降りしきる雨、水気を含んだ空気、蛍光灯の照らす教室。 陽のささない、どんよりと曇った窓外の景色は白っぽい灰色で、本来ながれているはずの時間を読めなくしている。 雨は、きらいじゃない。 ::::::::::::::::: 私はうとうとしながら、意識の外側で先生が連絡事項を話すのを聞くともなく聞いていた。終礼中の、しんと静かでもったりと進む時間には、いつも眠気を誘われてしまう。終わると同時に椅子をひく音、友達を呼び合う声、鳴り響くチャイムと、一気に音が流れ込むその前の、ひ
前話 ↓ これまでの、結婚してからの出来事を思い出そうとすると、そのほとんどが浴室の鏡を覗くみたいにくすんでいて、上手く再生できない。それでも所々、妙にあざやかな記憶が差し挟まれていて、その部分だけを取り出してみると、不思議なことに、どれもが水にまつわる記憶なのだった。 朔が1歳の誕生日を迎えた辺りから、あの人は仕事が忙しいのか別の理由があるのか、家に帰ってこない日が多くなった。 最初はもちろんショックだったし、私も型通りに傷つき、悲しんでいたと思う。思う、などと他
「あー、お魚買ってくるの忘れた」 そう言ってわざとらしく肩を落とし、泣きそうな顔をする母を横目に、聞こえない程度のため息をつく。仕方なく、読んでいた参考書から顔を上げた。 「どうしても魚、食べたいの?」 「だって今晩のメインなのに。もうやだ」 メインなら、普通忘れないと思うけど。まあいい、こちらは慣れたものだ。 「わかった、買ってくる。すぐ帰るよ」 「うそ、なんて良い子なの」 こういう時は、まともに取り合うと面倒なので、さっさと立ち上がって財布を確認する。千
とんでもないという顔で、うなずくから、右も左もわからなくなる。「正解なのね」と言うと「間違いない、不正解」とのことでやはりちがうのだった。なんでだろう。表向きには心とこころのやりとり、夢と正夢、空と虹、蟻ときりぎりすのやりとりを繰りだしているその最中に、そのモナカに、甘ったるいあんこを絞りだすときがくるまで、冷蔵庫でねむらせてあげる。少しばかりかしいだ道路標識にもたれかかって、真夏みたいに気だるい顔をこちらに向ける、失礼極まりないその態度をなぜか許してしまう。こころの隙間が大
現実世界ではショートカットキーがきかないことを、ときどき忘れる。洗濯物を畳むときになんだか上手く畳めなくて、無意識に⌘Zをしようとして、あれっ?あ…できないや…となり、ひじょうに不便。当然コピペもできない。私をコピーして、キッチンとお部屋と洗面所にペースト、お料理しながらリモート会議に出席しつつ歯みがきしたい、歯みがき粉はtooth paste、ペーストつまりパスタ、そんなことはどうでもよいが、あぁ…不便だ。この世って不便。とくに巻き戻しがきかないのって、本当にあぶないです。
窓から顔をだすと、風、ふぁさーとなびく前髪、甘やかな匂い。何もない、あっという間の長い1日の終わりに。ひとりで、夕ごはんのあとで、すこしだけ風をすう。喫煙、いえ、喫風者が1名。すぎてゆく風の隙間に、電車は流れて星も流れて、いろいろな音たちが、遠くへ行ってしまう。それでも聴こえてくる、大きな交差点、明滅する信号、ふるえてる、誰かのつめたい洗濯物が、お家のなかに保護される音。遠ざかるサイレン、あれは私が搬送されてるんだ、この風のこと、しぬ間際に思い出してる。だから甘いね、ラムシロ
観光客でにぎわう露店街のなかに、そこだけ蜘蛛の子を散らしたように空白がとりまくお店がいつまでも私の目を惹くので、ある時とうとう、仕方なさと多少の怖れとともにその店を訪れた。光沢のある黒い布の敷かれた小卓の上には、塵ひとつない。占い師かと思えば、石も札もどこにもない。国籍の判別もつかぬその店の主の仄暗い肌に浮かんだ榛色の目の奥が、ただ静かにひかっている。 「一体なんの真似です。この店は看板も品物も、なんにもないで」 「ははは。貴方こそ何故、なにもない店なんかにお立ち寄り
最近、胃が痛い。でもお腹はすく。食べる。痛くなる。太田胃酸のむ。すっきりする。お腹すいてくる。食べる。痛くなる。食べない。お腹すく。食べる。痛
子どもの頃、近所に崩れかけの空き家があって、ユウレイが棲んでいた。僕とユウレイは陽が沈むと落ち合い、そこで遊んだ。ある夜、真っ白な稲妻が光って、ついに家は焼けてしまった。その翌朝は、陽が昇ってもお互いの姿が見えて、僕達は何も言わずに見つめ合った。僕は笑った。ユウレイは泣いていた。
土曜日の朝だった。階下に降りてリビングに入ると、もう夕方くらいの明るさで、時間の感覚がわからなくなった。階段を数段降りただけで、日が暮れてしまったような感じだった。父と姉がそわそわと窓の外を伺いながら、険しい顔つきで、ようやく起きてきた私の方を振り返る。母はこちらに背を向けて座り、何かを考えているようだったが、その表情は私には見えなかった。 「おはよ・・・う」 「いよいよ来たな」 「なにが」 「周りは殆ど、もうやられてる」 「やられてる?」 「宇宙光線だよ」 宇宙光線
「シスター、大変です! 人が倒れていて」 「今朝掃き集めた落ち葉の上に」 「裏庭に・・・? まあ、なんてこと」 「礼拝は後にして、救護を」 「息はしています」 「この辺りでは見ない顔立ちね」 「それにしても、どこから?」 * 海に来てしまう。望んだ訳でもない、来たくもなかったはずの海に。 普段、この海のことは殆ど思い出さないのに、来る度「ああ、また来てしまった」と思う。どうやって来たのか、どうやって戻ったのか、そうした記憶は綺麗に消されてしまっている。 *
夢をみた。 それはひどく白くて、どこまでも真っ直ぐで、つるりとしていた。凹凸はひとつもなかった。霜を孕んだつめたい強風が吹きつける度身を震わせながら、気温からすれば明らかに薄く頼りない衣服をきつく身体に巻きつけるようにして、果てしなく延びてゆくそれの先端を見定めようと首を仰け反らせた。それは空へ向かって永久に続いているようであったが、上部は霧に溶け込んで見えなくなっていた。一部の隙もない、完璧な佇まいだった。私は、この場所から逃げ出したかった。 * すべての景色は
♢♦︎ 細く開いた窓からの秋めいた風に、頬を撫でられる感触で目が醒めた。街路に面した窓から射す、街灯の明かりに照らされた真夜中の室内は薄ら青味を帯びて、壁付きキャビネットのガラス扉に映る雲の影が悠然と流れる。日中の気温が冷め切った部屋の空気を吸いこむと、鉢から庭土に植え替えたヘリオトロープがむんと香った。甘く濃い香りに頭も冴えて、半ば強制的に意識が研ぎ澄まされてゆく。枕元の時計を探ったら、シーツの自分の体温で温められていない部分に触れた指先がひやりと冷たかった。 あく
「いやあ、カルピスなんか、いつぶりに飲んだのでしょう。子どもの頃、それも小学生の時分には、夏が来ると厳粛な面持で台所に立って、そうそう、母親がすごく忙しいひとでね、よく弟の分も作ってあげてたもんです。でもこの歳になって、まさか自分一人のために、青い水玉のボトルを探して、嬉々としてとくとく、コップに注いだりなんかしちゃって。人生何があるか、わかりません。でもね、やっぱり夏なんです、カルピスは。あの白くて甘い液体を、いい感じに、自分がああこれなら、と思う程良い濃さが見つかるまで
真夜中に響く小さなアラーム。 かちりと止めて、眠たい瞼をこする。 タオルケットを折り畳み、爪先を伸ばしてフローリングにとん、と降り立った。そのまま音を立てないよう、階段にするするパジャマの裾を引きずって、暗い廊下を手探りでバスルームへと向かう。顔を洗って、どれよりも軽い服を選んで着て、髪を梳かして、お水を飲んだ。リュックを抱えて半分は眠りながら、もうすぐ迎えに来る君を待つ。 時計は2時を指していた。 消音にしたインターホンが、青い輪郭を朧に纏った亡霊みたいな
日記のようなものを公に向けて書くことに、躊躇いがある。そもそも私は日記を書く習慣を持たないので公も何もないのだけれど、私の中で日記とは「その日に体験した出来事の、書き留めておきたい何事かを記す私的文書」と認識されている。純粋に生活の一場面を書き連ねたり、忘れたくない気持ちをなぞり書きしたり、あくまで自分自身に向けて書くもので、他者の目を意識した途端に虚飾が生まれる気がする。エッセイは自己完結というより感性の共有や価値観の交換を楽しむ他者向けの媒体だけれど、日記となると本当の