ブラッドボーンと西洋文化の血脈 3
前回からの引き、聖体拝領についての説明、考察回です。
もしもまだ前回の記事を見ていない方はこちら。
ゴシックという舞台
上記の引用は酒井健氏の「ゴシックとは何か」より、大聖堂で行われたミサの様子を書き記した一部分です。
現代の感覚から言ってヨーロッパ、西洋というのはキリスト教文化の中心地です。しかし四世紀にキリスト教がローマ帝国で公認化されて以来、さらに中世の十数世紀ごろまで、実際には民衆レベルにまでキリスト教というものは浸透していなかったそうです。
それまでの時代、都市としてのローマから離れた地域、つまり現在のイタリア半島を中心とする地中海沿岸地域から離れた北ヨーロッパあたりは、未だ鬱蒼とした木々の茂る土地でした。
そのような地域であっても、以前から住んでいたケルト系民族や「ガリア戦記」に書かれるように彼らと戦争をし属州としたローマ人の手が加わり、いくらかの共同体や国教化されたキリスト教の修道院がいくつかあったそうです。中世まで下るとそうした地域にゲルマン民族、さらに北方にはノルマン人等が移り住み、混然とした信仰や文化形態が存在していました。
そうした人々は主に多神教の自然崇拝的な文化をもっており、もちろんローマ側からもたらされたキリスト教とはなかなか相いれず、修道士たちのもたらした新しい農業法とともに徐々にキリスト教が浸透していったそうです。
自然を切り開き人の住めるような「園」のようにしていくというのは、「産めよ増やせよ地に満ちよ」というような聖書の思想にもある種かなっていたのでしょう。そうして拓いた土地からの恩恵もあり、農村の人口増加とともにキリスト教徒の人口はかなり増加したとされます。
やがてそうした村々が大きくなり街へとなると、彼らの信仰心を反映させたような巨大な聖堂が建てられます。
先の引用、この話の参考とさせていただいている「ゴシックとは何か」で著者の酒井氏が「北フランスの森の深さその旺盛な生命力を反映しているのである。」と語るように、そうした建築では幾本もの柱に細いアーチが掛けられ、異形の彫像が彫られ、まるで森の木々に囲まれ野の獣に見張られているかのような独特な世界観を醸し出しています。
このような聖堂の様式は後の世では、伝統的なキリスト教を継ぐローマ・ヴァチカン側から異民族的という揶揄を持って「ゴシック(ゴート人風の)」と呼ばれました。実際にこうした建物を作った人々とゲルマン民族の一つであるゴート人とは無関係のようですが、文化的な中心地であったローマ側から見れば、そのような違いなど関係なかったのかもしれません。
このゴシック建築は高い塔や幾何学的なバラ窓を特徴とする建築ですが、そのような高い塔の重量を分散させ、窓抜きされた薄い壁で支えるためにフライングバットレス(飛び梁)と呼ばれる、さらに細い塔を並べ幾本ものアーチを通した生き物の骨格のようなシルエットをしています。
今となっては典型的なキリスト教的な教会の姿ですが、その装飾にはキリスト教的なモチーフでないものも多く飾られ、それ以前の彼ら森とともにすむ人々の、自然崇拝的な思想が垣間見えます。
そうした独自の建築を出来得るほどの文化を持ちながら、これまでキリスト教とは馴染んでいなかった地方において、冒頭で紹介した通り「聖体の祭儀」「聖体拝領」つまり先回話した「聖体」の秘儀とはたいへんに人気なものでした。
先の引用の前後には、主にラテン語で伝えられる聖書の物語は当時の民衆には理解できず退屈であったこと、しかし「聖体の祭儀」が行われると人々の熱気は最高潮に達し、実際にそれが「拝領」されない場合でも「聖体」を見る(聖体顕示)だけで、たいへんに有難がられたことなどが描かれます。
この「聖体拝領」という儀式はキリスト教の文脈を通さずとも、ヨーロッパの人々にその呪術的効用を信じられ、様々な霊験、治癒の効果を求められたということです。
彼ら農民の崇めていた自然崇拝や、その象徴となる大地母信仰。そのような地母神の胎内のようなゴシックの大聖堂で行われる霊験あらたかな儀式は彼らに大変に喜ばれ、さらにそうしたイメージを聖母マリアへの崇敬へと取り込みながら、キリスト教布教に一役買ったとされています。
聖体拝領について
しかし、もともとこうした「聖体拝領」「聖餐礼」と呼ばれるものは福音書に書かれる「最後の晩餐」に由来する儀式で、もちろんキリスト教としても大変に重要な儀式です。
「最後の晩餐」はイエスが彼を訴えようとするユダヤ人たちに引き渡される前、弟子たちとともにとった食事の席であり、その席でイエスは上記のような事を言って弟子たちにパンとワインを取らせます。
またルカによる福音書では「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい(ルカによる福音書22:19)」とも書かれ、この一連の食事を儀式のように後世にも伝えて行くことを弟子たちに命じました。
「これはわたしのからだである」「多くの人のために流すわたしの契約の血である」このようなことを言われパンとワインを差し出されては身構えてしまいますが、先回で述べたようにこの”契約”というものがキリスト教では重要なものです。
この契約を受け入れ、神への信仰を示すことで死後天の国へと昇れるというのがキリスト教の救いだからです。
またイエスの磔刑、復活、そして昇天を信じるという立場では、こうした聖書の場面もまた奇跡の一部です。そしてこの儀式において信者に拝領される”聖体”とは「これはわたしのからだである」という通り、文字通りの真実としてキリスト自身の聖なる体だとされるのです。
神でありながら聖書では一人の人物として描かれるイエスの身体を口にするという儀式は一見して面食らうものでしょうし、現代では抵抗感を覚える方も多いでしょう。
しかしそうした儀式を中世のヨーロッパの人々が喜んだように、もともとこうした神からの賜りもの、時に神自身を食するという儀式は、広く世界中に見られるものです。
鏡餅などがその代表的なものですが、日本のお祭りでもその最中には神様自身、御神体と見なされていたものが分けられて参加者に御下がりとして授与されることは珍しくありません。またユダヤ教のように家畜が神に捧げられる場合では、その肉は分けられて食されるのが普通です。
ヨーロッパの場合でも、こうした神が殺されてその部位が分けられるという民間信仰の例は「金枝篇」にも紹介される典型的な祭りの形式です。
また一方で誰かの命を食すること、私たちが誰かの命をいただいて生きているという気づきも、さまざまな文化、宗教の中にある一つの悟りです。私たちは生まれた時から誰かの犠牲の上に立っていて、他の命を得なければ、その生命を存えることは出来ません。
ウケモチノカミ、オオゲツヒメなどのハイヌウェレ型神話では端的に、この私たちが頂いている生きる糧が、また誰かの生命である事を気づかせてくれます。福音書のイエス自身も度々自らのことを「麦の種」や「パン」「パン種」に例え、その生命からの新しい生命の芽吹きを天の国での永遠の命になぞらえて伝えます。
あらゆる文化圏において、こうした食事の神聖性を忘れてしまい、ただそれをむさぼる、テーブルでのマナーを失してしまう人の様子は、獣のようだとみなされるでしょう。
このような儀式は彼らの精神を「最後の晩餐」や「磔刑」等の聖書の世界に入り込ませ、そして犠牲となるイエスの悲劇、そのような悲劇から神から人類への憐れみをも学び、自らがその契約を全うせんと信仰心を強めるのです。
聖血と聖杯
さてこの儀式でブドウ酒を注がれる、カリスと呼ばれる聖杯。いわゆるアーサー王などの聖杯伝説にある、ホーリー・グレイルとは別のものなのですが、ブラッドボーンの聖杯が上記の方だと気づいていたでしょうか。
グレイルと呼ばれる方の聖杯はキリストの磔刑の後、彼の死を確かめるため脇腹を突いて流れた血を受けたとされる杯であり、実のところ聖書自体にはそのようなエピソードはありません。後年のケルト神話などから取り入れられたモチーフが、キリスト教と結び付けられたと考えられています。
狩人が求めた聖杯というのはおそらくこの名前の命名から、「聖体拝領」に用いられる聖杯(カリス/Chalice)を意識したものだと思われます。言わずもがなですが、彼らの目的は聖杯によってつながる地下深くの神々の眠る墓場で、特別な聖体を得ることが目的だったはずです。
私たちがまず初めに聖杯協会で得られる、トゥメルの聖杯では、死体の巨人、守り人の長(+残酷な守り人×2)、旧主の番犬と戦います。これらはその先のトゥメルの都を守る守護者たちであり、同時に何か禁忌に触れた冒涜的な姿で描かれています。
次に進むことの出来る中央トゥメルの聖杯では、獣憑き、旧主の番人、トゥメルの末裔が登場します。”末裔”という存在と番人という灰の戦士が守ることを考えると、後世のトゥメルがややカインハーストのような貴族的な風俗を持ち、そして獣憑きの存在から獣の病が既に存在したことがわかります。
その先の深きトゥメルでは、先ほどの守り人たち、死体の巨人が再度登場し、ここがさらに守護者によって守られていた重要な場所だとわかります。その上、この深きトゥメルは4層の構造を持つ特殊な聖杯ダンジョンで、さらに本編でも登場した白痴のロマ、そしてその先に隠された獣血の主と戦う事になります。
獣血の主はDLCが来る前には考察界では、大聖堂のローレンスの頭蓋の主ではないか、つまり獣化したローレンスではないかと考えられていたボスで、その名の通りトゥメル文明にヤーナムのような血の医療をもたらした存在だとも考えられます。
彼のドロップする冒涜の聖杯からは呪われたトゥメルへと進むことが出来、その先のボスは、旧主の番人、旧主の番犬、アメンドーズとなっています。おそらくはトゥメル人の崇めていた旧主というのが、アメンドーズのような上位者たちで番犬や番人はその守護者であったようです。
そしてその冒涜のアメンドーズが持っていた、最後のトゥメル=イルの大聖杯では、トゥメルの末裔、獣血の主、トゥメルの女王ヤーナムと戦う事になるでしょう。
末裔は先に出ていたのと同じタイプですが、獣血の主の姿は大きく変化して首から先がなく、HPが減った状態ではその断面から虫の幼虫のようなものが生え出ています。そして女王ヤーナムは、本編で出現するときにはすっきりしていた腹部が大きく張っており、何者かを妊娠している姿で描かれます。実際に赤子の鳴き声とともに拘束したり、重力を操るような攻撃も行い、人ならざる何かが宿っっていたことが窺われます。
おそらくトゥメル人たちは、旧主と呼ばれる上位者と女王による婚姻の儀式、神の血を宿そうという目論みによって禁忌にふれ、獣の病を引き起こしてしまったものだと思われます。そうしたストーリーは現代のヤーナムとも重なるものであり、この聖杯の儀式とはそのような血の悲劇の追体験をする儀式だという事がわかるでしょう。
医療協会の聖体拝領
血族の狩人アルフレートのセリフ、あるいはヤーナム市街のギルバートのセリフに言われているこの血の救いの源たる”聖体”については諸説あります。
大聖堂地下に存在することから、エーブリエタースや、彼女の祈る嘆きの祭壇のロマのような何か。墓地から持ち帰られたとされることから、女王ヤーナムや、その赤子(メルゴーか?)説。医療協会がひた隠しにし、ビルゲンワースの罪の証であることから、漁村にあるゴースの遺体説。
しかし悪夢などでも度々描かれるように、ヤーナム大聖堂で常に祀られているのは、ローレンスの頭蓋や、獣となった彼の姿でした。
この聖体の正体が何であれ「医療協会」は、血の医療と獣の病の関連について熟知しており、それでもなおこの手段に固執しています。もともと考古学の教室であったビルゲンワースを前身とする彼らからすれば、トゥメルやローランの獣の病の蔓延の過程も知っていそうなものですが、同じ轍を踏みヤーナムをあのようにしてしまいました。
獣を忌避しその病を疎んでいるヤーナムが、なぜあのように血の医療を崇拝して、一方では獣の病を蔓延させているのかは不可解な問題にも思われます。なぜそのような危険な治療を繰り返す必要があったのか、獣になるリスクを知っているのなら病因の分かる病は鑑別し、よりリスクの少ない治療法から試すべきではなかったのでしょうか。
しかしこの記事シリーズの最初の方に書いた通り、医療教会やこの時代の人間が、そもそも病というものの原因をしっかり理解していなかった場合ではどうでしょう。
中世の人間が考えていたように、病は人間本来の体液のバランスが崩れたためだというような、誤った病原論を信じていた場合です。
そのような場合では、そもそも様々な症状から実際の病気を分けることも不可能ですし、それらの病に対する個々の治療法など研究しようもありません。
「血の医療」の初期の形態が、「鎮静剤」のテキストにある通り「気の狂い」を沈めるためだったことは重要な事でしょう。ウィレームが思考の超越を目指していたとおり、おそらく血の医療は精神に作用することを意識しており、多くの病も精神に由来する症状と考えたのかもしれません。
人間の心の弱さから病が生じ、その矯正によって病が治る。さらにはそうした矯正の手段を通じて精神的な成長へと繋がり、人としての弱さを克服できうる。
このような思想は医療教会が自らを「教会」と呼んで宗教的な装いをしていることからもうかがえ、彼らがそのような考えを祈りとして唱えていることからも想像できうる可能性です。
彼らは獣の病も精神的な「恐れ」によって剋せる、あるいは招くと考えており、それを信仰上の試練のように、祈り、耐えようとしています。
さてキリスト教の教義の中に、「三位一体」という概念があります。
聖母マリアに聖霊をつかわせ、キリストを産ませた神という存在。この”神”と”キリスト”とは同一であり、さらにその神の奇跡を起こすための霊的な力である”聖霊”という存在も同一のものだという考えです。
父(神)と子(キリスト)と聖霊。この三つの位格は一体のものとされ、それを信じなければキリスト教(カトリック)における救いは説明づけられないのです。
なぜなら人に救いをもたらせるのは神のみであり、キリストの奇跡がそれをもたらす以上、キリストとは神と見なされます。そしてそうした奇跡をおこす聖霊という存在もまた神=キリストの一部と見なさなければ、「聖体拝領」のような奇跡で救いがもたらされないことになってしまうからです。
さらに難しいことが、これらの三つの位格をまったく混同して考えてしまっても、問題がおきてしまいます。
キリストの磔刑のような悲劇が、実は神としての自覚があったキリストがそうなる事をあらかじめ知っていて行っていたとすると、これらの物語は茶番のようになってしまいます。またその後にキリストが蘇り、天の国へ昇天したという”福音”の内容も、もともと天の国にいたはずの神がそのまま地上へ降りて帰ったのではその意味がなくなってしまいます。
その当時、完全に人として生きたキリストが、死後に蘇って天国へと至る。そうした奇跡のプロセスを経た後に、聖霊としてもたらされる力が、パンやワインをキリストの身体へ変化させ、信徒たちへ拝領されて天国への導きとなる。そうした教理を信じなければ、救いはもたらされず、そもそもキリスト教という宗教が成り立たないのです。
非常に複雑で難解な考えですが、もしも医療協会の設定がそうしたキリスト教に根差していると考えるのなら、彼らが獣化したローレンスを崇めていたという問題にも一つの回答が得られるかもしれません。
自信もまた獣に堕してしまうリスクを負い、人の可能性に挑んだローレンス。彼の血の中からそうした導きをえることで、医療協会は人が進化の道を歩めると考えたのでしょう。
おそらく人が病にかかることは、キリスト教における罪の概念のように、忌避されながらも、ある意味では生きる上で仕方のない事ととらえられていたのではないでしょうか。
そのような人生の中で「血の医療」を行う事は、一時の癒しでもあり、血の救いとはそのような罪から逃れる”精神的な上昇”を願う、契約でもあります。
そしてそのような「聖体拝領」によって彼らは、自らもそうした罪である「獣の病」に罹って狩られたローレンスへの憐れみを想います。病からは逃れらぬ人の身でありながら、同時に血の医療を確立した彼を救世主のように信じ、もしかすると彼の死後の精神が、上位者となったことをも信じたのではないでしょうか。
2022/04/24