過言ではないほど、日本における自然災害は日常的なものである。少し前を考えても阪神淡路大震災、東北大震災。個人的に被災した熊本地震も記憶に新しいところだ。今年の年始には能登半島地震があったばかりだ。水害に至っては毎年のようにどこかの地域で甚大な被害が発生している。

 当然ながらそうした頻発する災害の全ての復旧がスムーズにいくことは少ない。能登半島地震に関してはいまだに避難している人もそれなりの数に上るという。現在も避難生活を続けている方にはかける言葉が見つからないのも事実だ。

 とはいえ、粛々と復興、復旧が進んでいるのは間違いない。能登半島においては現在も多くの工事関係者が汗を流しているという。自治体関係者などは目を回すほどの忙しさであろう。

 そうした状況に対して不満を持つ人がいるのもわかる。ところがその不満の持ち方があらぬ方向に富んでいく人がいるようだ。

 先日、X(旧Twitter)で復旧もままならないのに五輪の盛り上がりや総理の誕生日祝う書き込みに現政権は国民を見捨てて政治を弄んでいるという旨の書き込みを見かけた。もちろんそう思うことは自由だが、そのことに関して考えるものがあった。

 まず忘れてはならないのは、そもそも災害復興に対する主体者は自治体である。もちろん国の役割や責任は存在するが、あくまでも自治体主導で行うものである。したがって五輪への参加とは全く異なる次元である上に、そもそも自国開催でもない五輪であり、それが原因で復旧に遅れが生じているわけでもない。

 また総理の誕生日を祝うことは政治活動や国家事業ではなく、単純にSNSで一定数の人たちが盛り上がっているに過ぎない。これに対して政府に対して被災者の気持ちに配慮しろ主張するのはあまりにも筋違いであろう。

 どうやら世の中には自身や身の回りの不幸に対して、社会の大多数が悲しみや苦しみを共感し、同じように不幸になってほしいと願う人がいるようだ。確かに小集団においてそうした感覚を持つ人が存在することは想像に難くない。しかし日本は人口1億を超える、世界でも11番目に多い人口を抱える巨大国家である。そうした小さなコミュニティの感覚を拡大適用させることは土台不可能なのだ。

 確かに被災者は不幸であり、支援を必要とする人が存在するのは事実だ。しかしその支援は十分ではないにしても、行政システムが機能して対応しているのも事実だ。仮にその不十分さを不満に思うのならば、自身がボランティアで参加すればよいだけであり、国民の大多数に共感と直接的な協力を求めるような類のものではない。加えて災害復旧には時間が必要であり、復旧計画から実際の土木工事まで一朝一夕でできるものではない。

 補足しておくと、私自身は五輪にも総理の誕生日にも興味はないし、五輪も誕生日の情報も必要とはしていない。しかし、被災者をダシにして自身の政治的信条を押し付ける人に嫌悪感を抱くだけなのだ。

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