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ブラッドボーンと西洋文化の血脈 2

ヤーナムの街を牛耳る医療教会は、おおざっぱに言ってしまえばこのゲームの黒幕的な宗教団体です。

おそらく彼らの思想によってこのヤーナムの街はゆがめられ、どうやら彼らの暗躍によってヤーナムは現在のような危機に陥っているようです。その目的は彼らの「血の医療」と呼ばれる実験的施術によって、人ならざる上位者に見えよう、あるいは自分たち自身がそのような上位者に進化しようとしていると思われます。

まるでカトリックのローマ教皇が苦言を呈したような、メディアで描かれる典型的な「悪の教会」であり、陰謀論に出てくるような闇の秘密組織のようでもあります。

しかしこの医療教会がただそれだけの”なんちゃって宗教”に思えないのは、彼らの聖堂などがフロムソフトウェアの表現によってかなり細緻にデザインされ、このブラッドボーンというゲーム自体が「医療教会」という組織とその思想にはっきりとフォーカスして描かれていることです。

医療協会の思想がこのゲームの世界観を形作り、医療教会の秘密を知りその歴史を追体験することで、このゲームの物語は語られます。プレイヤーの行動により、主人公はそうした医療協会の闇を暴く探索者となる事も、この医療協会の遺志を継ぎ上位者となることもできるのです。

様々な時代や文化の姿を多様なステージとして描いて世界観を語るダークソウル等、他のシリーズに比べ明らかにその視野は狭いですが、物語の奥深さは決して引けを取りません。むしろその焦点を絞ったミステリアスな世界観は、それら以上に深い何かを隠しているのではないかと思えるほどです。

そうした「医療協会」という組織について、今回少なくともガワは参考にしているあろう、現実のキリスト教と比較して考察していこうと思います。

キリスト教について

非常におおざっぱに言ってしまうと、キリスト教とは古代ユダヤ教に起源をもつ来世利益宗教です。

現世で善行を積めば天国へいける、悪いことを行えば地獄へ行く、というような典型的な善悪観で理解され、現在最も多種多様な地域に広まっている世界宗教でしょう。

イエス・キリストという人物の教えを説き、彼を神だとする宗教ですが、このキリスト=救世主というものは、もともとユダヤ教のメシア(油を注がれた者、預言者)のことだったとされます。

さて、ユダヤ教の経典であった旧約聖書を読むと、古代ユダヤ人たちがエジプトやバビロンなど、その時代時代の巨大な帝国に度々支配されてきた歴史が語られます。しかし同時に、そうした圧政から逃れるための助言や希望を与えるため、モーセやエゼキエルと言った預言者が現れ神の言葉を伝えてきたとされています。

さらにはアブラハムやヤコブなど、神によって自由な土地を与えられる預言者たちもおり、ユダヤ人たちは様々な地域を追われては安住の地を探すことを繰り返してきたと語られます。彼ら預言者はそうした神からの恵みを約束されるたび、様々な食のタブーや行動の規範など新たな律法をも与えられ、神と一種の契約関係を結びます。

シナイ山にて十戒を授かったモーセは、代表的な預言者である。
彼の出生当時、ファラオが幼児虐殺を命じ隠れて育てられた。エジプトからヘブライ人たちを逃し、荒野を40年彷徨った。青銅の蛇を作り人々を癒やした。等、イエスの予型とされる様々なエピソードを持つ。
彼のもたらした十戒と約束の地”カナン”は、神との契約という概念の典型的な例でもある。

イエスが現れた約二千年前のエルサレム周辺、現在のパレスチナやイスラエルの存在する地域も当時ローマの支配を受けており、ユダヤ属州と呼ばれました。

ユダヤ人側としては、このイスラエルの土地というのは彼ら自身の神との契約によって保障された宗教的な聖地です。彼らの聖典に書かれる律法を守っている限り、不可侵なはずの彼ら自身の領土です。

しかし現実的にはローマ帝国との関係の上に成り立つ属州という立場でもあり、古代ユダヤ人たちは政治と宗教の矛盾を抱えていました。

聖書にはいわゆる「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神もとへ」のエピソードのような、(当時はユダヤ教としての)神への信仰を説くイエスに対し「ローマ側へ税を払うべきか」などの問答の書かれる場面も見られ、ローマ側との緊張も高まっていたこともわかります。

そのような中で当然、神に約されたはずの土地でローマという帝国の圧政を受けているのだから、モーゼのような新しい預言者が現れ彼らに神の言葉を伝えるはずだという期待も存在しました。そうした”メシア”への期待はいつの頃からか理想化されていき、新しい預言者は彼らの苦しみの世を終わらせる”救世主”のような人物であり、彼が創世記の”楽園”のような場所へ戻してくれる、というようなメシア信仰につながります。

そうしたユダヤ教上の文脈をある意味では継いで、イエスがメシア=キリストとなって天の国へ導いてくれる、とするのが非常に大まかなキリスト教の概要です。彼の契約に際してアダムとイブの負った原罪をも赦され、その教えを信じつらい現世を全うすれば、神の国である天国へ行けるという次第です。

イエスを信じれば天国へ行ける。このような喜ばしい知らせという意味でキリスト教聖書のイエスの行いを綴った部分は”福音書”と呼ばれ。また、彼の伝える新しい神との契約を記した書という意味で、それら四福音書等とそれまでのユダヤの聖典とを分けて”新約聖書”、”旧約聖書”と呼んでいます。

しかしこうした思想は、それまでの戒律を守るユダヤ人側や、そんな彼らを表面上は平和裏に支配していたローマ側には受け入れがたいものです。イエスのもたらすとされる”神の王国”とは、メシア信仰を信じるユダヤ人による民族独立運動とも解せ、当時の政治的に危うい問題でもありました。

結局、イエスは彼をよく思わないユダヤ人側の請願によって、ローマ帝国のユダヤ属州総督ピラトの時代、十字架につるされる磔刑に処されてしまいました。

彼自身は三日後に蘇り、最後の審判以前にすでに天国へ昇天したとされていますが、そうした奇跡をローマなどの各地に伝えた彼の弟子によって、現在のキリスト教が成立したとされています。

キリスト教の思想

ユダヤ教の預言者モーセの十戒や彼の聞いた神の声を詳細に記したとされるレビ記が有名ですが、ユダヤ教における神との契約には人間側から履行しなければならない戒律が存在します。

一部アブラハムのように神が一方的に恵みを与えることを約束する場合もあるのですが、そうした恵は基本的にはもともと彼が神に愛されるだけの善人であったからだと解釈されます。したがって通常のユダヤ人たちはそうした宗教戒律である律法を守って暮らさなければ、神による怒りが下され、恵みを失い罰を受けるのだと信じていたでしょう。

しかしイエスの天の国への契約、いわゆる新約聖書にはこうした戒律などの記述はほとんどなく、むしろ彼自身はそうした教条的な態度には懐疑的であったように思われます。

すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
 
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
 
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、
 
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
 
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

ヨハネによる福音書(口語訳)8章3節~9節 Wikisourceより
(ページの行数を減らすため、節の繋がりなどの改行をこちらで編集しております)

終わりの部分を改変したブラックなコピペなどでおおよそ知っている方も多いかと思いますが、このヨハネ福音書の一場面は民族宗教であったユダヤ教と、イエスと彼の福音によって成立したキリスト教との違いを表した場面でもあるでしょう。

現在では人道的に許されない石打刑を行おうとする場面ですが、先に示したような古代のユダヤ教の宗教観では、こうした刑罰も律法の一部でした。(紀元前後、この部分の記述を見るに当時でもこうした残酷な刑罰は、ある程度形骸化していたようではあるが)

自分たちの土地で豊かな神からの恵みを得るためには、そうした律法に照らし合わせた善行を行う必要があり、もしも家族の中に戒律に違反したものがあれば、厳しく罰し贖いを求める必要があったのです。

しかしイエスはそうした刑罰には消極的で、むしろ行おうとする人々を説き伏せました。彼にとってただ教条的にそうしたことを行うのは、むしろその人自身の信仰にもとる行いだと考えたのでした。

心での信仰を重んじるキリスト教と、戒律によって信仰を体現するユダヤ教。
ユダヤ教では唯一の神を信じ戒律を守れば、自らの子孫が繁栄し家畜などの富ももたらされるという、具体的な現世利益のほうが主なように思われる。キリスト教ではそのような唯一神という概念を継ぎながら、精神的な信仰による来世(死後)での幸福を願う。

しかしさらに福音書の他の箇所を読んでみると、そもそもこうしたイエスの態度やその言葉を試そうとする人々との問題は、エルサレムの神殿内で起こったことが発端のように書かれています。

さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。
 
そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には
 
「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。
 
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。
 
そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。
 
イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
 
そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
 
イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。

ヨハネによる福音書(口語訳)2章13節~21節 Wikisourceより
(ページの行数を減らすため、節の繋がりなどの改行をこちらで編集しております)

”過越の祭”というのはユダヤ教の祭日で、イエス自身もあくまでユダヤ教徒(もちろん、彼の時代にキリスト教というものは未だない)という認識なので、その聖地へと詣でています。しかし彼がエルサレムの神殿へ行くと、その神殿の庭で牛や羊、鳩を売るもの、その商売の横で両替をしている人たちがいるわけです。

こうした祭りなどでの家畜の生贄は、レビ記などにも書かれる重要な宗教行事です。神への感謝を示すため、家族の繁栄やそうした良い家畜が生まれることを祈願して。また彼らが何か宗教的不浄や罪を負ったとき、それを贖うため。

したがってそれを円滑に行うための神殿の庭での商売も、それが明確に戒律に反していない以上、必要な行いだとみなされるわけです。

しかしイエスはまたもそうした行いに批判的で、聖なる神殿で商売をするなと、彼らの家畜たちを追い出してしまいました。上記の石打にされてしまいそうな女性の例とは違い、どちらかというと問題を起こしたのはイエスの方のようにも見えるエピソードです。

ただ彼の方にも言い分はあり、エルサレムの神殿の周りにはそうした供儀の家畜を用意できない貧しい人がたくさんいたそうです。またよく言われる話には、当時の商売をしていた人たちが神殿の側に多くの献金を渡しており、他の人たちが連れてきた家畜を神殿側に「そのような家畜では神に捧げるのには不適格だ」と拒ませて、強引に彼らの家畜を買わせたとも言われます。

こうした良い家畜を用意できないという事は、それまでの宗教的世界観で見ると、神の恵みを受けられていないという事です。それらをさらに翻って考えてみると、彼らが神の恵みを得られるだけの敬虔さで、律法を守っていなかったからだろうと理解されます。

現代のように家畜の繁殖や疫病などの問題に科学的な解が得られていない場合では、そうした不幸に見舞われることは神に見放されたか、罰を下されたと考えられるからです。

したがって、そのような財産を持てない貧しい人、病に侵されている人々は、現代でも一部の貧困者がそう偏見を向けられるように、彼らや彼らの親が豊かになるための努力を怠った、自己責任の問題だとみなされたでしょう。

しかし聖書でのイエスはそうした恵まれない人々か彼を頼ると、必ずその人に向き直り、その人物自身の信仰を問いかけます。彼ら、彼女らがイエスの言葉に内省しその言葉を信じると、イエスがその人に触れる、応えるなどの行為の有無は必ずしも関係なく、彼らはすぐさまに癒されました。

病気が癒された、悪霊がさった、目が見えるようになったというようなイエスのおこしたとされる奇跡は福音書の様々な箇所に見られます。信じるものがあればそれが誰であれ救う。そうしたイエスの行い、精神性を継いできたのが現在のキリスト教なのです。

このように相手がどのような人物、人種であれ、その人物個人の自由意思によって神との契約がなされる、そうする選択の権利があるというのは、現代における人権という概念の基礎となるものです。ある程度は民族宗教であるユダヤ教の文化に根差しながらも、そうした戒律の枠を外れて個人個人に信仰があるというイエスの思想が無ければ、現在の”自由”という概念も単に奴隷か市民かという以上の意味を持たなかったでしょう。

また、こうしたイエスの癒しの奇跡をうけて、キリスト教が病人や貧しい人間の救済を旨としていたことも重要です。

科学的な視点を持つ医療技術は、ともすればその時代の宗教的権威からは理解されづらく、逆に彼らの方が魔術や迷信の類だと迫害される場合もありました。もちろん、キリスト教の長い歴史ではそうしたこともあったそうですが、彼らが病人の保護を積極的に行い、彼らを診る医者、看護師に理解があったことも現代の価値観に大きく寄与しています。

元は巡礼者の宿泊施設の呼び名であった”ホスピタル”が病院を意味するようになったり、実際に修道院だった施設が貧困者や病人を受け入れ、病院となったという例は多くあります。また、現在でもキリスト教系の法人による病院経営は多く、日本でもそこかしこに見られるでしょう。

今では癒しの効果は認められないとして臨終者のみ行われているそうですが、病人の祈りを受け入れる儀式として「病者の塗油」というものが行われるなど、キリスト教という存在が来世利益による心の安寧の機能以上に、癒しの宗教であったことも見過ごせません。

キリスト教の秘儀

このように「信じるものは救われる」とするキリスト教ですが、本当にただ信じていれば救われるのかというと、難しい問題です。

信じていますと口で言うだけなら誰でも言えますし、第一にそのような事だけで本当に自分が死後に救われるとは、誰しも信じられないでしょう。さきの「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」というような厳しい言葉も投げかけるイエスの教えに、たとえそれを信じようとしている人でさえ、己を省みる場面もあるでしょう。

そうした精神的な問題に対するため、というと少し語弊があるかもしれませんが、キリスト教カトリックでは七つ、プロテスタントなどの諸派においても少なくとも二つの「サクラメント」と呼ばれる儀式を行い、それを持ってその人物あるいは信徒たちが信仰を持っているという事を明らかにします。

この「サクラメント」とは神聖な誓いという意味のラテン語で、主にキリスト教では神の見えない恩寵を具体的な形として表すこと、そのような秘儀を表す言葉として用いられます。先ほど言った通り、カトリックでは「洗礼」「堅信」「聖体」「ゆるし」「病者の塗油」「叙階」「結婚」の七つとされ、その中の「洗礼」「聖体」の二つは聖書に具体的な根拠が認められるとし、その他の宗派でも「サクラメント」と定められています。

入信に際して行われる「洗礼」。そうして得た信仰の恵みを確かなものとする「堅信」。洗礼後に負った罪を癒やすための「ゆるし」。現在では臨終にさいし、その信徒の救いを祈る「病者の塗油」。聖職者を任命する「叙階」。主に男女の将来をみとめ、神の前に誓いを立てる「結婚」。

伝統の長いカトリックでは、それぞれのライフステージに応じてこれらサクラメントが定められていることがわかると思います。こうした儀式によってその人の信仰が周囲から認められ、ときにに正されていき、見えずとも神の支えがそこにあるという事を信徒は実感できるわけです。

逆にこうした儀式によって、その人物の信仰や救いがあたかも保障されたかのように考えられてしまうのは教条主義的ではないかという批判もあり、プロテスタントの厳しい宗派では「洗礼」と「聖体」の二つのみをこの重要なサクラメントに定めています。

ブラッドボーンをプレイし様々なテキストや会話を覚えている方なら、「聖体」や「拝領」、また「聖体を拝領するのだ」というフレーズを度々目にしたでしょう。

「拝領」のカレル文字。
狩りのカレルの逆位置にも似たこの拝領のカレルは、天からの滴りを受ける杯のようにも見える。医療教会は血の医療や聖杯の探究の中に宇宙、つまり天の国を見出していたのかもしれない。

キリスト教におけるこの「聖体」の秘儀、聖体拝領とも呼ばれるものも非常に重要なもので、これによってキリストと彼を信じる人々、その神との契約は目に見える形で表されます。

上にも述べたように、それまでの民族や共同体のための物だった宗教や信仰が、個人の心の救いや自由意思のもとに行われるようになったことは、私たちの精神の歴史にとって重要な転機です。

この事実によってイエスという人物は、キリスト教の文脈の中でだけでなく、思想、哲学の分野でも重要な人物とされています。ソクラテス、仏陀、孔子と並ぶ世界の四聖人とされ、人文学の文脈から言えば彼は自由意思の概念を古代において発明した啓蒙者ともいえるかもしれません。

そうした彼からもたらされる救いの種と、その拝領の儀式。それは古代宗教から脈々と受け継がれる、神や自然と人とをつなぐ神聖な手段でもあったのです。

次回はではそのキリスト教の重要な秘儀「聖体拝領」と、そして医療教会のそれを比較し考察してみようと思います。

2022/04/24

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