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【私の感傷的百物語】第四十一話 加害恐怖

僕は二十代の半ば頃まで、他人と関わる際に、多かれ少なかれ、何か危害を加えているのではないかという思いに苛まれていました。自分自身の軽はずみな言動が、他人に不愉快な思いをさせているのではないかと、つい考えてしまうのです。特に、学生時代こういった思考パターンが顕著に出ていました。

当時の僕は、他者から嫌われることを異様に恐れる人間でした。現在もそういった傾向はあるかもしれませんが、過去において、この「嫌われたくない」願望は度を越したカタチで僕の意識を支配していました。
他者との距離感が掴めず、相手の不機嫌に怯え、仲間はずれになってはならないという、強迫観念にも似た願望に煽られながら、僕は毎日を送っていました。

そんな日々の中から、この加害妄想が生まれてきました。ちょっとでも気を抜けば、自分は他者に悪い印象を与えてしまう人間なのだと、考えるようになってしまったのです。

この妄執にとり憑かれると、相手の一挙手一投足に戦々恐々となるため、恐ろしく心身を消耗します。

度胸も矜持もなくなり、他人に対して安直な迎合を繰り返しては、結果的にお互いが不幸になる、ということも多々ありました。

卑怯なこと、愚かなこともずいぶんやったと思います。

社会人になってから、とうとう僕は、精神を病みました。


病の中で、ただひたすらに今は亡き過去の人々が残した文章を読み耽りました。そうしていると、僕の心の中に「落ち着いて立ち止まる場所」ができたのです。また、心を許せる友人たちとのたわいのない会話も、社交という行為へと立ち直る力を与えてくれました。

そして、読書と対話を続けるうちに、僕の中で、少しずつ、この加害恐怖=対人恐怖が薄れていったのです。

意見の対立や失敗を許容し合える関係の相手。生身の人間でも、活字の中だけでも、こういった存在が身近にあることで、「他者を信じる」という心は芽生えてくるのではないでしょうか。

手前勝手になってもいけないが、過剰な自虐思考も身を滅ぼす」という、凡庸ですが生きる上で重要な教訓を、僕はこうした体験から学びました。

信と疑の間でバランスをとり続けてゆくこと。
健全な人間ならば当たり前に行っている配慮の板子一枚下では、恐怖が渦を巻いています。人間関係の機微を無視した物、精神の均衡を失くした者に、それは容赦なく襲い掛かってくるのです。


歌川芳藤 『髪切りの奇談』
僕の中で加害恐怖をもたらす怪物のイメージはこんな感じだ。

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