【~連載~静岡の歴史を学ぼう126】Tokugawa Ieyasu's Openness for International Relations徳川家康の外交に積極的な姿勢
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江戸時代と言うと、鎖国政策を始めとする、国内に目を向けた時代を思い浮かべます。しかし家康公が将軍引退後、大御所として駿府で影響力を持っていた時代は、駿府が国際政治の舞台となっていました。
Tokugawa Ieyasu's Openness for International Relations
徳川家康の外交に積極的な姿勢
The Tokugawa shogunate is often thought to have avoided interaction with foreign countries.
徳川幕府は外国との交流を避けていたとよく考えられます。
The famous national policy (‘Sakoku’) was partially initiated by the second Shogun Hidetada and was fully implemented by the third shogun Iemitsu.
その有名な隔離政策(鎖国)は2代将軍秀忠によって部分的に始められ、3代将軍家光によって全面的に実行されました。
However, Lord Ieyasu was much interested in diplomacy and wanted to get profits through foreign trading.
しかし家康公は外交に大いに興味を持ち、外国貿易を通して利益を得たいと考えていました。
Lord Ieyasu had a sophisticated sense of diplomacy.
家康公には洗練された外交センスがありました。
Indeed, he appointed William Adams, an English sailor who voyaged to Japan, as a diplomatic adviser.
実際、家康公は日本に航海してきたイギリス人船員のウィリアム・アダムスを外交顧問として任命しました。
He was the first Englishman to come to Japan, so earned the moniker 'the first blue-eyed samirai'.
アダムスは日本に来た最初のイギリス人で、そのため「初めての青い目のサムライ」と称されました。
Lord Ieyasu thought highly of William Adams because the latter was very familiar with international affairs being an experienced sailor.
ウィリアム・アダムスは国際情勢を良く知る経験豊かな船員だったため、家康公は彼を重用しました。
It is said that he was the inspiration for ‘Gulliver's Travels’, a novel written by Jonathan Swift published in 1726.
アダムスは1726年出版のジョナサン・スウィフトが書いた「ガリバー旅行記」のモデルであると言われています。
Aside from the Portuguese and Spanish, Tokugawa Ieyasu could get more credible information on the world situation through Adams.
ポルトガル人やスペイン人でなく、徳川家康はアダムスを通してもっと信頼できる世界情勢の情報を得ることができました。
参考文献:「葵三代と静岡 ジパングの王様 徳川家康」
黒澤脩著 静岡新聞社
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