SEKIRO葦名五行メカニズム仮説 陰
この種のSEKIRO考察やフロムソフトウェア作品の考察を読んでいる方にはお馴染みのシード氏、なるにぃ氏。日頃、興味深く拝見させていただいている両方々のブログや動画等に紹介されている隻狼における陰陽五行説について自分なりに考えがまとまったので、今回お披露目させていただきたいと思います。
以下の考察について、論拠の多くを両氏の努力に依存しておりながら、また両氏の意見内容と一部解釈の異なる部分がある事を先に謝らせていただきます。
今回私のまとめさせていただいた説では、フロムソフトウェアの他作品との世界観の関係性、隻狼世界の様々な事象に関する取りこぼしが多くなる点において氏の説に劣る面もございます。しかし同時に、隻狼の世界の設定内で完結している点、陰陽五行思想における自然的エネルギーのサイクルとそれらを阻害、逆利用する形で自然世界の条理に抗おうとしたのではないかというこの説の論旨によって、今現在にも皆様を悩ませているであろう問題について一つの示唆を与えられるのではないかという点から、その正当性をを問う意味でも公開することしました。
またこの記事についてあらゆる言及を禁止する意図ではありませんが、フロムソフトウェア様の作品設定のあまり細かな部分について、両氏の考察にだけ関することについては私から応えることは難しいです。また、その場での文脈に関係なく、シード氏やなるにぃ氏の動画やブログ、ツイッターでこの記事に関することを質問することはご容赦いただけると幸いです。
今回参考とさせていただいた、両氏のブログ記事や動画は以下の通り。
シード氏のブログ「ソウルの種」Sekiroまとめページ。
なるにぃ氏の動画。
五行思想について
上述の記事や動画は皆さまはおそらく既に目にしたことはおありでしょうし、それ以上に私から付け加えられる部分はおそらくないでしょう。
一応今回の説について概要と強調しておきたい部分を述べておきますと、この東洋の思想が自然界の存在のあらゆるものを包摂した論理体系であり、自然界のエネルギーの移り変わる条理を表したものだという事です。
五行思想では自然界全体でこれら属性の移り変わるサイクルが、暦から生物の種類、生命の原理まであらゆる事象に作用して支配していると考えられ、その移り変わりが自然界の調和や永遠性をもたらすと考えられています。
動画にも言われる通り、木、火、土、金、水の属性が肝、心、脾、肺、腎の五臓や、鱗、羽、裸、毛、介の特徴を持つ生物に対応し考えられています。また日々の巡りは陰陽(え・と)とこの五行で数えられ、木のえ、木のと、火のえ、火のと…と順繰りに廻っていき、人の年齢ではこの十干と十二支の最小公倍数である60を数えると還暦(暦が還った)として、祝いをもうけるのが習わしです。
木が燃えて火を生ずると、灰が土となり、やがて土壌の中に金属物を産み、その表面には朝毎に露として水が生まれます。これらの性質が様々な自然界の事物を生み出させ、さらにそれらの作用によって有機的な宇宙のシステムが廻っていくというのがこの東洋の五行思想の特徴で、風水などではこの気の流れを意識して街や家あるいは墓をつくる参考にします。
この考え方はある意味では仏教の諸行無常や輪廻転生の思想を補完しており、その両の思想は別々の由来のものではありますがおおよそ同時期に日本に伝わり、一方は国家宗教、また一方はある種の科学理論として、日本の国家を支えてきました。
災害や疫病の供養として多くの寺院が建立されたことは教科書で習ったでしょうし、この陰陽道の学者であった安倍晴明や彼の子孫である土御門家が江戸時代までの日本の暦や天文学の権威であった様などは、冲方丁さんの「天地明察」等の時代小説にも書かれています。
葦名における五行
上にリンクを貼らせていただいたシード氏、なるにぃ氏の指摘にある通り、SEKIROの世界にこの陰陽五行思想の考え方が取り入れられているというのは、非常に蓋然性のある説です。
両氏が例に挙げているように源の宮には「六壬栻盤 (りくじんちょくばん)」なる陰陽師の道具が配置されており、少なくとも陰陽道のエッセンスは取り入れられています。私自身の他の記事でもたびたび述べている通り、フロムソフトウェア作品のこうした背景設定には並々ならぬこだわりが発揮されており、日本を舞台と明言している今作では、歴史に関わるこうした思想からも何かしらの影響を受けていると考えられます。
もちろん隻狼の世界では仏教や神道のような他の日本の文化も取り入れられ、表面上はそちらの要素が強いようにも思えます。しかしその葦名仏教の本山である仙峯寺の教えは歪み、どうやら彼らに変若水をもたらした神なる竜の存在によって、本来神道で崇められるような八百万の自然神は成りをひそめてしまったようです。
したがって、この葦名に何が起こっているのかを考察したい私としては、この五行という考え方から切り口を得て、隻狼の考察をしようと考えたわけです。
実際に隻狼のゲーム中ではいくらか五行思想によって説明できる現象がいくつかあり、まずはそこから整理して考えていく必要があるでしょう。
この記事の五行思想の五行の説明とそれぞれの行に属する要素の説明は、シード氏のブログにも貼ってある、Wkipediaの「五行思想」の中段の表を参考とさせていただいています。
さてまず代表的で非常にインパクトのある事例として、なるにぃ氏の動画にある通り「ぬしの色鯉」のイベントは分かりやすいものだと考えられます。
源の宮の豊かな水で育った巨大な鯉は、鱗をもつ”鱗蟲”つまり木行の存在で、毛の生えたエサである”毛蟲”=金行の存在によって死んでしまいます。同様に金属の斧で敵の木盾や木で補強した傘があっけなく割れてしまうという例もあり、これらは五行における「木剋金」という相剋関係を表すものだと考えられます。
動画ではおなじく淤加美の一族を木行、錆び丸の青錆からくる毒を金行ととらえ、相剋関係によって特殊な中毒モーションが起こるのだと説明し、火を怖がる赤鬼や水生村の住人も金行であるために、火属性の攻撃で特殊な怯みモーションが起こることを考察していました。
(ただし、私としてはいくつかの理由から、淤加美を水行、毒を土行の相剋関係と考えています)
おそらく相剋関係による弱点は、相手に特別な反応を誘発させるというように設定されているのでしょう。
黄色の服装を纏う仙峯寺の僧が、神隠しの渦風ですぐに消えてしまうのもこの一つかもしれません。風は木行の八卦であり、土行に対して相剋関係をもつ属性なのです。
また五行における互いが互いを生み出す関係、相生関係に関連すると思われる事例も数多く存在します。
先ほど相剋の弱点は特殊なモーションによって反応することを挙げましたが、相生関係においてはおそらく”それを生み出す属性の効果が、生み出される属性の敵にすぐに効く”という表現で表されるのだと思います。
例えば明らかに木行と思われるボス”白木の翁”たちは炎上に弱く、火吹き筒を使用するとすぐに炎上します。対して炎に弱い敵として先ほども挙げた赤鬼や水生村の住人は、火によって大きく怯みはするものの炎上状態にこれほどなりやすいわけではありません。
他にも意外なところで火を扱う内府軍の兵は、概して毒に中りやすいという特徴をもっています。他のフロムソフトウェア作品では火は毒などを火で焼いて抗するものとして扱われますが、五行での火行は土行を生みだす属性で、土行と考えられる葦名の毒に中りやすいのだと考えられるでしょう。
同様に毒に弱い敵として淤加美の武者が挙げられますが、先ほど述べたように私としては彼らは水行の存在で、毒を金行ではなく土行のものと考えています。
毒が土行だというのは上記の事でつじつまが合い、”錆び丸”以外の事例では常に毒は土と関連付けられています。また淤加美という名が水神である”龗”から来ているものだと考えられますし、彼らが技によって生むことが出来るのはもともと木行ではなく水行の業によって木行を生み出しているとも見ることが出来ます。
さらに通常の若い淤加美たちは毒が(おそらく相剋によって)効きますが、老いた淤加美である宮の貴族たちにはあまり利きません。彼らは毒より炎上がよく入り、相生関係によって火が生じる木行の存在になりつつあるのでしょう。「京の水」のイベントパートで示唆されているように、彼らは京の水によって宝鯉のウロコを宿しつつあり、木行の鱗蟲になろうとしているのだと思われるのです。
彼らは人々から何か白いものを吸い”年寄”と白いエフェクトの出る状態異常を掛けてきますが、それはおそらく彼らの未だ残っている水行の相生の力を使い、金行の”魄”を吸い上げようとしているのではないでしょうか。(あるいは木行の相剋関係で、金行の魄を無力化か?)
魂魄のうちの魄がないと人は肉体の活力を失い、落魄した姿になってしまいます。逆に金行のそれを得たとなれば、彼らは金行の力から己の本性である水行を生みだし、若返ることが出来るのかもしれません。
それから”火牛”という敵は本来土行の五畜である牛が、土行を生む火の力を取り入れらために、あれだけ猛っているのだと考えられます。逆に土行は木行に対して相剋の弱い関係にあるので、”火牛”のように桜の枝を角に結わえられた”桜牛”は、頭が骨のようになってしまっています。
こうした五行で考えられる面白い例として、金行の八卦である天と土行の八卦である地の概念を利用したのだと思われる例もあります。ゲーム内Tipsで知られているでしょうが、イモリのような地に伏せた敵は敵対状態からでもジャンプから簡単に落下忍殺が出来ます。
これらは土行から金行がうまれる相生関係によって、地に属する存在へ天に属する攻撃が入りやすくなるという例です。また小ネタ的なテクニックになりますが、金行の色である白、この白い色を持つイモリの血纏いによっても、落下忍殺を発生させやすくする効果があるそうです。
この例についてはびゃーすそうるさんのこの動画に詳しく紹介されています。
地に足を着いているから土行と見なされるというのは、雷返しの原理とも考えられ、通常地に足を着いた=土行に属した状態では木行の雷は致命的な威力を発揮します。しかしジャンプ中に雷を受けその後地につく前に天に属する攻撃=金行の攻撃で受け流せば、木行である雷はほとんど効かずそのまま相手に返すことが出来ます。
もちろんゲーム自体を盛り上げる手段として隻狼がこうした仕様を採っていることは明らかで、込み入った理屈よりは敵に特殊な弱点を与えメリハリをつける、連戦での最後に派手な返し技で強敵を打ち破るカタルシスを演出する、という意味合いのほうが強いことは確かです。
しかしフロムソフトウェア作品ではこうしたゲーム上の仕様でさえ世界観の一部として、何かしらの理由付けを用意していることが多いように思います。隻狼においては近年の他のシリーズとかなり違う仕様で作られており、そのような世界観を構築するために、この東洋の五行思想が用いられているのではないでしょうか。
仙峯寺の五行的魔術
さて、先に挙げたような隻狼における五行思想での解釈ですが、そのまま適応していくといくつか矛盾の生じる部分も存在します。
かといって、これまで説明してきた五行思想と隻狼の解釈はそもそも間違っていて、上に挙げたような例は偶然のあてはまりなのかというとおそらくそうではなく、何かしらの作用でこの五行思想自体が歪められているという可能性のほうが高いように思います。
とかく葦名での人の在り方、仏の道、生死の概念は、”歪められている”とか”外れている”と形容され、それに抗おうとする主人公狼やその主人九郎の目的は「成すべきことを成す」という言葉に集約されています。
使命の途中、彼らの集める、常桜の枝、竜胤の血、お宿り石、馨し水蓮、そしてそれらを集めて作る”香”とは、それぞれ木、火、土、水、金に対応付けられるものです。物語の最後に必要となる桜竜の涙も、木行の気を竜胤の御子に与えるものだと考察されています。
隻狼の裏のテーマは、おそらく五行のような自然的な力の循環を取り戻す物語であって、それを成さねばならない故は、そもそもそれが歪められているという事実があるはずです。
そのような五行の力を歪めているという事を具体的に説明しているパートが、どうやら仏の道から外れた仙峯寺のあたりに隠されているのだと考えられます。シード氏のブログに描かれる奥の院の屏風の並びも、なぜか意図的に入れ替えられている部分が存在していました。
今回この記事を書くにあたって改めてそのあたりを探したところ、さらに具体的に五行の力を利用している部分を発見し、どのような意図をもって僧たちがそのようなことを始めたのかどうやら推理できそうなのです。
その問題の部分というのが、件の奥の院に至るまでの猿たちと追いかけっこをするステージの”幻廊”でした。
”幻廊”は「日光東照宮」の有名な彫刻、”見ざる言わざる聞かざる”をモチーフとした猿たちと追いかけっこをする一種のギミックステージとなっています。一種の異空間に入り込み、猿たちの能力を妨害するマップ中のギミックを使い忍殺することで猿たちを屏風に戻すというなんとも趣向の凝ったボス戦となっています。
しかしこの”幻廊”内の仕掛けや建物の構造にかなりはっきりと、五行の要素が取り入れられ、それがかなり正確な五行相剋の順番に並んでいるのです。
まず幻廊へと入り、正面突き当りを左に行くと上から水が流れ続ける部屋に入ります。そこから幻廊の奥方向へ廊下を進み右側に見える部屋に入ると、柱を背にろうそくを持った仏像の並ぶ部屋があります。さらにその部屋を出口からまっすぐ進んで右手のほうを見ると鐘、その廊下をさらに進んだ部屋には書物の散乱した部屋があります。そこから出て最初の滝の部屋の向かいの部屋に行くと、建物内にもかかわらず床には一面に土が敷いてあるのです。
この部屋の水、火、土、鐘の足りない属性を補い、その並びを解釈すると、どうやら五行の相剋関係によって部屋が並んでいます。
しかもさらに見る猿、聞く猿、言う猿、見えぬ猿という彼らの属性を考えると、これらは五行思想における”五事”を表したものであることが解ります。
五事では木ー貌、火ー視、土―思、金ー言、水ー聴と、人間の行動が五行に対応しており、その中に”見る猿”の視、”聞く猿”の聴、”言う猿”の言、がそっくり入っています。さらに”見え猿”という存在が己の”風貌”を失った猿だと解釈すれば、これも木行の存在ではないかと思われます。
ただしここもまた疑問が存在し、それは見る猿、聞く猿、言う猿がそれぞれ紫、緑、赤の着物を着ていて、それを五行の五色と照らし合わせると先の貌、視、思、言、聴とはバラバラになってしまうということです。
これについては少しややこしい話になるのですが、もともとの東照宮の彫り物から考えて、本来この猿たちは「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三匹の子ザルと彼らを「見守る母ざる」、という存在だったはずです。
したがって仙峯寺はその彫刻の通り、彼らの視覚、聴覚、言語を失わせることを目的としていたはずであり、実際にこの着物の色はそれを意図して着せられているようなのです。
先ほどの五行の相剋関係をもう一度見てもらうとわかるのですが、この猿たちの着物の色は、その猿の視る、言う、貌を見せるという能力の五行を相剋して打ち消す行の色が着せられています。
ただしここにもまた間違っている部分があり、それが”聞く猿”の着物が木行をさす黄色でない事、猿の数がこの五行の儀式を埋めるには一匹少ない事です。
しかしこの猿の数が少ないという問題は、もともと彼らが変若の御子たちの霊だったという事がヒントになると思います。
おそらく仙峯寺の僧たちは、変若水や竜胤の研究の末にこれが五行の力に由来するものだと突き止めました。であるなら五行の力に対応する人工の御子たちをつくり、彼らに対応する力を操ることで自分たちに都合のいい変若水を作り出し、それによって何かしらの目的を遂げることが出来ると考えたのでしょう。
彼らは五行に対応する五人の変若の御子候補を選び、その子供たちに相剋関係によって貌、視、言、聴を奪う呪いを施し、幻廊へと封じました。
なぜなら彼らが幻廊で迷いこの循環する五行の他の力が封じ続けられている限り、最後の土行を司る変若の御子「思わざる」に対応付けられた御子が、僧たちに”思い煩うことを止める”つまり”悟り”の効用のある加護を与え続けるという儀式になるからです。
仏教では人間の何かに思い悩む原因となる心、煩悩を断ち、様々な感情を滅するという状態が(乱暴なくくりですが)悟りの一つだと考えられています。もしも猿たちの視る、聴く、言う、貌を見せる、と同じように、人の思い悩むことを抑えることが出来れば、仏教の悟りのような状態を再現できることになるでしょう。
仏の道から外れ変若の研究にふけり”堕落した”と言われる仙峯寺の僧たちですが、一応は仏像に祈り続けており自分たちが僧であることは忘れていません。そもそも一切が苦であるという仏教の思想で考えるのなら、単純な不死の研究は苦しみの生を長くするだけで、真の救いとなる悟りよりも優先すべきものではないはずです。
しかしこうした仙峯寺の五行思想を利用した”人工如来計画”も、結局は失敗してしまいました。なぜか猿たちは彼らの思うように視ざる、言わざる、聴かざるのままではおらず、完成したはずの悟りをもたらすはずの御子は、”思いを断つ変若水”ではなく”お米”を出すようになったからです。
何故、仙峯寺の計画が失敗したのかというと、先ほど指摘したように”聞く猿の着物が黄色でない”こととその勘違いにより、”土行の変若の御子へ着せる着物の色を間違えた”ことがおそらく大きな要因でしょう。
本来木行に属する緑の着物は、”思”を相剋させたい土行の”変若の御子”に着せなければならないはずのものでした。
この”緑の着物と黄の着物の取り違え”によって、猿たちはうまく屏風に封じられておらず、土行の思を封じられるはずだった”悟りの御子”がさらに土行の黄色の着物を着せられ、過剰な土の気により土行の五穀である”甘いお米”を出す存在になってしまいました。
しかし彼らのこの誤りも、無理からぬことではあります。
何故なら葦名では土行だと思われる毒が緑、木行のはずの雷が黄色の雷だからです。本来の五行では緑が木行の色、黄色は土行の色なのですが、何故だか葦名ではそれが逆で機能している例があり、そのために仙峯寺の僧たちは変若の御子に着せる服を誤りました。
つまり仙峯寺が都合よく歪め利用しようとした陰陽五行の力は、葦名の他の何者かによって既に歪められていたのです。
次回へ続く。