マルセル・デュシャン&ピエール・カバンヌ 『デュシャンは語る』
『デュシャンは語る』
著者:マルセル・デュシャン&ピエール・カバンヌ
発行:ちくま学芸文庫 1999年
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968 年)
現代アートの父と呼ばれる人である。
1913年、ニューヨークのアーモリー・ショーに出品された『階段を降りる裸体』が話題騒然となったとき、人々はデュシャンについては何もわからなかった。1916年に便器をさかさまにして《泉》と名付け、R・ムットの署名をつけて出品したときも、だれもデュシャンを理解しなかった。
しかも、デュシャンは「私は何もしていない」と言いつづけた。デュシャンは「創造」という言葉を嫌っていた。最も美しいものは「運動」だとみなしていた。青年期に心を奪われたのは、ガス燈の光とジュール・ラフォルグの詩とアンリ・マティスと「四次元」である。
デュシャンは「大衆との交流」をバカにしていたし、それ以上に「芸術家との交流」をバカにしていた。デュシャンが好きなのは、細縞薔薇色のシャツとハバナの葉巻とチェスである。外出も嫌いだし、むろん美術館や展覧会にはほとんど出かけない。
デュシャンが重視していたのは、つねに「あらゆる外見から遠ざかっていたい」ということである。レディメイドについてさえ、デュシャンは外見の印象を拒否するもののみを選んでいる。デュシャンが嫌いなのは“網膜的な評判”にとらわれて社会が律せられていることなのである。絵画を捨てたのもそのせいだった。
さて、代表作(問題作)の泉について少し語りたいと思う。
デュシャンはリチャード・マット(Richard Mutt)という偽名の下、1917 年4 月の第1回ニューヨーク・アンデパンダン展に展示すべく、《泉》と題する作品を送付した。この作品は、市販の陶製男性用小便器に「R. Mutt 1917」と署名した「だけ」のものである。この署名の文字を上下逆さまとか横倒しでなく普通の向きで読むには、このオブジェを次のように置かなければならない。それが便器としてトイレに取り付けられるとしたら、壁に接するはずの面を、下に向ける。また、上に向いて水道管と接続するはずの丸い口を、正面に向ける。「R. Mutt 1917」という署名によってデュシャンは、展示される際にこのオブジェが置かれ、見られる向きを指定したと言える。しかし、アンデパンダン展の委員会は《泉》を展示しない決定を下した 。デュシャン自身、委員の一人だった。彼およびウォルター・アレンズバーグ(デュシャン作品のコレクターとして名を残す)はこの決定を不服として委員を辞任した 。
デュシャンのレディ・メイドである “便器” を提示された時、それまでの前衛芸術と全く異なった何の変哲もないオブジェを眼前にして、前衛芸術家達ですらその斬新さに殆ど気がつかずに無視し続けた。つまり、展示当時、ただのレディ・メイドの “便器” に、今までになかった芸術的価値を認める事は、誰にも出来なかったのである。レディ・メイドである既製の “便器” を見て、前例のない芸術価値に気付くのには、コペルニクス的転換を必要とした。
《泉》はいかなる意味を持つか。コペルニクス的転換はどこに私たちを導くのか。言い換えれば、わたしたちはこの作品をどう解釈すべきか。デュシャンは、《泉》にどんな意図をこめたのかについて、はっきりしたことは何も語っていない。関連するとみなし得るほとんど唯一の発言は、1966年のインタビューのうちにある。「あなたはスキャンダルを求めていたわけですから、満足なさったでしょう」という質問に対し、デュシャンは「実際、うまくいきました。その意味ではね」と答えている 。スキャンダルを引き起こすことは、《泉》を制作しこれを展示しようとしたことの意図の少なくとも一部を成すと受け取ってよい。
芸術評論家のダントーは《泉》について下記のように説明する。
つまり《泉》は、「芸術作品を芸術作品にしているものは、作品の美しい色や形である」といった伝統的な芸術観の破産を宣告しており、この作品を見る者に、「何が芸術作品を芸術作品にしているのかについて考えよ」と問いかけているのである。
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