「意見の批判」と「人格の否定」は別のもの
日本で働いていたとき、上司や先輩でこのように嘆く人がいた。
「あいつは俺の意見をいつも批判してくる。きっと俺のことが嫌いなんだ」
大企業でもベンチャー企業でもいたので、このように思う人は多いのだろう。しかし、私は意見の批判=人格の否定という方程式は成り立たないと思っている。
私のことが嫌いなのかな
例えば、Aさんという先輩は自分の意見をはっきりと言う人で、その意見はとても理論的で納得できるものが多かった。それと同時に、Aさんは人情に厚く、様々な人の立場を思いやることができた。彼は言い方が少しきついところもあり、度々課長と意見が衝突した。課長は、あまり弁が立つほうではないが、優しく思いやりがあり、自分よりも20歳以上年下の部下の意見だとしても、しっかりと素直に受け止めようとする人だった。ある日、課長はぼそっとこうつぶやいた。
「A君はいつも反対意見を言ってくるよね。私のことが嫌いなのかな」
一回ならば冗談で言っているのかな、と思うのだが、課長は何度も同じことをつぶやく。そこで私は、僭越ながら課長にこのように説明した。
「意見の批判」と「人格の否定」は分けて考える必要があります。Aさんとよくランチに行きますが、課長のこと嫌ってなんかいませんよ。Aさんが批判しているのは課長の意見に対してであって、課長の人格に対してではありません。課長のことが嫌いなんだったら、そもそも意見の批判すらしないです。議論をしようとするのは、もっと状況を良くしていきたいからですよ。
課長は本気で悩んでいたらしく、「え、そうなの?」と意外な顔をした。これまであまり部下に意見を否定されたこともなければ、上司の意見を批判したこともなかった40代後半の課長は、「なるほどねー」と納得したように何度も頷いた。
議論することに慣れていないことの弊害
私は日本で教育を受けてきたので、議論することを学校で習ったことはない。自分の意見を考えて言うことよりも、教科書の中の登場人物の気持ちを考えることに時間を割いてきた。そして他の人とは意見が衝突しないように、穏便にことを進めるのがよしとされてきた。だから、課長のように自分の「意見への批判」を「人格の否定」だと考える人がいても無理はないと思う。
ところで、私が議論することを身につけたのはすべて部活動中であった。チームをよりよくするために、勝てるようにするために、どんな練習をすれば良いか、どのメンバーをどのポジションに配置するか、メンバー外の選手のモチベーションを保つために何をするべきか、部費はどのように使うべきか、などなど。部活のメンバー全てが同じ意見になることはほぼありえない。時には指導教諭やOBとも意見が食い違ったりする。その解決のために意見の違う人と議論することは必要不可欠だった。自分の意見を理解してもらうために、どんなことを言えば分かってくれるのかを考える。その一方で、その方がいいと思えば、自分とは違う意見も受け入れる柔軟さが必要だ。目的は自分の意見を通すことではない。チームが勝つこと。それと同時にチームをよりよい状態にすること。目的が一緒であれば、自分の意見と違う人がいても話し合い、最適な方を選択できる。
もちろん最初は、自分の意見を批判されたり否定されたりすることに慣れておらず、「私は嫌われているのかな」と落ち込んだこともある。しかし、繰り返し議論をするなかで、「意見の批判」は「人格の否定」とは別、ということを学んだ。どんなに意見が違っても、チームメイトや関係者は皆、「チームをよくしていきたい、勝てるようにしたい」という同じ目標をもつ仲間だからである。
人格は好まないが、この意見には賛成
これまで「意見が違うからといって、その人のことを嫌いなわけではない」という話をしてきた。逆に、「その人のことがあまり好きではないが、その人のとある意見には賛成」という現象もありえる。
例えば、小島慶子さんという方がいる。ある討論番組で拝見し、私は個人的に「感情的で少し苦手だな」という印象を抱いていた。しかし、彼女のこの文章を読んで、「この意見、素敵だな」と思ったことがある。
私自身がアメリカに住む「移民」で、親類縁者がこちらにいないマイノリティだからかもしれない。英語も流暢ではない。私は時に文法がぐちゃぐちゃになっても、しっかり聞こうとしてくれるニューヨーカーに何度も助けられて来た。だから彼女の「受け入れられる側の視点」という発想には大いに共感できた。そのうえ、彼女が討論番組などで感情的になるのはもしかすると人よりとても繊細だからで、人前で話すよりも文章を書くほうが得意なのかもしれない、と想像できた(←個人的な妄想ですが)。このように、その人の人格があまり好きではなくても、その意見に同意したり良いと思ったりすることもある。人格を好まないからその人の意見は全て無視、というのは、もしかすると素晴らしい意見と出合う妨げになるかもしれない。
批判をするときもされたときも、気をつけたいこと
もちろん意見が違うことで「あいつとは相容れない、気に食わない」と人を嫌いになることもある。それまで「変なやつだ」と思っていたが、とある意見に感化され、その人のことが気に入ることもある。しかし、「意見の批判」と「人格の否定」は別のもの、ということは常に頭に置いておきたい。
例えば、人の意見を批判するとき。「こいつは気に食わないやつだから、言うこと全てに、とにかく反論してやろう」と思ってはいないか。本当に自分は相手の意見に対する反論を言っているのか。「意見の批判」と「人格の否定」を区別できなければ、自分の意見は論理性を失い、説得力に欠け、相手にも届かない。そもそも批判は議論をすることでもっと良い状況にしたいから行っているはずなのに、だ。
また一方で、批判をされたときにも「意見の批判」と「人格の否定」の区別は有効だ。自分のある意見に対して反論されたり批判されたりすると、人は時にショックを受ける。ショックを受ける人のほとんどは、人格を否定されたような気がするからかもしれない。そこで「この人は自分の意見を批判しているだけ、人格を否定されている訳ではない」と思うことは、冷静にその後の議論を進めていくために必要なことだ。人格を否定されたと感じると、人は感情的になり、論理性を失う。あくまでも、落ち着いて意見に対してのみ反論するようにしたい。
しかし、時には意味もなく人格を攻撃してくる人もいるだろう。その場合の判断は毅然とした態度で対応する、または相手にしない、などその人の判断に委ねられる。その前に一歩立ち止まり「意見の批判」と「人格の否定」の区別をすることで、相手の主張に対するこちらの対応を冷静に検討できる。
「意見の批判」と「人格の否定」は別のもの。この考えが浸透すれば、日本での色々なことがより建設的に議論され、更によりよいものやことが生まれるきっかけになると思う。
おまけ
「自分の意見を批判されること」や「違う意見を言って嫌われること」を恐れ、自分の思っていることが言えない人が日本には多いようだ。そもそも、空気を悪くしないように自分の意見や考えなど持たないようにしている人、もしくは自分の意見を言わないようにしている人もいるかもしれない。
自分はそうだな、と思う人は是非このポストを読んでみてほしい。2016年のものだが、今読んでも私にはとても納得できる意見で、とても面白かった。