指定学用品を市場価格よりも高い理由は「癒着」ではないことを解説
入学時期が近づくこの時期は、学用品を買いそろえる人も多いでしょう。
それらを買いそろえると軽く10万円を超えるなんてことは当たり前にあるでしょう。
そして、よく見かけるのが上のツイートのようなコメントです。調べると癒着を疑う内容をつぶやく人は相当数に上ります。
どうやら市場価格よりも高い用品が業者と癒着していることが理由だと考えている人は少なくないようです。
今回はそうした学用品が決して癒着によって高価なわけではないことを解説したいと思います。
小ロットで大量生産によるコストダウンが効きにくい
学用品の多くは年間で常に需要が見込まれるものではありません。
例えばこの時期のような入学シーズンは需要がありますが、それ以外の時期はほとんど需要がありません。
しかも、需要数も入学者の予定がある程度決まっている以上、極端に需要が増加することはありません。
さらに、少子化によって子供自体の数も減っています。
また、制服や体操服の場合、同じ形のモデルを一つの学校分で準備する必要があり、大量生産で同じモデルを製造することが難しくなっています。
基本のつくりは同じでも、校章やネームなどを入れる必要があり、手直しが必要にもなってきます。
また、サイズ展開もSMLの三種類というわけにはいかないこと、在庫を抱えた場合、管理費用が掛かるため時期限定での規定数の製造となることからも、小ロット生産となりコストダウンが難しくなっています。
市販品が安くなり過ぎた
上記のようなコストダウンが効きにくいという絶対的な理由だけでなく、相対的な原因が存在します。
それは私たちの周囲にあふれる服飾品や雑貨他の価格がこの30年ほどで格段に安くなったのです。
私が小学生のころはシャツやセーターが一枚5000円というのはそれほど目くじら立てる価格ではなかったように思います。
しかし、ファストファッションが普及した20年ほど前から状況が変化しました。
現在において、デザインや材質的に凝ったものでなければ1000~2000円でもそれなりのものが、3000円も出せば品質的には決して悪くないものが手に入ります。
絵具や習字道具などの場合、100均や300円ショップでも粗悪品が手に入ります。(学校購入品はそれらよりもはるかに高品質で小学生男子の長期間の使用に耐えうるものです。)
つまり、学用品が高くなったのではなく、市販品の価格が下がった結果、相対的に高く見えるようになったと言えます。
大量生産によるコストダウンが効いた市販品に対し、指定学用品はその恩恵を受けられなかった差が、この数十年で大きく開いたということでしょう。
指定業者も学校も「癒着」をするほどのうまみがない
ここまで書けばわかるように、商品自体や製造業者のメリットは少ないことは明らかです。
では多くの人が考える販売業者と学校が癒着している、という内容はどうでしょうか。
まず、販売業者の多くは零細小規模企業であり、学校によっては個人商店であることも少なくありません。
こうした業者が学校からの注文で生計を立てていること自体は間違いありませんが、学用品などのサイズをそれぞれ別に揃えたり管理するコストを考えるとそれほどうまみのある商売ではありません。
仮にうまみがあれば、大手がこぞって参入するはずです。
実際には昔からの馴染みで続けている業者がほとんどで、そうした業者はサービスで学校への配達などにも対応してくれるため、生徒側も注文したものを学校や学校のすぐ近くで受け取ることができます。
一方でこうした業者が撤退、廃業したケースの場合、大手の取扱業者やショッピングモールや服飾店が引き継ぐ場合があります。
その場合、購入から採寸までを業者の店舗で、しかも予約をする形で行う必要があり、消費者側の手間も増えることがあるようです。
言うまでもないことですが、学校側も裏金やバックマージンを貰うことはありません。さらに指定を行うことで担当者は物品リストの管理や生徒保護者への通知など業務が増えるだけです。
はっきり言ってしまえば、うまみのある人は誰もいないのが実際のところでしょう。
学用品を指定することを議論すべき
学用品が高価な理由は「癒着」ではなく、製造や流通に関わる仕組みであり、現行の学用品の購入制度を変えない限りは消費者の負担を下げることは難しいでしょう。
かつては学用品のようなものを購入する場所が限られ、それを探して、買いに行く手間を考えると学校一括購入が便利であったようです。
また、学校側も指定用品を決めておくことで一律の指示や指導が行いやすかったこともあるでしょう。
しかし、ネットなどで個人の必要な品質やコストに合わせて様々なものを購入できる時代となった今、一律にすべてを購入することがベストなやり方とは言えないようにも思います。
制服なども含め、学用品の「指定」という制度を再考する時期に来ているのかもしれません。