桜桃忌 2024
桜桃忌だ、と思った。
仕事中、キーボードを打ちながら、思った。
しばらく、『人間失格』を読んでいない。
***
太宰治を思い出すとき、私は「修治さん」と呼ぶ。
すべての本を読み、論文を読み、五所川原へ行き、三鷹へ行き、それでも私は、太宰治の、津島修治の、絶望に触れることができなかった。触れられた、と気がしたこともあったが、それは大抵自身の絶望を、彼に投影しているだけだった。彼が、何にくるしんでいたのか、何がさみしくて、何に耐えられなかったのか、どこまでがほんとうでどこからが嘘で、あなたが書き残したかったものはなんだったのか。
問いを残したまま、私は社会に出た。人間を合格したふりばかり、上手になった。でもことあるごとに、私は、人間を失格したままのような気がした。泣きながらへらへらしているとき。道化を自覚する瞬間。血を吐くようにものを書いては、お金がないだの、誰か見つけてくれだの、生まれて申し訳ないだの、でも夏までは生きていたいだの、もがいている夜。
理解者は修治さんだけだと思っていた頃の記憶。自分以外の自分の理解者が、どこかにいると信じていられた頃の私を、なつかしく、まぶしく、思う。
三年前、初めてひとりで禅林寺に行ったとき、私は彼に「なにがくるしかったんですか」と問うた。返事はなかった。薄い煙がたちこめていて、小雨が降っていて、一羽の蝶が舞っていた。線香の匂いが濃くて、私は社会人になりたててで、若くて愚かだった。
文学賞に落ちるたび、もうだめだ、と思う。生活が苦手だと実感するたび、もうだめだ、と思う。自分が生きていることを、ゆるせなくなることが、ある。
でも、どんな姿であれ、どんな状態であれ、生きていてもいいのだと、私は彼から、そう聞いた。彼の文学から、私にはたしかに、そう聞こえた。
***
桜桃忌だ、と思った。書きかけの原稿と、干し忘れた上着のことを思った。午後からの仕事と、週末の予定と、すこし先の〆切を思った。
孤独もくるしみも、当人しか、抱えられない。
それがどんな色なのか、かたちなのか、どんなふうに痛むのか、当人しか、わからない。
でもそれは、絶望ではないのだと。
あなたが私ではないから、
私があなたではないから、
私とあなたはひとつではないから、
こうして出会える、わかろうとできるのだと。
だから、よかった。
出会えてよかったよと。
いつか終わるとしても、
出会えてよかったよと。
そう言えるような、
時間軸も世界線も超えて、そう言えるような、
物語を書ける人で、ありたいと、思う。
聞こえていますか、
そっちの天気はどうですか。
久しぶりに、あなたを思い出しました。
元気ですか。