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ブラッドボーンと西洋文化の血脈 結び
ながらくブラッドボーンの物語性という部分について、私にとっては大きな謎でした。
もちろん今ならばそれを理解できるというわけではありませんが、発売当初や実際にクリアしてかなり最近に至るまで、まったくこのゲームが何を表現しようとしているのか、かなりの部分で謎のままでした。
それまでの「ダークソウルシリーズ」や「デモンズソウル」のように、大まかなストリーを示すようようなOPがなく、ゲーム上重要と思われるボス敵にさえ十分な説明はなされません。さらには入手できるアイテムテキストの殆どが、このヤーナムという街やその文化の母体となった医療教会、あるいは狩人という存在の由来や説明になっており、プレイヤー自身がメッセージとして書き残せる散文的な手記のような趣です。
それらは登場人物の不確実な証言や手記からバラバラに構成される「吸血鬼ドラキュラ」のようなゴシックホラー、何かの怪異に出会った人間の痕跡を第三者が追う「クトゥルフの呼び声」のようなコズミックホラーの手法であり、このゲーム全体が謎が謎を呼ぶ不気味なホラー作品の文体で描かれていることがわかります。
ですからそのような私の個人的な感想もあって、このゲームにおける”宇宙”というキーワードについてずいぶんの間、単に”コズミック”ホラー的な要素”だと解釈していました。人々の狂気に感応する上位者たちがその”宇宙的な次元”からヤーナムの裏で暗躍し、自らの”赤子”を求め信者たちにおぞましい儀式を行わせている・・・
これらもまた典型的なホラー作品のプロットで、概ねブラッドボーンのストーリーも、こうしたように解釈されるのが一般的かと思います。
しかしこうした観点から考察を進めてみても、御存じの通りアイテムテキストやゲーム内メッセージにおいて”上位者”自身の意図というものはほとんど説明されず、そうした文書内での医療教会の多くの行為は、彼ら自身の思想と関連付けられて説明されています。コズミックホラーではおなじみの「ネクロノミコン」や「エイボンの書」のような”向こう側”の知識の痕跡がなく、ある種の種明かし的な視点がないのです。
ですからヤーナムの病的な歴史の多くは、想像を差しはさまない限りあくまで人の歴史上で完結している出来事が多く、上位者の影響があるにしてもそれをゲーム内の情報で確定させることは難しいと感じていました。
またその他にもいくつかの細々した理由から私は文章上の証拠を主にして考察を進めるやり方に個人的な限界を感じており、その他のクリーチャーデザインや背景の美術からイメージを読み取っていく手段によって補完する必要があるのだと考えていました。
しかしそうした方法についてもいくらかは問題はあり、そもそも私自身でヤーナムのような西洋風の文化に明るいほうではなく、ブラッドボーンのクリーチャーデザインについていえばさらに難解で、こちらのほうは未だに取っ掛かりさえ見いだせていないという次第です。
今回の記事シリーズにまとめたような西洋の歴史や絵画などのイメージについて私にインスピレーションをもたらしてくれたのは、若桑みどりさんの「薔薇のイコノロジー」という本との出会いでした。とにかく少しづつでもブラッドボーンの背景となっているような西洋美術の世界について参考となるような本を求め居ていた時に、幸運にも地元の図書館で出会えたことが今回の記事につながりました。
その時私が手に取って読み、現在はアマゾンで購入し手元にある版は著者の没後に出版された新・新装版で、2003年に若桑みどりさんが紫綬褒章を受けられた際に出版された新装版を、2020年にさらに装丁を新たに出版された時の物のようです。
恥ずかしながら私自身はこの著者の事をそれまでまるで知らず、この本に出合うまでは西洋美術の多くの事も、このイコノロジー(図像解釈学)という分野の事も知りませんでした。調べてみるとこの本自体が最初に出版されたのも1984年の私の生まれる何年も前ということで、あとがきなどを読み終えたあとは新鮮な驚きを感じたことを覚えています。
著者である若桑氏によると、西洋あるいは東洋に限らず様々な美術において、かなり広範にみられる共通のイメージというものが存在しており、それを特定のモチーフやその組み合わせによって読み解くことでさらに奥深い美術の世界が見られるという事のようです。
この「薔薇のイコノロジー」においては、女神ヴィーナスや聖母マリアのアトリビュートである”薔薇”というモチーフについて考え、時代や地域でそのイメージがどのように扱われているかを語っています。
もちろんブラッドボーンでは薔薇についてのモチーフは出てきていませんし、もともとフロムソフトウェアの他の作品においても、特徴的なアイテムとしては出てきますが、背景として薔薇の花があしらわれている場面は非常に少ないです。
しかしこの「薔薇のイコノロジー」ではそうしたはっきりとして描かれる”薔薇”以外にも様々な方向へと話を広げ、それに関連付けられる女性のイメージから教会の薔薇窓、その他植物紋や東洋で薔薇のように”中心の模様”として扱われた蓮や菊の紋様についても語っています。
例え表層で薔薇が描かれていなくても、母子像としてキリストを抱くマリアは多くの場合で絵画の中心として描かれ、それを抱く腕や幼子キリストのポーズは、薔薇の花のような中心から広がるイメージを持たされています。このような中心の女性や、バラや蓮に見られる中心性のシンボルとなるものは西洋東洋、キリスト教や非キリスト教においても描かれ、そこに”調和のある宇宙”が描かれているのではないでしょうか。
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それを裏付けるかのように、若桑氏は様々な絵画の中に西洋でこの世界を形作るとされた四元素、火・水・土・風の要素を見つけ出し、さらには同じ絵の中に描かれる生と死のモチーフについても交え、美術作品に描かれる宇宙の有機的な生の物語を解説しています。
書の中ではそのような宇宙的な中心性を備えた庭園文化や、植物の生命力の発露として神話的な半獣の怪物たちと植物紋のおりなす有機的な過剰さ「グロテスクの系譜」へも話を広げ、このようなモチーフの移り変わりによる美術活動の精神を語ります。
記事で引用していた酒井健氏の「ゴシックとは何か」で、若桑みどりさん訳のジョルジョ・ヴァザーリの文が引用されているように、彼女もまたゴシックの石に刻まれた植物紋について語っており、ここでもまた私たちの前に石と植物のモチーフは現れます。おそらくどのような文化でも身近にあり、その生活の中で人々に利用されてきた岩石と樹木は、美術の世界観においても欠かせないものなのでしょう。
一つの美術作品がそれを作った文化の宇宙観を表すもので、しかもその言葉は文化や言語をとわず、人のイメージに訴える力を持っている。
彼女の語る汎世界的なイメージの流れという世界は、事実、私にビルゲンワースのみたトゥメル地下遺跡に眠る宇宙へと出会わせました。そこからさらに歴史上ではこの”宇宙”や”世界”というものがどのように扱われているのかを調べ、ようやくこの「ブラッドボーンと西洋文化の血脈」を書くことが出来たという感じです。
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記事のタイトル画像にも使わせていただいている、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」は「薔薇のイコノロジー」においても解説されている名画の一つで、薔薇に象徴される宇宙的な女性像の代表でしょう。
クロノスの簒奪によって去勢を受け、海へと落ちた天空(ウラノス)の性器(あるいはその泡)から誕生したと言われている、美の女神ヴィーナス。彼女はまたトロイアの英雄アエネアスの母神であり、初期のローマ皇帝を輩出したユリウス家の祖神でもありました。
ボッティチェリはこうした神話的な絵画を描くにあたって、マルシリオ・フィチーノやその友人で詩人のアンジェロ・ポリツィアーノから着想を得たと書かれていますが、またそうしたギリシャ・ローマ神話の古典としてルキウス・アプレイウスの「黄金の驢馬」が下敷きにあったことも紹介されています。
興味深いのは、ルキウスのヴィジョンがヴィーナスではなく「大女神」だったということである。アプレイウスの本文では、この大女神はイシスの衣をまとっている、と語られているが、エジプトの女神イシスはヘレニズム時代にギリシャ・ローマ世界にひろまったとき、大地女神デメテルと同一視されるようになったのである。彼女は万物の支配者として崇拝されていたが、それは、大地女神がすべてに先き立って生まれ、すべてのものを産んだために、神々さえも彼女から生じたことから来ている。「神々からさえ崇拝される」とは、彼女がヴィーナスではなく、大女神(グラン・マードレ)であることの証明である。ただし、ゴンブリッチはこの女神はじつはヴィーナスであって、ルネサンス人もそう考えていたという事実をあげている。
じゃあ結局ヴィーナスなのかヴィーナスじゃないのかどっちなんだい、という感じなのですが、この引用部の通りある時にはエジプト文明のイシスであり、またある時にはローマ・ギリシャのデメテルであるという様々な顔を持つことが、ある意味では様々な顔をいくつも持つ女性神の性質です。
今日では生得的な女性男性というステレオタイプで語ったり、そうした属性から還元的に個人を見ることははばかられます。しかしこうした姿かたちの変わる存在、ある意味では名前の無い大女神という形によって伝えられた存在だからこそ、時代や場所をこえてミステリアスな存在として注目されてきたのではないでしょうか。
この「ヴィーナスの誕生」「ウェヌス・アナデュオメネ(海からいずるウェヌス)」というモチーフは、かなり古くから存在する題材で、火山に滅んだ街ポンペイの壁画としても残っているそうです。
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Wikipediaによると「ギリシア・ローマ古典時代には、貝は女陰の暗喩(メタファー)であった。」とあるように、女神はこの海の中から誕生した訳ですが、その自然的力は同時にこの女神の纏う衣装の一つです。彼女はウラヌスの性器が海に落ちたことを切っ掛けとし、彼女自身の力で母となり自らをこの世界に産み出したとも言えます。
産む母であり、誕生した娘でもある。婦人であり、乙女でもある。これらはまさに彼女がデメテルとペルセポネや、オシリスと閨を供にせずホルスを産んだイシスと同じ力を持つ存在であり、生命の母としての海やあらゆるものを産む大地と同じ存在であるということです。
「薔薇のイコノロジー(新・新装版)」では、この「ヴィーナスの誕生」と続きものであろうボッティチェリの「プリマヴェーラ」から花の女神フローラとされる女性を選び表紙に飾っています。
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奥の樹木によってアーチを描き、その中心に裏地が赤く表の青い布をかけ観音像のような姿で描かれるヴィーナスは、明らかに他の絵画における聖母を意識しています。
そのすぐ右側手前に明らかに他の人物とは密度の違う衣装で描かれているのが件のフローラですが、彼女の過去はゼピュロスに見初められたニンフ、クロ―リスであり、その場面はなんとすぐ右隣りに描かれています。
実はこのゼピュロスとフローラの夫婦は時系列的にはこの「プリマヴェーラ」の過去となるはずの「ヴィーナスの誕生」にも描かれているのですが、その時にはゼピュロスもフローラも密に抱き合って、むつまじくヴィーナスへ薔薇の花吹雪を送っています。明らかにこの「プリマヴェーラ」のフローラの過去としての”ゼピュロスとクロ-リス”は、彼女を見初め黒い影として付きまとうゼピュロスと、それを受け入れられず逃れようとする乙女クロ―リスとの、愛情の酷薄な面を描いています。
これもまた現代では受け入れられない価値観ですが、どうやらボッティチェリはハデスによるペルセポネの誘拐のような非道な愛によってクロ―リスからフローラへの変身が行われ、彼女の奥底に潜んでいた色香が花開く場面を描こうとしていたようにも思えます。
この絵画での花の女神フローラは、中心のヴィーナスを差し置いて明らかに描写の密度が濃く、この画の主役に躍り出ています。すらりと背筋を伸ばし目線を絵画を見る人間に合わせ、美しい女性として書かれる一方で、その衣装の花柄や花の首輪や冠はやや過剰で、腕を覆う鱗のような生地の袖は異様な雰囲気を纏わせています。
このような”グロテスク”な美についても若桑みどりさんは著書の中で扱い、何かのあしらいとして描かれていたアンカサスや唐草のような植物紋が、グロッタ(洞窟)に由来する大地の豊穣性の表現だったということを考察しています。
植物と人間、獣たちが連続的に並び、互いから互いが生まれたかのようなこのグロテスクという様式は、現代日本では醜悪さや不快な表現を表す語として使われますが、実は古代ローマの遺跡から”発掘”されたれっきとした美術様式であり、その中に潜む哲学が16世紀の人々を瞬く間に魅了した歴史を語っています。
しかし、マルチェロ・ファジォーロは、「芸術と自然の劇場」と題する論文でこの謎を次のように説いている。「アルテとナトゥーラの間の対話(ディアロゴ)のもっとも暗示に富む例……、ミケランジェロの《囚人》が”魂”と”肉体”の間の、”霊”と”物質”の間の至高のたたかいであることを我々は知っている」。「グロッタの壁には泥の雨が降っている。そこからまるでポンペイの灰のように、人やけものの姿が浮き上がっている。もしも、原初において泥がデミウルゴスによって”形成された”物質であったとするなら、今それは”変形する”物質なのだ。また石は泥と化すことによって”それ自身が生を取り戻している。ここには、オウィディウスの神話が、ルクレティウスの人類創造の歴史と結び付けられ、大地母神(テルラ・マードレ)の意味そのものと結び付けられている」(注20)。グロッタを大地の「子宮」と見る見方は、レオナルドの言説から始まっている。彼は有名な洞穴についての手記の中で、洞穴には宇宙の生成の神秘が隠されている、と書いている。
原初の泥の海や、大地の子宮としての女神。無機物と生命の中間である、貝から生まれる女神。彼女はある時代や場所ではデメテルであり、イシスであり、また他の女性の顔をもっているのかもしれません。また彼女の周囲では乙女クロ―リスから女神フローラへの変身の物語も描かれ、運命的な三女神や若々しいマルスが果実へ手を伸ばす様子も描かれます。
若桑氏の研究からは、こうした生命の営みを描き自然の創造の過程を明らかにすることが即ち美術の追求するべきことであり、その中心として、このようなすべてを産む女神の姿があったということが読み取れると思います。
しかしこの「薔薇のイコノロジー」という本のさらに面白いところは、こうした古代ローマからボッティチェリのようなルネッサンス期に至るまでの西洋の古典美術のみが扱われているばかりではなく、アラブ世界や東洋に至るまでこうした中心となる花や女性のモチーフが扱われてきたことを示し、シュールレアリズムやポストモダンアートのような現代美術へもその流れが影響を与えていると論じていることです。
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ルネ・マグリットの「集団的発明」(一九三五年)(図22)は”日常的な物体のイマージュを結合させ、変形させることによって、存在の全てにひそむ神秘を呼び覚ます”ことを目指している。
このイメージは、伝統的なそれとは逆に、下半身が女で上半身が魚である。これはブリューゲルやボッスと同じように、人間存在の下降した”低い”段階を示している。それと同時に、「みんなで考え出したもの」という表題は、太古から海に住んでいるセイレーンやオンディーンたちがまだ生きていることを示している。また、それがいまは死んで打ち捨てられ、打ち上げられていること、すなわち神話的生命力を失った「死んだ海」を表現してもいるようだ。
もちろんマグリット自身はこのモチーフの他に多くの絵画も残しています。しかしその中でも特にこの作品が数多の人にいわゆる”シュール”さを強く感じさせ、この絵画自体が多くのパロディを産んでいるのは何故でしょう。海と女性というモチーフの中に人々に特別なものを感じさせる何かがあって、それをこの絵画が巧妙な形で利用しているからではないでしょうか。
こうしたモチーフの意味づけは、おそらくもともとこうしたものに詳しくない私自身をふくめ、それほど絵画に興味をない人でも感じるかなり普遍的に通じるものだと思います。それこそ若桑氏の結びつけて論じているように、古今東西を問わずに、人類の目指していた宇宙の神秘そのものかのようにも思えます。
音楽、映像、ストーリーを映し出す映画にも度々こうした”画”は撮られ、そうした画面構成やモチーフ選び、その場面へ繋いでいくカメラワークなどが高く評価され、総合芸術として今や文化的な地位を築いています。一方でコンピューターゲームの中で、すべてが3DCGによって描写され自在に表現されるようになってから未だ日は浅く、これらの芸術文化の一つとしては、未だ批判的な意見にさらされていることは確かです。
しかし、SCEとフロムソフトウェアがタッグを組んで売り出したこの「ブラッドボーン」という作品には、PS4でのそうしたCG表現を追求したインタラクティブ性を持つエンターテイメントという以上に、豊穣の宇宙や中心の女神の神話、あるいはそれらのモチーフを逆手にとった”存在の全てにひそむ神秘を呼び覚ます”表現を試み、ゲーム文化そのものをこうした芸術文化の血脈の上に、はっきりと位置づけようという野心があったのではないでしょうか。
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2022/6/18