「とりあえず大学に進学する」という選択肢はあながち間違いではない
進路指導を行う上での基本は志望動機をしっかりと持たせる事です。
何を学びたいか、何になりたいか、あるいはどの様な生活環境を望むかといったことをきちんと調べ、比較し、検討した上で進路を決定する事が理想的な進路選択でしょう。
絵に描いた餅
こうした進路選択は理想を言えばの話です。
都会に生まれ、生活圏に多種多様な職業やライフスタイルが視界に入ってくるのであれば、そこから選ぶ事は難しくないでしょう。
ところが田舎に生まれた場合はインテリ的な職業は非常に少なく、親戚縁者の仕事も限られています。
また、都会ほどライフスタイルに幅が広いわけではないため、医師や公務員といった特定の職業に希望が集中する事が多いようです。
そのため日本全国津々浦々の学校に同じ進路指導を行う事は難しいのが現実なのです。
「とりあえず大学に進学する」のは間違いか?
これまで、多くの進学校では「とりあえず大学に進学する」という指導をすることは決して褒められるべきものではありませんでした。
また、そうした態度の生徒に対しては教育的指導を行い、考え方を変えさせる、説得するような行動がとられてきたのではないでしょうか。
確かに何も考えずに大学に進学するという選択肢を選ぶよりは、熟考した結果その道へ進んだ方が納得感があり、後悔も少ないはずです。
しかし、大学進学率が5割を超え6割に迫る現代においてそうした原理主義的な考え方でよいのでしょうか。
偏差値上位の大学に関しては難化が続いていますが、現実問題としては誰もが望めば高等教育機関に滑り込める時代になっています。
また、就職先となる企業もその比率に沿って高卒枠を減らし、それほど大きな理由も無く大卒限定の採用活動を行っています。
そんな時代において、果たして大学に進学するという選択肢自体を熟考する必要があるのでしょうか。
もちろん、何を学ぶか、どのようなスキル、能力、専門知識を身に着けたいかと考えることは重要ですし、のちの成長度合いに大きく影響するでしょう。
しかし、大学に行くという選択肢自体は現代において専門系の学科に進んだ高校生以外の場合、進路選択の前提条件にしてもよいのではないかと思うのです。
大卒者のいない田舎の現状
私の住む九州では、親世代の大卒率はそれほど高くありません。
そのため、大学進学という選択肢自体を三者面談の議論の内容に含めると往々にして「大学に行く必要があるか」という根源的な問題に突き当たることになります。
そして大学に行っていない親世代の多くは、自分が大卒者と比肩し得る仕事をしているというプライドを持っています。
(それ自体は決して悪いことではありません。その方々の努力の成果でしょう)
また職場内や親類縁者の大卒者の無能ぶりなどが話のネタになり、結果的に大学進学そのものを見直すこととなるケースは少なくありません。
しかし、現代の子供世代の多くは大卒前提で採用を行う企業が多く、場合によっては高卒枠を作っていないこともあるのです。
ところが、大卒者の少ない田舎においてはそうした時代の空気感を感じにくい傾向があります。両親、親戚縁者などがほとんどの知人が大学と縁のない暮らしをする
そうした地域に住む生徒にとって大学進学という方向、姿勢を前提条件を認めるかどうかは進路の決定の結果を大きく左右します。
大学でいかに学ぶか、学ぶ人間を送り出すか
「日本の大学は入りにくく出やすい」と言っていた時代があります。
バブル期からのマスプロ化した大学がエリート養成機関としてのそれまでの指導方針を変更できなかったために起こったミスマッチが原因なのでしょう。
しかしそれも今は昔、個別の学生管理が技術的に可能となった現代においてはそうした状況は変化しつつあるようです。
少し前に書いた記事の内容に重なりますが、現代の大学生はそれなりに勉強しています。
大学に行くことで深く思考したり、文献を調べて比較検討したり、主観的でない思考を行う機会を得たりしている、ということです。
そうであれば、むしろ無目的にでも大学に行き、そこで知的思考のひな型を身に着けるという体験を行うことは決して間違いではないとも思うのです。
逆に言えば、高校までのカリキュラムの中で大学生になるための準備をいかに指導の内容に落とし込むかがかつてより問われているのかもしれません。