監視 と 見守り
一井優希さんの個人セッションをレポートします。
今回も引き続き、アゴの脱力に取り組みました。
これまでのレポートはこちらです。
ZOOMでセッションを受けていまして、アゴをゆるめるワークを、私がどこにどんな力みがあるか観察しながらやってるところを、優希さんに実際に画面越しに見てもらいました。発声の状態もオンラインでチェックしてもらいました。(これは毎回のセッションでやっていただいてることです。)
「首うしろから、下あごにかけて固さが残っています。その子たちが見てくれと、見落とさないでくれと、言ってますよ」のアドバイス。
さらに
自分で自分を観察するとき
「監視の目線になってます。見守りの目線にしましょう」と。
「監視」は、力みがあったらダメ、ゆるめてやろう、やわらかくしてやろうと、なにか作用を促そうとする目線。
「見守り」は、ただただ見るだけ。何もしない。
脳で考えてコントロールしようとしてしまう、私の思考優位な傾向がここでも出ました。監視されてコントロールされると、アゴは緊張して萎縮してしまいますよね。アゴにゆるみを結局は許可してないってこと。
口角を上げて笑顔でいるのがクセだと、前回レポートで気づきました。ソトヅラ笑顔が「仮面」だったと気づいた。けど、そこで監視の目線が発動。仮面を力ずくで外そうとしてしまうのですよね。仮面はそれに気づくだけでよい。自然にはがれていく。というよりも、消えて無くなる。そもそも仮面なんてなかったんだ、ステキな素顔があったんじゃん…ってなればいいなあ。
ともかく、ついつい監視してしまう私に気づく。やらかす私さえも見守る。見守り母さんが子育てするように。「しよう」「なろう」としない。気づくのみ。気づきまくるのみ。
「見守られると最初は固まってるけど、見てもらって安心してユラユラ動き出す。そして自分本来の場所に自然に戻っていく」と優希さん。
枠にはめようとしない視線を受けているからこそ、自由に動き回って、帰る場所に帰ってこれるのですね。
「見る」存在があるからこそ…なんだなあ。