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馬と牛の神話を巡る:横手天満宮と鹿子木寂心の物語

天神と天満宮

天神、天満宮は日本中のあちこちに存在する神社の一つで、それこそ先日noteに書いた梅林天満宮などは熊本県内では古くから存在する天満宮の一つです。

上の記事でも書きましたが、1万2000社を超える神社が天神、天満宮というそうなのでその数は相当な物でしょう。これはその数では3位となるそうです。ちなみに1位、2位は八幡宮、稲荷神社のようで諸説ありますがそれぞれ4万社、3万社と言われています。

八幡宮の祭神は応神天皇、神功皇后、比売神ひめがみ、稲荷神社は宇迦之御魂大神うかのみたまのおおかみ、どちらも神話時代からの神であるのに対し、天満宮の祭神、菅原道真公は実在の人物にも関わらずこれほどの信仰を集めているのは驚くべきことでしょう。

下馬神社、横手天満宮

さて、その数多い天満宮の一つでも個人的に面白いと感じるのが「下馬神社」です。「下馬神社」は馬の銅像が目印の神社で、敷地は狭く規模も小さい神社なのですが、境内には摂社、末社が複数存在する一風変わった神社です。横手天満宮とも呼ばれるそうです。

正面鳥居
熊本地震で倒壊した後、再建された

由来に関しては「神社人」のサイトに以下のようにあります。

当社の具体的な創建時期などは不明となるが、戦国時代の末に、肥前龍造寺の軍勢が高橋の城代城を急襲したとの報を受けた隈本城の城主である鹿子木寂心は、夜中に軍勢を率いてこの社の前を騎馬で通りかかろうとしたところ、急に馬が動かなくなったという。そこで、寂心は馬から下りてこの社に参拝したところ、馬は動くようになり、戦にも勝利を収めたことに因み、下馬神社と称するようになったという。そして、この伝えにならい、往古は、当社の前を通る際には、馬に降りて通ったと言われる。

神社人 下馬神社
案内板

これまた登場したのが「鹿子木寂心」です。肥後隈本城(のちの熊本城)の築城者で、名前の「寂心」は法号で、本来は「親員ちかかず」。肥後国飽田郡の荘園、「鹿子木荘」の地頭中原氏の子孫でもあり、藤崎八旛宮や大慈寺の修造を行ったとされています。

この「下馬神社」のエピソードはなかなか興味深い内容です。馬が動かなくなったから神社にお参りする、という行為に対して論理が全く繋がっていないためです。

これを深読みするならば「馬=身分の低い人の賤称」からの反発があったが、そこに何らかの貢献、寺社を建立するなどの対価を与えて協力を仰ぎ味方につけた、といったところでしょう。ちなみにこの話は菅原道真が太宰府へ下る際に牛に助けられた、というエピソードと同じ構成です。あれも「牛」と呼ばれる人、集団から命を救われた話です。

そうした理由からか、この「下馬神社」には天満宮にはつきものの牛の像ではなく、馬の像が置かれています。

馬の像
正面にある道真公を祭る拝殿
梅紋の垂れ幕が掛けられています

複数の摂末社

この神社には摂末社が複数存在します。狭い敷地の中にひしめき合うように並んでいるのが何とも不思議な光景です。

手前から淡島大明神、宮地嶽神社、本殿

祭神を祀る奥に見える本殿の千木は外削ぎで男神を祀る形式になっています。屋根の形式は流造、平入(屋根と水平に入口がある)となっています。

本殿

手前にあるのが淡島大明神です。祭神は国生みの時の2番目の子の淡島神でしょうか。詳細は不明でした。

淡島大明神

その横にあるのが宮地嶽神社。こちらは福津市の宮地嶽神社と同じならば祭神は息長足比売命、神功皇后となるのですがこちらも詳細は不明です。

宮地嶽神社

さらにその奥には別に鳥居が設置してあり、祖霊社が設けられています。

境内に鳥居
祖霊社
祖先の霊を祀る社
石碑
何が書いてあるか判別が難しい状態

規模は小さいが、一見の価値のある神社

この「下馬神社」は名だたる名社とは異なり、それほど広い敷地でも、歴史ある建造物があるわけでもありません。しかし、狭い敷地の中に所狭しと並べられた拝殿や摂末社の様子や躍動感のある馬像は一見の価値があると思います。

出雲大社や太宰府天満宮などの神社は敷地も広く、建物も立派で荘厳です。こうした名社は当然ながら遠出してでも行く価値はあります。しかし、この「下馬神社」のように身近な神社にも非常に面白い造りをした神社は数多くあります。これらを探し、巡るのもまた楽しいのが寺社巡りの面白さなのかもしれません。


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