「知識の詰め込み」だけでは意味はないが、「詰め込んだ知識を使えない」のは本人の責任
「主体的・対話的で深い学び」が新指導要領の目標とされ、詰め込み教育への批判と反省があらゆる場所でなされています。
詰め込み教育の功罪
かつての詰め込み教育に関しては肯定的な意見もありますし、批判的な意見も目立ちます。
私個人の考えとしては、かつての時代背景においては決して間違いではなかった、という評価をしています。
右肩上がりの経済、人口が増加し内需も増え続け、護送船団方式や終身雇用、年功序列賃金制という安定成長の中では知識を詰め込む訓練を課すことそのものに意味がありました。
詰め込んだ知識を使うことに価値はそれほどなくとも、各々の職場において仕事の内容とやり方、作法を同じように詰め込む土台となり得たからです。
そうした観点から考えると、詰め込み教育は時代背景を踏まえれば極めて妥当な手法であったといえるのではないでしょうか。
グローバル化の中での詰め込み教育の価値の低下
冷戦が終わり、グローバル化し多様な人との取引が増え、また技術の進歩により知識へのアクセスは容易になり、単純な作業を代替可能になりました。
その結果、詰め込み教育の価値は相対的に低下し、いまだに機械では難しい発想や自発的な行動力や、視点の切り替えなどが求められる能力の主流になりました。
その結果、「知識の詰め込み」という手法に批判が集まりました。それ自体は自然な流れです。
しかし、ここでその尻馬に乗った人たちが「知識の詰め込み」で自分は役に立たなかった、という主張をし始めたのです。
「詰め込んだ知識を使えない」人は思考力重視型でも評価を受けない
前提から考えるに、「詰め込んだ知識を使えない」と主張する人たちの多くは、そもそも「知識を詰め込んですらいない」ということです。
よく言うのが、2次方程式の解の公式を覚えましたが全く役に立たない、ということがあげられます。
あれをきちんと覚えるということは以下のことを覚えるということです。
2次方程式の解を因数分解無しに強制的に求める手法であること
2次関数とx軸の共有点は2次方程式の解と対応していること
2次式は物体の運動、軌道や懐中電灯やパラボラに応用されていること
幾何学的な比の問題を代数的に求める基本的な手法の一つであること
彼らにこのような事をきちんと覚えているか尋ねても「聞いていない」、「習っていない」という言葉が返ってきます。
しかし、彼らの使用した教科書にはそうした内容がきちんと説明されているのです。
文脈もなく、意味もなく2次方程式の解の公式や1192作ろうを覚えさせたりすることはほとんどなく、彼らがそうした学びの機会や意味づけを自ら捨て去って、単純な暗記作業に特化したために意味がなくなっているのです。
つまり、真に覚える必要のあることを覚えずに、表層をなぞっただけで「覚えた」と錯覚しているだけのです。
もし仮にそうした人が思考力重視の試験や課題を出されても、決して良好な評価を受けることはないでしょう。
「詰め込んだ知識を使えない」のは自己責任
教育が詰め込み型から「主体的・対話的な深い学び」をスローガンとした思考型への転換をすること自体は否定をしません。
むしろ、歓迎していますし、時代に沿った変化(むしろ遅すぎる)であると感じています。
しかし、かつての教育を受けた人たちの中にいる他責的に「詰め込んだ知識を使えない」と批判する人たちは、その知識の使い道や使い方を考えることをやめたことに自省をする必要があるのではないでしょうか。
(使い方を習わなかったという文句が出そうではありますが)