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飯田橋で、一度だけ出会ったあなたへ

こんなわたしにも、就活生だったころがある。

当時のわたしは、漠然と東京に行きたかった。東京で生きてみたかった。人生のなかで、「東京で生きた」と言える時代がほしかった。ここではない場所でなら、ただしく見つけてもらえると思っていた。聞き飽きた、よくある話だ。

小説家になりたかった。

でも、働いて稼がなければ生きていけないことはわかっていた。とにかく東京に行けばなんとかなると、思っていた。高速バスで足繁く上京した。常に金欠だった。パンプスのサイズが合わないので、スニーカーを携帯していた。2020年。コロナ渦の真っ只中で、行き交うひとはみんなマスクをしていたころ。


6月、ある企業の二次面接で、飯田橋に行った。初めて降りる駅だった。その日はやけに晴れていて、川がきらきら光っていた。水の流れに沿うように、緑と建物が丁寧に並んでいた。とても感じのいい街だと思った。ここに通う自分を想像した。靴擦れで、足が痛かった。

その日は3人の集団面接だった。わたしと、男性ふたり。順番は自分がいちばん最後。

名前、大学と学部、志望動機、そして自己PR。面接のコツ動画でみたように、ときどき微笑んで頷いたりしながら、ふたりの発言を聞いていた。

「僕は、自分でも小説を書いています」

前の人がそう言ったとき、わたしは、自分がそれを言ったのかと思った。口のなかで唱えていたことだったから。これまで、自己PRが被ったことはなかった。
通常であれば、しまった、被ったと思うところかもしれない。でも、わたしはそのとき、すごく、すごく、うれしかった。こんな場所で、創作をしているひとと出会えたことが。

だからわたしは、自分の自己PRの内容を変えなかった。自分も小説を書いている、と言った。彼よりいいことを言おうなどとは、思わなかった。同士を見つけたような気がして、ただうれしかった。

いまならわかる。小説を書いているといったところで、企業にとっての「いいね」ポイントにはならない。就活で見られているのは、「この人が、会社にどう貢献してくれるか」「特技を、どう仕事に活かせるか」であって、「この人がどんな小説を書きたいか」ではない。その面接官はみんなやさしくて、よく話を聞いてくれたけれど、自己PR以外は、なにを話したか覚えていない。


「びっくりしました」
面接のあと、彼はそう言って笑った。
「自己PRが被るなんて」
不快にさせていないことに、わたしは安堵した。
「わたしも、でも、うれしかったです。小説を書いているひとと会えて」

それからわたしたちは、なんとなく並んで、駅までの道を歩いた。歩きながら、ぽつぽつと互いのことを話した。とはいえ、深くは聞かなかったし、話さなかった。創作をしていると明かすこと、それは、自分のいちばんやわらかいところを、さらけ出すことに似ていた。

それでも、彼と話すのは楽しかった。緊張が緩んだこともあり、わたしはつい、「そうだ」と口走った。

「わたし、就活のときはいつも、これ持ち歩いてるんです」

そう言ってリクルートカバンの中から、太宰治の『人間失格』を取り出した。

当時のわたしは、「卒論のため」という名目で、おまもりのように『人間失格』を持ち歩いていた。慣れない都会、乗り換え、入り組んだ道、ひとひとひとひとの群れ、不確かな未来、そのすべてに立ち向かうための、おまもりだった。こんなこと誰にも言ったことはなかったし、ましてや同じ企業を受ける就活生に言うつもりなどなかった。

言ってしまったあと、しまった、引かれたか、いやでももう会わないかもしれないのか、いやでも、と、脳内が騒がしくなり始めた。そんな私を見て、彼は口を開き、

「僕は、これ持ち歩いてますよ」

と、川端康成の『雪国』を取り出した。

その瞬間、とても深いところで、彼とわかりあえた気がした。名前と出身大学以外なにも知らない彼と、初めて来る街の真ん中で、深くわかりあえた気がした。視界がクリアになって、風が身体のなかを吹き抜けるような、透き通った気持ちになった。

「こんなことあるんですね」

2冊の新潮文庫を見て、わたしたちは笑った。いい天気で、信号機が歌っていて、ラーメン屋の匂いがしていた。

当時のわたしは、まだ若くて、愚かだった。小説家になりたいのに、小説家として生きていけそうにない現実を直視したくなくて、泣きながら履歴書を書き、度重なる面接にうんざりしていた。就活なんて、ほんとうはしたくなかった。小説家になれなければ、死ぬしかないと思っていた。自分が社会に出られる想像ができなかった。このまま生きていける気もしなかった。崩れかけの崖の上で、背後にある暗闇を見ないように、絶望に気づかないように、必死だった。自分の未来を、なにも諦められていなかった。

でもそのとき、ひとりじゃない、と感じた。あなたが書いていてくれることは希望だ、と感じた。勝手に。

「じゃあ、僕はここで」
「はい、おつかれさまでした」

駅で、わたしたちは別れた。ペンネームを明かすことも、連絡先を交換することもしなかった。彼の背中を見送ることもしなかった。互いに別の電車に乗り、別の街へ、それぞれの人生へと帰った。昼下がりの残像だけが、バスに乗っても消えなかった。



それからまもなく、わたしはその企業に落ちた。晴れた日の飯田橋を思い、あの駅に通う未来はないのだと思った。彼はどうだっただろう、と思った。知る手段などどこにもなかった。もう会えないことはわかった。

あれから、4年が経つ。

どうしようもなく恐れていた社会で、わたしは働いている。小説家として、ごはんを食べることはできていない。でも、相変わらず小説を書いている。社会に出て、新たな絶望やかなしみを知るうちに、詩や短歌に深くのめり込むようになった。自分と、世界と向き合うこと、それを表現に落とし込むことに、性懲りもなくいのちをかけている。それで生活はできないのに、どうしても、やめられない。まだ愚かなまま、なにも諦められないまま、社会人をやっている。

時折、就活をしていたころを思い出す。あの頃、就職しなければどうなっていただろう。あの頃、もし商業デビューできていたらどうなっていただろう。東京に行かなかったら。地元に残ったら。あるいは、全然ちがう場所を選んでいたら。いろいろな可能性を切り捨てたいまが、重く、のしかかる夜がある。そんなとき、飯田橋で出会った彼のことをふと思い出す。よく晴れた6月、光る水面、太宰治と川端康成。

彼もどこかで、社会人をしているだろうか。
今でも、川端康成を読んでいるだろうか。
まだ、小説は書いているだろうか。

もしかしたら知らないうちに、彼の書いた物語を読んだりしているのだろうか。彼もまた、わたしの物語を、どこかで。そんなわけないか。この世界には掃いて捨てるほど人がいるのだから。

人生どうでも飯田橋とはいうけれど、どうでもよくたって人生は続く。
死にたくても死にたくなくても、わたしたちはいつか死ぬ。わたしはわたしの人生を、わたしとして生きて死ぬしかない。できるだけしあわせに。だからここで働きたいと思いました。言えなかった志望動機。

ねえ、あの日はいい日だったね。
あなたの人生が、しあわせだったら飯田橋。


眠れない夜のための詩を、そっとつくります。