先生の話
「いやあ、カルピスなんか、いつぶりに飲んだのでしょう。子どもの頃、それも小学生の時分には、夏が来ると厳粛な面持で台所に立って、そうそう、母親がすごく忙しいひとでね、よく弟の分も作ってあげてたもんです。でもこの歳になって、まさか自分一人のために、青い水玉のボトルを探して、嬉々としてとくとく、コップに注いだりなんかしちゃって。人生何があるか、わかりません。でもね、やっぱり夏なんです、カルピスは。あの白くて甘い液体を、いい感じに、自分がああこれなら、と思う程良い濃さが見つかるまで、ストローで混ぜて薄めて、氷を沢山入れて、ぐっと飲み干す。そうすると喉が、甘くて、冷たくて、なんとも言えないむず痒い感じになって、咳き込んでしまう。その一連の流れが、ひどく夏なのです。私にとっては。あの儀式で夏が始まり、飲み飽きる頃に、夏が終わるんです。何年経っても、それは変わらない。」
「とまあ、つまらない前置きはいいとして、先日、そのかき混ぜようとストローを差した段階で、「それ」は起きたんです。起きた、と言うとなんだか物々しい大事件みたいな感じがしてしまいますけど、全然違います。ごく自然な、ありふれた情景として「それ」は私の目に映りました。本当に穏やかで、驚くようなことなど何もないかのように、散歩の途中で偶然、お隣さんに出くわす時みたいに、私たちは目を合わせた。「それ」は始め、飲んだら喉を痛めそうなほど濃いカルピスの入ったコップの底の、ほんの少しの揺らぎでした。それからだんだん、水面が波立ちましてね、おや、黒っぽい影が、と思っていたら、プクプク泡が立って、ぱしゃっと顔を出したんです。泳ぎが板についていて、水滴を跳ね散らしたりせず、華麗な登場の仕方でしたね。イモリでした。くりくりとした瞳の、瑞々しく小さな、水の生き物。そして、言いました。私なんか、心臓が飛び出るかと思いましたよ。いや、「それ」の登場自体は、先程も言ったようにごく自然なことに思えたんです。でもその言葉に、もう、私は凍りついてしまいました。胸を、抉られるほどの衝撃だったのです。なんと言ったと思いますか、皆さん。あれです、あの台詞。皆さんの中にもきっとご存知の方がいるはず──
“ブルータス、お前もか”
はい、確かにそう言ったのです。私の目を、ぎっと見据えて、凄みのあるよく響く声で、明瞭に、落ち着いた低音で。日本語ではなかった。古めかしい言葉でしたが。そう言われて、私はしばらく「それ」から目が離せなくなり、その場に凍りついて、指一本動かせませんでした。そんなことを突然言われて驚いたからではなく、その目が、その声音が、籠めているもの──意志、怒り、憂い、絶望、虚しさ、怨恨、憎悪、復讐心、それら全てが私の中に雪崩れ込んできて、どうにも敵わなかった。もちろん姿は、愛らしい目をした、ただのイモリです。私より何十倍も、何百倍も小さな。それなのに、紛いようなく「彼」だったんです。私にはすぐわかりました。何か言おう、言おうと思っているうちに、もう一度「それ」は口を開いて、“私は決して忘れることはない。お前も断じて、忘れてはならぬ“と言い放ち、再びコップの底に潜って、あっという間に見えなくなった。溶け込んでしまったのです。ストローで混ぜるまでもなく。」
「そんな出来事の後ですから、それに当然のことながらイモリの溶けたカルピスなど、とても気味が悪くて飲めなくなり、残念ながら流しにそのまま・・・・ええ、勿論わかってます。教師として、褒められない振舞いです。ですがおそらく皆さんもこんな目に遭ったら、同じことをしたんじゃないでしょうか。何より私は唐突に、自分がかつての誰であったか、知ってしまったわけです。生ける者の普遍の問いである、我々はどこから来てどこへ行くのか、その答えの一端を、ほんの一端とはいえ、前世で殺した相手に親切にも教えられたのですから。鼓動が速くなって、目が回って、カルピスどころではなかった。はい、榎本君。あれだけ言っていた「夏」はどうしたのかという質問、もっともです。カルピスは夏。私はまさに、それを遂行しようとしていた。気がつけば何年も、私に夏は来ていなかったのだから。しかし、考えてもご覧なさい、ブルータスですよ。カエサルを殺した男。それがこの私だった。はははは。いや、こうして話してみると、実に可笑しい。自分自身、滑稽ですらあります。けれど全部、事実なんですね、今お話ししたことは。ええ、はい。では授業に戻りましょう。教科書152ページ、例題4、正八面体の全ての面を──」
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ミドリさんは、たまに学校へ来る。たまにしか来ないから、教室ではかなり浮いた存在で、当然部活にも入っていないし、クラスの女子のどのグループにも属していない。それでも彼女は心臓が鋼で出来ているのか、ふらりと気まぐれに学校へ来ては、教室中の会話に耳を澄まし、自分の気にいった話題を聞きつけると男女問わずそのグループにいつの間にか割り込んでいる。溶け込むことは決してない。彼女の苗字は「木下」というのだが、どう考えても彼女は「木下さん」というより、「ミドリさん」しかあり得なかった。短く切り揃えたモードなマネキンみたいなショートカット、すらりと背が高く、個性的な顔立ち。良いとも悪いとも言えない、不思議な匂いのする香水を、常に手首につけていた。
今日のミドリさんは、さっきから私たちのグループにいた。昼休みになり、芽衣子が「この前、隣のアパートの人が部屋中にサボテンを育てているのを見て以来、なぜか気になって、よく窓から覗き見などしてしまう。その人とは挨拶もしたことがないが、見かけると1日幸せ。これは恋と呼べるか」という話を持ちかけていたところだった。初めに口を開いたのは、ミドリさんだった。
「──私、先週の授業で、あの先生のこと本当に好きになっちゃった。あー何だろう、今まで先生がどんな人に見えてたか、もう思い出せないけど、全然分かってなかったって思ったの。あの先生の話って、基本つまらないし、起承転結ってものがないし、どこまでが前置きでどこからが本題なのかもわかんないようなのばかりで、一人も聞いてる子いないと思ってた。あ、榎本くんは別。あとはみんな居眠りか、机の下で携帯見てるか、本か漫画を読んでるか、自習してるか。聞いてる体の人もたぶん、全然違うこと考えてたと思う。でもなんか、あの時の私は寝起きで、眠気もすっかり冷めていて、やけに意識がはっきりしてた。それで先生のその話が全部、冴えきった脳に染み込んでいく感じがしたの。最初カルピスの話かと思って、おじさんのノスタルジー、心底どうでもよいなと思ってたら可愛いイモリが出てきて、あれ先生そんなおとぎ路線も行けるの? と思ってちょっと戸惑って、次は前世がどうの問いがどうのって言い出すじゃない。それで極めつけに、例の無機質な笑い、オチの不明さ、話の切替えの不自然さ・・・・それを見てたら、急に胸の内がすずしくなった。ああ先生は、そういう風に自分を愛せる人なんだって妙に感得してしまった。かつてのブルータスはこうして、話の退屈な数学の教師になったんだ。そう思うと、どうしようもなく切なくて、哀しくなって、先生は先生で愉しいのかな、それで幸せなのかな、そんなの他人がとやかく言うのは筋違いだってこと、わかってる、でも私がこの可哀想な先生を愛してあげないとって思っちゃって。愛さずにいられないっていうか。慈愛ってこうやって成り立つのかしらね、憐れみからの、愛。その後、先生の言う「夏」ってなんだろうって考えて、夏を究極一つの行為に纏めてしまう、そんな所もすごく、わかる気がした。先生の物事に対する態度の、一つ一つ好きだと思った。でも、先生のことが好きなのは本当だけど、別に先生とお付き合いしたいとか、そういうのではないの。私はね、とにかく、先生から表出されたものが好きなんだ。さっきの話もそう、抑揚の付け方とか、笑顔と真顔の切り替えの下手さとか、正しいゆとりのある足音とか、黒板に書かれた消えそうな字とか、生徒に接する時の距離の掴めなさとか、彼が持ってる空気感。もし先生本人がいなくて、例えば先生の抑揚だけがあったとしても好きかと聞かれたら、それはわかんないけど。遠い電車の音とか、カーテンの揺れ方とか、休日の前の夜が好きなのと同じ、好き。私の好きって、大体そう。だからあなたも、好きなように好きでいればいいって思う」
ミドリさんは言葉を切って、椅子から立ち上がった。そして一切無駄な動きをせずに真っ直ぐ机と机の間を横切り、自分の席から鞄を取り上げて肩に掛けると、颯爽と教室から出て行った。おそらく今日彼女は、もう戻ってこないだろう。
私たちはしばらく何も言わなかった。顔を見合わせたり、眉を顰めたり、ミドリさんの話について意見を言ったりもしなかった。それぞれが自分のカプセルの中で浮かんでいるみたいに、誰も言葉を発そうとはしない。私たちのグループ以外に生徒は一人も残っていなかった。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってから、すでにかなりの時間が過ぎていた。芽衣子が、ふと我に返ったように呟いた。
「次、理科室」
「そうだ移動」
「待って白衣」
「実験か今日」
みんなは一斉に席を立ち、午後の授業へ向けて忙しく準備する。廊下を走って地下にある実験室を目指すみんなの足音が、パタパタと遠ざかっていった。私は座ったままだった。どこまでも静かな、誰もいなくなった教室。あたりにミドリさんの不思議な香水の匂いが、まだ仄かに漂っている。私は立つことが出来なかった。急ぐみんなにちゃんと着いて行くつもりだったのに、身体が動こうとしなかった。私は彼女を、好きなのかもしれなかった。