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「教員をけがをさせた疑いの中2男子生徒を逮捕」という当たり前が報道される社会
先日、教員を蹴るなどしてけがをさせた疑いで中学生が逮捕された事件が報道されていました。
警察によりますと、男子生徒は、5日午前9時半ごろ、校内で男性教員(37)の頭をタブレットで殴ったり下半身を足蹴りしたほか、男性教員(40)の腹や足を複数回足蹴りし、2人にけがをさせた疑いがもたれています。
男子生徒はタブレットで頭を叩いたことは認めていますが、蹴ったことなどは認めていないようですので、今後の捜査によって明らかになるのでしょう。(タブレット頭を叩くだけでもかなり悪質だとは思いますが)
警察の介入を拒絶してきた教育現場
これまで、学校は警察の介入を拒絶してきました。
これには複数の理由が考えられます。
教員の権威で秩序が保たれていた
学校が警察に準ずる権限を不文律的に持っていた
学校教員や組合が警察と思想的に対立していた
しかし、こうしたかつての慣習的なもののほとんどが現在は失われました。
1.教員の権威で秩序が保たれていた
かつては教員という存在自体が、周囲や地域から尊敬される存在でした。
戦後の学制となっても、大学進学率は決して高くはない状況において大卒教員はそれだけで村の賢者だったと言えます。
そのため、「先生」は権威の象徴でもあり、その存在や言葉だけで学校内の秩序が保たれてきました。
こうした前提が崩れたのは、1980年代になってからの比較的都市部においてです。
大卒者も増え、村の賢者から教育公務員へと役割を変えたことで、権威は失われていきました。
2.学校が警察の準ずる権限を不文律的に持っていた
そうした荒れた時代においても、警察の直接的な学校への介入はそれほど行われていなかったように思います。
その代わり、警察と深い関係を持つ教員などが学校内に存在し、生徒に威圧感を与え、場合によっては警察的な役割を果たしていたようです。
また、「体罰」と称する暴力が行われても、それが正当化される時代が続いていました。
それに加えて担任の教員や生徒指導担当者が身元引受人になるなど、現在では考えられないような脱法的なことが行われていました。
2000年代以降、コンプライアンスの遵守が重視されるようになって、こうした取り扱いの多くが禁止されるようになりました。
3.学校教員や組合が警察と思想的に対立していた
そうした実務的な理由に加えて、警察に対する思想的な対立が教員文化にはあったようです。
旧社会党と関係の深い日教組や、共産党系の全教祖など、教職員組合の加入率も高く、警察権力への忌避感も強かったようです。
事実、警察官や自衛官への職業差別やその子供へのいじめを行う教員も少なくなかったようです。
佐々淳行は自著や産経新聞において、日教組組合員の教師が、警察官と自衛官の子供を立たせて「この子達の親は悪人です!」と吊し上げた事を記している。佐々は激怒してその教師を家庭訪問させたが、教師は反省の弁を述べるでもなく、自民党や自衛隊、警察を非難するばかりであった。業を煮やした佐々が、教育委員会に訴え出て免職させると言うと、教師は一転して土下座して謝罪し始め、「みんな日教組の指示によるもの」と述べたという。
【正論】初代内閣安全保障室長・佐々淳行 日教組よ、まず「自己批判」せよ”. 産経新聞.
(2008年10月21日)
しかし、現在に至るまで教職員組合への加入率は低下し続け、令和2年の組合加入率は31.4%、日教組のみの加入率は21.3%となっています。
思想性の強い加入者はこの中のさらに一部であり、もはや警察に反発する勢力はほとんどいないでしょう。
警察が介入することを報道するという異常性
こうした警察介入の流れ自体には好意的に見ていますが、これを報道するという現状は憂慮すべきです。
そもそも暴力事件を起こした人間は警察に通報され、逮捕されてしかるべきです。
これまでそうしたことをしてこなかったのが異常なのです。
「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになる」とはよく使われる表現ですが、今回のような事件が報道をされないような文化を作っていくことが重要なのではないでしょうか。