![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/161576762/rectangle_large_type_2_3a5048710122d43cec3bc80e0dae7f29.jpeg?width=1200)
横手阿蘇神社を巡る郷土史散歩―伝説とともに
横手阿蘇神社
先日、朝の散歩を利用して「横手阿蘇神社」なる神社へ参拝に出向いたので、そこで見たものや横手の五郎に関わる話をまとめたいと思います。
横手阿蘇神社は熊本市西区横手に所在する神社で、主祭神は健磐龍命、この神は阿蘇大神とも言われ、神武天皇の孫ともされる神です。
立地としては熊本城の西側、花岡山の北側に位置しており、熊本城から徒歩30分ほどの場所にあります。
![](https://assets.st-note.com/img/1731239750-oY4vwzJuljOnWyXDRQETAVh7.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1731239750-XwpKu2yYIE6eLFHvG83mCoDj.jpg?width=1200)
北岡神社の境外摂社でもあり、この神社の境内社として横手五郎の像を安置するお堂が隣接されていて、別横手五郎大明神として祭られています。
横手五郎とは
この境内社に祭られている横手五郎とは何者でしょうか。おそらく熊本出身の方はご存じだと思うのですが、熊本城の首掛け石を運んだとされる怪力の持ち主のことです。
横手五郎
熊本城の築城する工事人夫。肥後の猛将・木山弾正の遺児である。肥後国に七十五人力と認められる怪力無双・大巨漢の若者で『横手の五郎』と呼ばれていた。幼少時、九州一の力自慢という暴れ者を投げ飛ばしたという説があり、1800kgの首掛け石(凹型)を花岡山から熊本城に運んだと伝えられている。また、20tの巨石を猫伏で背負って運んだとの逸話が残っている。スクワット世界記録(475kg)の40倍になる。
所謂英雄譚の一つのため、さすがに1800kgを担いだというには無理がありそうですが、かなりの怪力であったのは間違いないようです。
![](https://assets.st-note.com/img/1731239750-PvbuzsmE1f2jTHk8awDKOlBg.jpg?width=1200)
五郎の首掛石
勇将木山弾正の遺子と伝えられる横手五郎は、今の熊本市横手町に育ったので、その名がついたと云われる。父弾正は、天正十七年(一五八九年)の天草一揆のとき、志岐麟仙に味方して仏木坂で加藤清正に一騎打ちをいどみ武運つたなく戦死した。そこで五郎は成人ののち清正を仇と狙い、築城人夫に身をやつして、いつかは父の恨みを晴らそうと考えていた。ところがその間に彼の素性は見破られ、井戸掘りをしているとき生埋めにされたという。
この神社の近隣には五郎ヶ池などの地名だけでなく、公民館にも横手五郎公民館といった名称がつけられるなど、地元住民からは長く慕われる存在だったようです。
![](https://assets.st-note.com/img/1731239750-SyBL16Z9WhAlk80UEHbGKzPt.jpg?width=1200)
名前が残る、祭られている
名前が残る、祭られているということは名前を残さなければならない、祭らなければならないという理由が存在する、とも読むことができます。横手五郎の場合、井戸に生き埋めにしたという殺し方からも怨霊として祭る要素は高いようです。
また横手五郎の父、木山弾正と加藤清正の一騎打ちには曰くが多いともされています。
一騎討ちの経緯はいくつか説がある。正親は清正を組み敷き首級を挙げんというところまで追い詰めたものの、主君危うしと駆けつけた正親の家来に「下か上か」と訪ねられ、どもり癖のあった正親より先に清正が「下だ!」と叫んだために、誤って家臣の槍にかかり死亡したという説と、清正が「太刀で戦おう」と槍を捨て正親に呼びかけ、決闘に応じた正親が弓を置くと、清正はすかさず槍を拾い、正親を討ち取ったという説がある。
加えて横手五郎の母、お京も男装して臨んだ敵討ちに失敗し殺されたとありますので、そのあたりも祭られる理由となっているのかもしれません。
郷土史の面白さ
最近、寺社仏閣巡りに嵌っていますが、これを通して気づいたのは郷土史の面白さです。それまでは郷土史のような歴史の中でもマイナーな部類に入るものに興味を抱く意味が分かりませんでした。
しかし実際に史跡をめぐり、その案内板を読み、場合によっては文献を探すだけでもこれまで住んでいた地域の異なる側面が見えてきて、感動を覚えています。
以前は郷土史を研究する高齢者は何が楽しいのか疑問だったのですが、彼らが何を楽しんでいるのかが少しずつ分かるようになってきたように感じます。
幸か不幸か、私の住む熊本市はそこまで歴史深い史跡や寺社は多くありません。しかし逆に身近な歴史や伝承に目が向きやすく、そうした歴史学の傍流、光があまりあたっていない分野も消して少なくないようです。
ひとまずはこの郷土史の楽しみを深めていきたいと思います。